de54à24

pour tous et pour personne

『色彩のない多崎つくる』と(男のいない)女たち

 

ベランダに置いたプランターたちの中に育つ緑のグラデーションは、日に日に大きさを増しながらその濃淡のバラエティを豊かにしている。手のひらに乗るほどだったプチトマトの苗は、みずみずしいたくさんの実を付けながら今年もあっという間に150㎝の私の背丈を明日にでも超えゆこうとしているし、種から植えたパクチーの小葉もプランターのなかで溢れんばかりに茂っている。4つのプランターを宛がった各種ミントや3つのプランターに植えられたスィートバジルは、どれも心地の良い香りを漂わせながら陽光と風のなかに揺れている。一時期アブラムシがついてしまい枯れてしまうのではないかと思ったレモンミントやキャンディミントも、手製の殺虫剤と風通しをよくというホマレ姉さんのアドバイスのお陰であっという間に蘇った。力強いその姿たちは、この先に待ち構える長くそして深淵な夏の暑さを、幾分詩的な情緒へと変えてくれるにちがいないと思われた。それから、最初に植えたルッコラプランターですでに美味しそうなサラダをつくっており、時間差で植えた別のルッコラクレソン、僅かなラディッシュの成長を待ち構えている。それでも、最初のルッコラの後ろに植えられた二株のローズマリーが随分と窮屈そうなので、そろそろこのプランターサラダも解体収穫して、テーブルの上のおいしいサラダにするべき時期かもしれない。ベランダの一番南端の特等席に置かれた朝顔も、一度本葉を出せば、次から次へと立派な大葉を生み出し、植え付けから一月で見違えるほどに育っている。日頃、分厚い哲学書を一文ずつ紐解いては、三歩進んで二歩どころか三歩下がるような一朝一夕ではなにも変わらない世界をみて過ごしているため、植物たちがみせる日進月歩の成長は私にとってはほとんど魔法としか思えないものである。

 

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こんなに小さな世界に私の知らない様々な緑が溶け合うことなく混ざり合い生まれている。

 

村上春樹『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋, 2013)を約一週間かけてゆっくり読んだ。上梓されてからちょうど一年が経っていた。私が一番熱心に村上春樹を読んだのはもう十年以上前のことである。そのときに全集をすべて読み、同時に新刊の小説やエッセイも読んだ結果、おそらくは当時刊行されていた村上春樹の著作はすべて読んだのではないかと思う。如何せん読書が苦手な私は、いろんなものを雑多に読むよりは作家を決めてその著作をすべて読むべしと指南する文章読本の教えに準じて読書をしていたため、村上春樹のほかにも保坂和志町田康よしもとばなな小川洋子などを次から次へと読んでいった。しかし、途中で生きている作家たちは当然ながら私が一冊読み終えたそばからまた新刊を発表するため、いつまでたっても読んできたものについて振り返る余裕を得られず、また系統だったヴィジョンも描きにくかった。そのため、読書はいつまでたっても深い思考に着手できず、私は読めば読むほどにどうも落ち着かないという感覚にとらわれるようにすらなった。読み流すエンターテイメントの読書がどうやら自分には向いていないようだと悟って以来、結果的に現存する作家の作品はあまり読まなくなった。代わりに、夏目漱石三島由紀夫を読み尽くし、埴谷雄高からドストエフスキーの方へと流れていった。その流れは今も続いているが、しかし多くは小説ではなく哲学書や美術史を始めとする歴史書などの研究書への関心へと移り変わっていった。だから、いまでも村上春樹の新刊(正確にはもう新刊ではないが)を読む気になったというのは、我ながらそれなりに稀有な出来事ではあった。そしてそれは、ほかでもなく彼の作品が称賛や批判を含め実に広く人口に膾炙しているからに違いなかった──学部生のころ『のだめカンタービレ』を読んでいないと言ったら、某教官に「のだめは教養よ!」と言われたのが思い出されていた。

 

 とは言え、ただ読み流しているだけなので私には村上春樹のこの小説についての体系だった思索や論うべき微に入り細を穿つ考察は持ち合わせていない。この作品についても既に幾ばくもの論考が専門家およびその他多くの読者たちによってしたためられているが、私には残念ながらそれらに目を通すほどのハルキへの関心と愛までは備わっておらず、従って、学究的正確さについてはいまや世界中に掃いて捨てるほどいるハルキストたちに譲るとして、ここでは寧ろ夏休みを先取りして読書感想文を綴る喜び──日本の誇るべき情操教育──を思い出すことにしようと思う。

 

周知の通り『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、主人公・多崎つくる(多崎作:タザキツクル)と名前に色の名称を持つ登場人物たちを中心に展開される。主人公は東京の工科大学を出た後に鉄道会社で駅の創建や維持管理を行うエンジニアとして働いている。年齢は36歳(物語が展開している「現在」がいつなのか厳密にはわからないが、作品内で示されている文化的背景から2013年発刊当時からそう遠くはないと考えられる)で、彼やその友人の親世代の年齢などから照合すると多崎つくるの生まれは1970年代半ばすぎくらいであり、またそこからさらに逆算すると物語内の「現在」はおおよそ2000年代後半となる──つまり、この物語は東日本大震災以前のものであるということだ。

 

この時間設定に意味があるとすれば、60年代安保闘争、もしくは90年代の震災とテロがリアルタイムであったこれまでの多くの村上春樹作品が、一気におおよそ一世代分の時間を繰り上げ、これまでの小説の主人公たちを親とする子供たちの世代(≒ われわれの「現在」を生きる)の社会的、内面的葛藤に着目する準備が整ったということであろう。そして、そうでありながら東日本大震災以降に踏み入れていないのは、あくまでも愚見によると、2011年3月の巨大な自然災害と人的事故がもたらした世界の構成の変化がいかなるものであるのかという壮大なテーマを「今後」描くための下地、あるいは枕詞のような位置づけの作品が本作であるのだろうと予想する。この作品はある意味で、今後将来にとっての「過去」として準備され、また、2011年3月11日以降の「現在」と対比されるべき「過去」として用意されているのだ。それが故に、この物語はあくまでも「小さく」そして「個人的」な世界で完結している。

 

ところで、この小説を既に読んだ読者たちは、読後もっとも印象に残ったキャラクターとして誰を選ぶだろうか。それぞれに主張のある登場人物たちは、その色だけではなく、物語の終わりを迎えてもまったく回収されない多くの謎によって、実に豊かな存在感を与えられている。主人公のみならず登場する各キャラクターをひとりずつ委悉することも十分に可能であり、そこから詳らかにされるさらなる作品の姿というのもあるだろう。例えば、私が読了までもっとも手を焼いた感のある人物は、間違いなく灰色の男・灰田文紹[ハイダフミアキ]と、そして彼の父親がちょうど彼と同じ年の頃に出会ったとされる緑川という自称ジャズ・ピアニストである。彼らはどちらも、予告なしに突如物語から姿を消す。

 

灰田は、東京にある大学への進学を機に名古屋から上京した多崎つくるが大学生活で唯一友人と呼べると認めた青年である。「やがてつくるには一人の新しい友人ができた。名古屋にいる四人の友人たちに去られてから一年近く経った六月のことだ。相手は同じ大学の二歳年下の学生だった。その男とは大学のプールで知り合った」(p. 51)。灰田は物理学科(つくるは土木工学科)の学生であった。特に物語の中盤にかけて、この灰田という青年──あるいは、灰色という色──に担わされた記号的意味の多さに、読者は必ずや不可解さを抱くこととなる。なかでもそれを強調するのは、灰田がセクシャリティにおいて男性とも女性ともつかないグレイ──どちらともつかない、あるいはどちらにも属する者──として描かれていることではないだろうか。灰田は四人の男女の親友たちが唐突に去りし後を補うかのようにつくるの前に現れた。しかし、彼もまたつくるの前から姿を消す。灰田のいなくなった後の部屋につくるが求めたのは「女友達」であり、もう戻らないとわかった灰田のための場所はつくるの新しいガールフレンドが埋めた。あるいはまた、ある夜のつくるの性夢にも、灰田はつくるの高校時代の二人の親友シロ(白根柚木:シラネユズキ)とクロ(黒埜恵理:クロノエリ)とともに登場する。

 

(…)女性というものを一般的に思い浮かべようとするとき、彼女たちを抱きたいと考えるとき、自動的に彼の頭に浮かぶのは、なぜかシロとクロの姿だった。彼女たちはいつも揃って、ぴたりと二人一組で彼の想像の世界を訪れた。そしてそのことでいつも、つくるは割り切れない、陰鬱な気持ちになった。(p. 70)

 

ひとり故郷を離れてから数年後、予告もなく訪れた4人の大切な親友たちとの一方的で、唐突で、そして暴力的な別れを機に、もう長い間会うことすら適わなくなっていたシロとクロは、それでもなおつくるの意識から遠のくことはなかった。そして、つくるによって思い起こされた彼女たちはいつも二人でひとつの存在であった。そしてまた、つくるにとってはこの二人がつくりあげるイメージこそが女性一般を指し示すものとなっていた。それは彼を世界にいる実際の女性たちから遠ざける重たいイメージであり、「陰鬱な気持ち」にさせる事実だった。彼女たち二人を含む高校時代の親友たちとの別れは、つくるにとってほとんど死を意味していたのだから、いつまでも十代の終わりにいるシロとクロがもたらす「陰鬱な気持ち」もまた死の匂いに満ちあふれているだろう。そこにきて灰田はつくるにとって「跳躍」の契機であったのかもしれない。つまり、灰田は死のように重たい彼女たちの存在をつくるが受け入れるための媒体、あるいはネゴシエーターとなっていたのかもしれない──灰田は、つくるの夢のほかにも、リストの「ル・マル・デュ・ペイ」を通じて(つくるの記憶の)シロと接触する。

 

世の中には女性の姿を通してしか伝えることのできない種類のものごとがある。(p. 280)

 

ところでこの作品は、そもそもが女性の物語、あるいは女性による物語であると言っても過言ではない(私は未読だが、著者の次作の表題が『女のいない男たち』(文藝春秋, 2014)であることからも、男と女が重要な概念となっていることは想像に難くない)。女性ばかりの家庭で育った主人公が、物語の初めから終わりまで一貫して寄り添っているのは木元沙羅という年上のガールフレンドであり、そればかりかつくるが人生で大きく躓くこととなった原因(シロ)も、またそれを修復するために次にどこで何をすべきなのかを指示するのもまた女性(クロと沙羅)なのである。それに比べれば、同じく高校時代を共に過ごした大切な友人アカやアオといった男性キャラクターの存在は驚くほどにガラスの向こう側の出来事のようである。あるいはまた、赤と青というのはキリスト教図像学において二色で聖母マリアの「象徴」となるにしかすぎないように、彼らは限定的なシニフィアン的存在でしかないかのようですらある。彼らがいくら立派なオフィスや車に囲まれていても、シロやクロ、沙羅や灰田が構成するつくるの世界にとってはどこまでも二義的な重要性しかもたない存在でしかないかのようだ。

 

その意味でも、唯一灰田だけが、つくるにとって女性的な──十分に近く、暖かく、そして意味のある──存在感を持った男性であった。ここから、おそらくは「色彩のない多崎つくる」の世界とは、つくるの名前や個性の色がないという以上に、無彩色たち──シロ、クロ、灰田──がつくりだす世界というほどの意味であろうことが推測される。精巧な鉛筆デッサンやモノクロ写真は、決してカラーレスではなく、それどころか未彩色と緻密なグレースケールというポテンシャルにおいて知覚を開き、決定的に色づけされたもの以上に色彩豊かな世界をみせることが思い出される。色彩というのは、事物に固有のものではなく、むしろそれが色として認識されるときには知覚に依存するものである。そこにはちょうど、歴史と記憶ほどの違いがあるのかもしれない。

  

「しかしそれはいったいどのような人々なのでしょう? 他人の差し迫った死を肩代わりしてもいいと思うような人は?」

 緑川は微笑んだ。「彼らはどのような人々か? いや、そこまでは俺にもわからん。わかるのは、彼らはある種の色あいを持ち、ある種の濃さの光を身体の輪郭に浮かべているということだけだ。それはただの外見的な特質にすぎない。しかしあえた言うなら、これはあくまで私見に過ぎないが、跳躍することを恐れない人々ということになるかもしれないな。なぜ恐れないか、そこにはそれぞれいろんな理由があるのだろうが」

「跳躍を恐れないといっても、だいたい彼らは何のために跳躍するのですか?」

 緑川はしばらく口を閉ざしていた。(…)「死を引き受けることに合意した時点で、君は普通ではない資質を手に入れることになる。特別な能力と言ってもいい。人々の発するそれぞれの色を読みとれるのは、そんな能力のひとつの機能に過ぎない。その大本にあるのは、君が君の知覚そのものを拡大できるということだ。君はオルダス・ハクスレーがいうところの『知覚の扉』を押し開くことになる。そして君の知覚は混じりけのない純粋なものになる。霧が晴れたみたく、すべてがクリアになる。そして君は普通では見られない情景を俯瞰することになる」(pp. 88-89)

 

もう一つ、つくるは持て余した自分の陰鬱な歴史──死のトークン(徴候)──を、灰田との対話や時間のなかにあたかも溶かし込んでいくようですらあった。そうだとすれば、36歳になったつくるに対して、いまどこでどうしているのかがまったく明かされることのない灰田について、彼はもしかするとつくるの「差し迫った死を肩代わり」したのかもしれない可能性がどこからともなく感じられてくる。

 

上記の引用にある緑川という謎の男についてもあれやこれやと妄想の指し示すものが多いのだが、ここでは物語における優先順位として、灰田の次に一度は目をとめておかなくてはならない女性の登場人物について幾許かの思索を開陳してみよう。この物語を通して、終始つくるの心にまとわりついている二人の女性がいる。それは、作中でつくるが述懐するように「ぴたりと二人一組」になっているシロとクロではない。既述の通りメッセンジャー、あるいは預言者のように現れては煙のように読者の前から姿を消す「灰田と緑川」、それから既述の通りの「アカとアオ」のように、この物語ではピアノの黒鍵と白鍵のように「二つで一つ」となっているものがいくつか登場する。そのうちの一つとして指摘できる重要なセットが、シロと沙羅である。物語を通して、つくるが多くの意味でとらわれているのは白根柚木(シロ)と木元沙羅である──彼女たちは両方が名前に「木」を持つが、この二本の木のまわりをつくるはずっとぐるぐると歩き回っているのだ。ここからはこれまで以上に暴論となることを予め断っておくが、この二人の木を持つ女性についてひとつの仮説が立てられる。

 

白根柚木と木元沙羅──この二人は、全くの別人であるし、またつくる以外に実際の接点は持っていない。おそらくはまったく違うタイプの女性であるし、共通点らしきものもつくるの他にはなにもない。ただ、二人は共につくるが恋をした数少ない女性でありながら、シロによって断たれた縁は沙羅によって回復されようとするという点で、協働して世界とつくるをつなぐ存在なのである。それはちょうど、彼女たちの名前が「木」によってしりとりのようにつながり、また聖母マリアキリスト教絵画の図像学において聖母マリアの色は純潔の「白」である)という母とサラ(サラ・ラ・カリ、すなわち黒サラ。マグダラのマリアの娘)という娘をもつイエス・キリストの物語のように、つくるの物語へと立ち現れてくる。シロ(とクロ)そして沙羅は、聖母マリアと黒サラのように、こうしてつくるを「絶対的に」取り囲んでいる──あるキリスト受難劇についての研究に、次のような一節があった。

 

「復活に至るイエス」の行動を支え、彼に付き従った人々の多くは 十二人の弟子たちをはじめ、男性であった。しかし天使の受胎告知を「あるがままに “let it be” (Luke 1.38)」と受け入れ、イエスを「死んでいくために」産み育てたのは母マリアであり、「死んでいく」イエスに魂を捧げ、永遠の命を信じ、それゆえ「復活のイエス」に最初に出会ったのはマグダラのマリア(と女性たち)であった。 (古庄信「オーバーアマガウ・キリスト受難劇の上演とその意味について──劇中の女性たちの役割を中心として」学習院女子大学紀要, Mar. 2001, p.125)

 

蛇足だが、ここでキリスト教を唐突に持ち出すのは、ほとんど空想のこじつけなのである。しかし、それにしてもこの物語には他にもキリスト教を暗示するかのような記号で満ちあふれているようにもみえるのだ。クロの名前は、イエス・キリスト磔刑の最中に叫んだとされる最後の言葉のうちの一つ、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(ēli ēli lemā sabachthani)」という言葉を彷彿とさせる(ここでエリとはギリシャ語で「わが神」という意味である[マタイ福音書27章46節]し、ほかにもエリという響きは旧約聖書および新約聖書に登場する天使や預言者の名前に多く見受けられる)。あるいはまた、灰田が度々帰郷していた先は、数々の聖母マリアの奇跡が起こったとされる聖体奉仕会がある秋田であることも、ふと頭の隅を過ぎっていった。

 

キリスト教村上春樹作品にどのような影響として現れているのか(あるいは、いないのか)についてはおそらくすでに参考になる研究があると思われるが、それらを待つまでもなく、『神の子たちはみな踊る』(新潮社, 2000)などの作品自体にも明らかなように、またオウム真理教への関心や前作の長編『1Q84』の一神教を問う世界観にも窺えるように、著者にとって世界を描く上で欠くことのできないひとつのピースであることは、間違いないだろう。

 

しかし、いずれにせよ今作はあくまでも「小さく」そして「個人的」な世界で完結しているものである。あるいはまた、徹底してその枠をでないことにこの作品の真意があると言ってもいいだろう。ある意味ではどこまでも自閉的なこの作品の世界は、2011年3月11日に否応なしに「押し開かれ」、そしてそこにいるすべての人間たちが「普通では見られない情景を俯瞰することになる」のだ。

 

「(…)そえがどんなものだか、口で説明するのは不可能だ。自分で実際に経験してみるしかない。ただひとつ俺に言えるのは、いったんそういう真実の情景を目にすると、これまで自分が生きてきた世界がおそろしく平べったく見えてしまうということだ。その情景にには論理も非論理もない。善も悪もない。すべてがひとつに融合している。そして君自身もその融合の一部になる。君は肉体という枠を離れ、いわば形而上的な存在になる。君は直観になる。それは素晴らしい感覚であると同時に、ある意味絶望的な感覚でもある。自分のこれまでの人生がいかに薄っぺらで深みを欠いたものだったか、ほとんど最後の最後になって君は悟るわけだからな。どうしてこんな人生にそもそも我慢できたのだろうと思い、慄然とする」(pp. 89-90) 

 

 

 

 

 追記

上述の通り、この作品は「小さく」「個人的」で、そして徹底して「自閉した世界」によって成立していると書いたものの、正直、文学──あるいは、映画──が、自閉した世界を「描く」というのがまったくもって可能なのか、そしてもしそれが可能だとすればそれは一体どのようなスタイルによるのか、正直なところ私には皆目想像すらできていない。村上春樹に関していえば、『アフターダーク』を読んだときに、もしかすると「自閉する世界」というものの表現がそこには多少なりとも含まれているのかもしれないと考えたことがあった。『色彩のない多崎つくる〜』の場合も、主人公の人称に関してかなり意図的に「僕」「俺」「彼」「多崎つくる」などを使っているのが分かるが、一見すると英語の文章を単純に置き換えただけのような文体が、「自閉的世界」を描く上でどのような効果をもっているのか、いまのところ私には検討もつかない。それどころか、考えれば考えるほど村上春樹はむしろ首尾一貫して主人公の自閉的世界をさまざまに描き分けることを得意としている作家のように思えてきたりする。