de54à24

pour tous et pour personne

CHANEL le vernis 73

年内最後の診察日。混雑を予想して行った待合室には、めずらしく人ひとりおらず、殆ど到着と同時に診察室に通された。いつもの通り、穏やかな主治医といくつかのことばを交わす。いつもの通り、10分も掛からない診察は滞りなく終わる。昨日デパートのチョコレート屋さんで買ったきれいにリボンが掛けられた小さなプレゼントを先生に手渡した。少し照れたように笑いながら、喜んでくれた。よいお年を、と言って診察室をで出た。

 

緑から白へ。街はまだ赤と緑のクリスマス色にたっぷりと染まっているが、日付が変わったその瞬間からは大急ぎでテーマカラーを紅白に変え、新年へ向けての支度が始まる──街の大きなクリスマスツリーを25日の夜に見に行くと、その周りには寒そうに日付が変わるのを待つツリー解体業者の姿がある。11月の後半から徐々に街中に現れるクリスマスの景色に反して、その撤収はめまぐるしく、またそれに続く年末年始の支度はものの数日(あるいはもしかすると数時間かもしれない)で行われる。そんなことを考えながら病院を出た。昨夜は朝方まで眠れず、繁忙期の宅配便に8時過ぎに起こされたため、体は少し熱っぽく、頭がぼんやりしていた。年末用の買い物をして帰ろうかと考えていたが、体調も悪いので今日はすぐに帰ることにした。帰宅後、少しの薬を飲んで横になった。眠れればいいのだが、昼間に私が眠りを捉えられたことは、ここ数年一度もない。うっすら遠のく意識にただまどろんでいた。

 

数ヶ月ぶりにマニキュアを塗った。何年も前から愛用しているシャネルのヴェルニ、ヴィオレット。研究が生活の中心にあるときには、レポートやレジュメを作成する際にキーボードが打ちにくいので、そしていくらトップコートを塗っていても本を捲るときに万が一でもマニキュアがページに付くのを避けたいので、いつも爪は子供のように切りそろえている。(本すらもまともに読めないときは、マニキュアを塗って、家中にある鉛筆を丁寧にカッターで削り、クローゼットと本棚を片付け、文章を書いて頭と気分を整理する。運がよければ、これで少し気分が落ち着き、体調も上向く。)

 

残り少しの本棚の整理がなかなか進展をみせず、そんなことをしている間、なぜかあることが気に掛かって頭から離れなかった。神谷美恵子の『極限のひと』を読んだからだろうか。私はそのことについて今まで何度か文章にしようと試みたが、いつも気負いすぎるのか途中で自分でも文章の行き先がよく分からなくなりながら消耗し、書き終えることができないままに破棄してしまうということを繰り返している。出来事としては差ほど込み入っているわけでもないはずなのだが、恐らく今から書こうということ、つまり自分が経験してきたある現実に、私自身が未だにどのような態度で向かうのかということを決めかねているのだと思う。そのために何度試みても、ひとつの文法では書き通すことができないのだろう。

 

残念ながら、今夜もまたうまくいかなかった。

 

とはいえ(蛇足だが)、内的なものをアウトプットし視覚化し、外部においてアクセス可能の状態にしておくことは、心配事や気がかりなことからちゃんと逃れるために少なからず有効であるように感じている。自分の不安をいつでも見返すことができるという環境を作っておくのは、頭や心の中を軽くしておくためにもいい方法であるような気がするし、現に書くことが達成できればそのことについて不可抗力的に考えてしまうことを防ぐことができることがある。今夜もかすみ網で取り逃したこの文章にならないなにかについても、いつかまた改めて筆硯を呵してみようと思う。

 

要するに患者の内面的な心の姿勢と社会的条件が人生における防衛的態度から彼を解放したといえよう。防衛的態度とは「死−回避的行動」であって、人生において真のよろこびをもたらすことの最も少ないものである。人間が自分の生命を守るためにできる限り少ないエネルギーを用いるようになると、「閉じた魂」は「開いた魂」になるとベルグソンはいう*1。ここではふつうの人間をしばる利害関係を超越した利他的行動があらわれるのは当然である。(神谷美恵子『極限のひと──病める人とともに』ルガール社, 1973, p. 57) 

 

ということで、拓本作業。本業になかなか戻れないのが日々のもどかしさ。前エントリーは、今年前半のゼミでのプレゼンをまとめて文章にしたもの。早く続きが書きたい。書けるようになりたい。

 

 

 

 

*1:アンリ・ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』(上・下)森口美都男訳、中央公論新社, 2003.