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pour tous et pour personne

認知療法と絵画修復

私は週に一度、web上で日本と英語圏の各新聞の書評欄をスキャンすることにしている。そして大抵の場合、数誌の書評から興味のあるものを日英各一冊ずつ選び、書店か大学図書館で入手し目を通す。今週の課題図書は、文句なしに立木康介先生の『露出せよ、と現代文明は言う』である。

 

   書評 : 本よみうり堂 : YOMIURI ONLINE読売新聞
   『露出せよ、と現代文明は言う』 立木康介著

   ウラゲツ☆ブログ
   発売開始:立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』河出書房新社より

   志紀島啓 blog
   『露出せよ、と現代文明は言う』立木康介・河出書房

 

(ちなみにもう一冊読んでみたいのが、近藤佑『脳病院をめぐる人々──帝都・東京の精神病理を探索する』- 朝日新聞書評朝日新聞の書評で誤植を云々されているのが若干気の毒。紙本の読者は思っている以上に誤植を倦厭するものである。)

 

翻訳刊行当初、哲学系美術系社会学系の学生がみんなこぞって読んだトニ・ネグリ『芸術とマルチチュード』の共訳者のひとりでもある立木先生だが、随一の若手ラカン精神分析研究者でもある(生憎私は彼の授業をまだ受講したことがないままなのであるが、少し前にフランスから招聘したラカン精神分析家ピエール・ブリュノ氏の講演を聴きに行った。長くなるのでその講演の内容は割愛するが、立木先生が一応同時通訳と司会を兼ねていたためか、それともそもそもラカン派の話を理解しやすくという試み事態の問題なのか、ムシューブリュノが初めての日本にご満悦すぎたのか、かなり混乱した講演だった気がする)。立木先生の御著書は、既にいくつかあるのだが、特に中公新書『精神分析の名著──フロイトから土居健郎まで』は初めて精神分析に触れる方から、ある程度読書経験がある人が改めて全体を外観しようという時まで、いつ読んでも読み応えがある良書であるので、個人的にもお勧めする。

 

ところで、私が『露出せよ、と現代文明は言う』に傾注せずにはいられなかったのは、讀賣新聞岡田温司先生による書評の最後の一節である。

 

さらに著者は正当にも、迂回や遅延を拒絶してストレートに心の闇に接近しようとする、結果優先の実利的な認知行動療法に大きな疑問を投げかける。それはまさにファストフードと同じ発想で、画一化と平均化をもたらすだけだ。硬派の文明批評がここに産声を上げている。(岡田温司『露出せよ、と現代文明は言う』 立木康介著 : 書評 : 本よみうり堂 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 

これを読んで、承允すると同時に「ああ!そうだそうだ」と思わずひとりでことばをもらしてしまったのだが、つまり「結果優先の実利的な認知行動療法」は私にとっても甚だ疑問ばかりが残る(もっと言えば10年後か20年後かには時代遅れと鼻白むように一蹴されていればいいとすら思っている)治療法であるということである。それがラカン派の知的体系からも批判の対象となり得ることは、勉強不足の極みだが、考えてもみなかった。*1

 

実際に、認知行動療法というものを受けたことがある人(むしろ、その場に立ち合ったことがある人という方が適切かもしれない)ならば、おそらくその小学校低学年の児童たちを集めた授業さながらの様子に、病のために殆ど心身を潰滅している状況にあってこんなコドモ欺しのような治療があるものかと思った方も少なくないはずである。臨床心理士作業療法士がまるで学校の先生のように振る舞っているということ(つまり、1+1は絶対に2であると教え、いじめっ子を見つけては「泣かせちゃだめでしょ!」と善悪を教え込む──正直なところ、病苦も相まって患者の方が「善悪の彼岸」について考え尽くしていることも少なくなく、なぜ人は死んではいけないのか、なぜ人は殺してはいけないのか、そういう問題をもはや問題という対象以上に生きられた現実としている患者にとって、そのような臨床心理士および作業療法士の言動が実につまらないものと映ることは避けがたいのである──もし本当に認知行動療法を用いて誰かが心を深く病んだ者たちの前に立とうとするならば、それは稀代の大哲学者である必要があるだろう)もまた看過できない問題ではあるのだが、ここではまず、おそらく立木先生も新刊の御著書において指摘なされてるのであろう、その治療方法の理念的側面について考えたい。

 

私たちは、自分が置かれている状況を絶えず主観的に判断し続けています。これは、通常は適応的に行われているのですが、強いストレスを受けているときやうつ状態に陥っているときなど、特別な状況下ではそうした認知に歪みが生じてきます。その結果、抑うつ感や不安感が強まり、非適応的な行動が強まり、さらに認知の歪みが引き起こされるようになります私たちは、自分が置かれている状況を絶えず主観的に判断し続けています。これは、通常は適応的に行われているのですが、強いストレスを受けているときやうつ状態に陥っているときなど、特別な状況下ではそうした認知に歪みが生じてきます。その結果、抑うつ感や不安感が強まり、非適応的な行動が強まり、さらに認知の歪みが引き起こされるようになります。(認知行動療法とは | 認知行動療法センター

 

 上記は独立行政法人 精神・神経医療センターのサイトからの抜粋である。認知行動療法について調べようと思うと本であれネットであれ大体このような記述と出会うことになる。もちろん、このような記述は患者やその家族など、初めて病を患い、僅かでも早くと改善を求めながら右往左往するなかで読むテクストであるから、それが非常に簡略化されたものであることは認めよう。しかし、いくら簡略化されていてもそこにある理念は変わらない。何が問題なのかと言えば、ここではまず一点だけ指摘するに留めるが、例えば「強いストレスを受けているときやうつ状態に陥っているときなど、特別な状況下ではそうした認知に歪みが生じてきます。その結果、抑うつ感や不安感が強まり、非適応的な行動が強まり、さらに認知の歪みが引き起こされるようになります」という文章には、なんらかの原因によって通常の認知が妨碍され、それにより病気を象徴するさまざまな症状が現れるという理論が示されている。

 

このような理論の背景には、①正常なものが阻害されている=歪み・病、そのために②阻害されたものを元に戻す必要がある=歪みの更正の必要性、という少なくとも2つの原理が横たわっており、それらによって治療の方向性、すなわちイデオロギーが定められている。しかし、そこで疑問に思わずにはいられないのは、一体「歪み」とはなにか、「歪みの更正」のヴィジョンとはなんなのか、そして「治療され改善された姿」とは如何なるものなのかということである。

 

歪み──バロック(歪んだ真珠)の絵画や音楽を思い出してみてもいい。私たちはそれをバロック期を代表する作品であると称するが、それを正しくない絵画だとは思わない。西洋美術史、音楽史におけるバロック以前の様式と比較するときに、それまでの作品には見られなかったいくつかの特徴がある、という意味でバロックバロックなのである。

 

このようなことを考えるたびに、私の頭を過ぎるのは、私の先輩にあたる研究者(おそらくほとんど私と年の頃が変わらない彼女を私はとても尊敬している)が長年探究を続けておられる絵画の修復についての哲学と倫理である(Cf. CiNii 論文 -  田口かおり「美術作品修復における「中間色(Neutro)」の可能性 : チェーザレ・ブランディおよび同時代の言説を中心に」)。19世紀から20世紀にかけてのごく短い期間、美術家であり修復家でもあったチェーザレ・ブランディ(1906-1988)などによって提唱された〈中間色〉とよばれる泥のような色を用いて絵画の欠損部分を補う修復技法がイタリアで流行した。通常私たちが絵画の修復と聞いて思い描くのは、経年劣化や事故によって毀傷された作品を「もとの姿に戻す」ということであるだろう。しかし、〈中間色〉を初め、特にルネサンスの大芸術を保存しようとする修復の歴史は、必ずしも「もとの姿に戻す」ことのみを追い求めたのではなかった──とは言え、欠損部をすべて〈中間色〉で補うため、修復された絵画の表面は、外観上つぎはぎだらけとなるのであり、画家が描きあげたばかりの姿に復元されたかのような絵画を見慣れている私たちはしばらく喫驚の思いから逃れられないであろう。

 

「もとの姿に戻す」ことが修復の主流であるのは確かである。しかし問題は、なぜそこにきて〈中間色〉という選択肢が生まれ、一時であれなぜあれほどまでに流行するに至ったのかということである。議論の発端であるブランディはその当時大勢であった「もとの姿に戻す」という修復技法について、「欠損部分の空白をオリジナルの部分と判別がつかないほどの精密さで埋めることで、外観の統一的な美の回復を目指す」ものであるということに留意しながら、そこには修復士の過剰な美的判断および介入が認められるとし、それを「美的修復」あるいは「修復的介入」と呼んで批判した。

 

修復が絵画に対する「介入」であることを私たちは改めて思い出したい。修復ということばには、認知行動療法と同様に、元の姿にもどすこと、そして元の姿に戻すということが今の状態よりも正しいということ、そのような価値判断が含まれている。しかし、元に戻すべきその作品、その認知とはなんなのだろうか?16世紀に制作された一枚の絵画の、病気を患う前の正常な認知の、本当の姿とは何なのか?歪んでいない認知など、そもそも存在するのか?修復が行われるのは一度や二度ではないし、人は誰しも時の経過とともに成長し、それに伴い心身の様態を変化させて生きる。だとすれば、元の姿とは、最初の修復以前のことなのか、それとも直前の修復以前のことなのか。5年10年、またそれ以上にわたって病気を患っているひとの元の姿とは、そもそも理念的にですら存在するものなのか。

 

ブランディはその絵画修復思想において、時間というものを考慮せずにはいられないことに思い当たった。芸術作品には複数の時間、すなわち「多重の時間軸──作品制作時、過去の修復介入時、現在の介入時、未来」が常に内包されている。だとすれば、絵画の表面にある欠損は、絵画の「生」の痕跡であり、絵画が多重の時間軸を生きてきた証である。それを単に(修復士が絵画に向かう時点における)美的判断に拠って人工的に無理矢理に覆い隠してしまうことは、多重な時間軸を絡めあいながら生命を存続させる作品に対する強襲であり冒涜ではないか──そのとき絵画は、絵画自身の時間軸から引き剥がされ、修復士という人間の時間に強制的に同化させられるのである。つまりブランディにとって〈中間色〉は「作品の「生」の歴史、いわゆる「生命時間」の尊重を基盤にした介入の可能性」であったのである。

 

芸術を有機物として捉えなおしたブランディは、その「生」の痕跡でもある欠損部分へ介入することには、作品固有の時間軸を侵す危険性が伴うと考える。こうして、作品本来の「生」の過程における多重の時間軸を尊重するために、オリジナルの技法と修復箇所を、異なる時間性の重なりとして視覚化する「中間色」の技法が生まれたのである。(田口かおり「修復における「中間色(Neutro)」の可能性──チェーザレ・ブランディおよび同時代の言説を中心に」pp. 121-122)

 

私たち人間とは異なる作品固有の時間性、私のものとは異なるあなたの時間性。

 

精神疾患患者において病因、または症状の原因となっていると考えられ、認知行動療法が更正しようと試みている「認知の歪み」とは、ブランディが格闘したこの絵画の欠損、傷、痕跡ととてもよく似ている状況にあるのではないか。それを欠損と呼ぶのは、作品を風化してゆく物理的存在と捉えているが故であり、ブランディのようにそれを人間の髪の毛や皺のように有機的な存在の証だと考えるのならば、それは欠損ではなく、その絵画作品のアイデンティティを構成する痕跡である。それと同様に、認知の歪みもまた、私やあなたのアイデンティティであり、生存と生命の証なのではないだろうか。