de54à24

pour tous et pour personne

奇跡と花

 

熱が下がってから、なにか飲むものや果物を買いに駅の方まで出ることにした。二月の陽は暖かく、やがて梅や桜の開花があちこちを賑わせるのだろうという予感が駅前の十字路を吹く風のなかにも見出された。北野天満宮の梅花祭ももうすぐだ。 私が桜の花よりも梅の花を好んでみるようになったのも、大学からほどないところに梅の都とも呼びたくなるような神社があったからだった。今年は見に行けるだろうか──思えば去年の今頃、学部のころに同じゼミに在籍していた一つ上の学年の女の子が、私の大学院合格を祝って梅の花をくれた。切枝をめぐって等間隔に付いた梅のつぼみが、まるでそれらがへばり付いている枝とはまったく無関係な組成であることを主張しているかのように赤く可憐であったのを今でも聢と想い出すことができる。梅をくれた彼女は、花に添えて蓋のついた小さな小瓶を手渡してくれた。その小瓶には「miracle」と書かかれており、中には小さく折りたたまれた紙片が沢山入っていた。その紙片にはゼミの学友たちや指導教官がメッセージを認めており、なにか特別な時にでも一つとりだして開けて見てほしいとのことだった。まるで小学生の女の子の戯びのような小瓶に入ったおみくじは、私をこれから進学する知らない場所へと後押ししているようでもあった。

 

今も机の上にそっと飾られている「miracle」をつくった彼女は、読書を愛する素敵な雰囲気をもった女性で、ウォン・カーウァイ監督の『恋する惑星』(1994)に出ていた王菲にとてもよく似ている。読書を示す女神のアイコンがあるとすれば、それはきっと彼女のポートレートに違いない。彼女は在学中よりよくいろいろな小説の話をしたが、最後に話したときに彼女の心を満たしていたのは、堀江敏幸『熊の敷石』であった。なにかとても大切なことについて語るようにして大好きな作品の大好きな箇所について話す彼女の姿を、私は何度となく写真に収めたいと思った。彼女の声には、命のないところにいつの間にか命を灯してしまうような、どことなく神秘的な色合いがあった。そういえば、「miracle」の彼女は今月結婚するのだった。あの子なら和装がとびきりに似合うだろう──そんなことを思い出しながら、よく行く花屋に寄って、二輪の白いガーベラと小さなつぼみのついた一輪の赤いラナンキュラスを買った。

 

なぜこんなことをつらつら思い出すのか。煙草を持つ女性の左手に、紫色の石のついた銀の指輪が鈍い光を放っている。二月生まれか、と彼は思う。妻もアメジストの指輪をすることがあった。誕生日に彼が贈ったものだ。これを身につけていると、かならずいいことがある、お守りなんだから長生きできるかもしない、百歳まで生きられそうよ、と妻は根拠もなしによくそう言っていた。

 

堀江敏幸「スタンス・ドット」『雪沼とその周辺』, 新潮社, 2007, p. 34)

 

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数日前の夕方、日が落ちると間もなく寒さが微かな重みを空気に落とすころ、見慣れた駅の前に降り立った。オフシーズンの平日ということもあり、いつもは無闇にごった返す駅の周辺も心持ち閑散としていているようにみえた。駅ビルに隣接する大きなホテルの一室に来るようにと言われていた。まわりこんで駅の東側のほうへ向かい、ホテルのロビーへ入ると、控えめに設えられた照明と贅沢なソファーに身を委ねたビジネスマンたちや旅行客と思われる人々がそれぞれに談笑したり、手元のケータイをいじったりしていた。何度か訪れたことのある場所だったが、思えばそれも何年も前のことであった。それにも関わらず少しも古くなるところがない空間は、どことなくSFの一節を吹き付けられたような趣であった。思えば、隣る原広司設計の駅舎も尽く近未来的で、時間の経過を一切受け付けないといった風の頑なさが備わっていた。この駅の周辺は、この街全体の思想を一層先鋭化することによって成立しているようなところがある。

 

私の胸の前に組まれた両腕のなかには、火事になったら一番に持ち出すと決めていた愛犬の遺骨の入った陶器の壺が抱えられていた。ほんの2日前にこの骨壺を引き取りたいという旨の連絡が母からあったのだ。あまりに急であったので、おそらく両親は私が蔵書や愛用の三台のmac、通帳やパスポートなどよりもずっと深く常日頃から遺骨となった愛犬を生活の中心に感じていることまでは想像していないのであろうことが察せられた。しかし、感情に関することを話す気分には到底ならなかったし、なにより時間がなかったので、呆然としながらも、愛犬の遺骨が何度目かの長旅を超えて、かつて家族みんなで暮らした家へと無事に戻ることができるようにと準備をした。二枚の布で順にくるみ、ちょうどよいサイズのバックに収め、そのなかには写真立てに入った写真を二枚と、鳩居堂の桜と春のお香を忍ばせた。飼い猫の一匹が亡くなったときにも、この桜のお香を持って行ったことを想い出した。

 

もうすぐ両親が10余年に及んだ海外生活に一区切りをつけ生活の基盤を日本へ戻すつもりのようで、今後愛犬と愛猫は寄り添って暖かい部屋のなかで母の手によって毎日生花や水、お香を添えられて大切にされるだろう。その意味では、愛犬の遺骨を手放すことは心配ではなかった。しかし、帰国するとはいえ、まだ月の半分は海外で生活する予定である両親のいない間、広く静かなあの家で逃げる足のない遺骨たちのことが気がかりではあった。

 

久しぶりに両親と食事をした。「天然ボケ」ということばがあって随分と救われている類の人間である母とそれを淡々を観察しては私に報告してくる父の日々のことを聞きながら、飲んでいるビールを吹き出しそうなほどに大笑いした。ひとしきり笑ったあとには日本を囲む諸外国との政治や自民党及び首相への不信についてを小一時間ほど話し合ったところで会はお開きとなった。こと外政に関することとなると、両親の仕事の関係上、いかなる与党のいかなる政策に対してもかなりシビアな批判を抱かざるを得ないのだが、それに輪を掛けて父と私の立場や見解と母のそれとがしばしば食い違うことには頭を抱えている。一定の自由と出来る限り広い公正さを求める父と私に対して、母はひとつひとつの家庭の安全を第一に考えている。保守的立場のほうが国防に対してはよりラディカルな保安政策を求めるようになる理由も母をみていると理解できなくはない。しかしそれと同時に、母のような立場の要求をできるだけ満たすかたちで最小限の戦力および武力保持の実現──という半ば以上に矛盾した要求──を真摯に考えている人間を、顔の皮の厚い政治家たちから見つけ出さなければならない難しさを改めて思わずにはいられない。政治といえば新聞紙面ではなく、フーコーやアタリ、アガンベンといったアクチュアルではあるものの今日明日の政治からはやはり多少距離のある哲学的思索がまっさきに思いつく私にとっては、アジア諸国をめぐる仕事に従事して毎日を生活する両親から聞くこのような話にはいつも一層身につまされる思いを抱いている。

 

翌日、いくつかの寺社仏閣を訪れるつもりであるという両親について行こうかと思っていたが、翌朝目覚めると身体中がなんとも言えない鈍痛によって縛られ身動きがとれなかったため、参加を見送った。そして次に目覚めると、あの鈍痛が体中の各関節へと溜まり、いつもより一層視力がおちているような、朦朧とした世界に包まれていた。聴覚も遠く、水を口に含めば苦みを感じた。察しはついていたが、熱を測ると39度ちかくまで上がっていた。ノロウィルスかインフルエンザかとも思われたが、時間を確かめると病院は既に閉まっている時間であったので、とにかく水分をとって、いつもより多めの睡眠剤を飲み干してからふたたびベッドへ潜った。こういうときでも睡眠剤がないと眠ることがかなわないのは、もう8年ほど前からだった。欲求が正しく働かないと生命維持機能も不良となり、風邪やその他不調も起こしやすくなる上になかなか治らないのだから、睡眠の不良は精神科のみならず内科や外科的にもやはり重要な問題なのだということを熱で濁った理性が勝手に思考した。

 

何度か目覚めたが、その度に水を飲んで体温を測ると体力の限界がきて再三度ベッドに倒れ込んだ。そして何日たったのかもよくわからなかったが、とにかく何度目かの日が十分に昇ったころにようやく起き上がってキッチンまでいくと冷蔵庫から赤いグレープフルーツジュースを取り出してコップに注いだ。冷たい果汁の液体を舌の上にのせると、味覚が随分と正常に近いところまで戻っているのを感じた。体温も37度代まで下がっていた。いつも35度代半ばが平熱なので、それでもいくらか熱っぽかったが、一日前とは比べものにならないほど、身体中に安堵感が満ちていた。大人になってから風邪を引くことも少なくなったが、私は幼い頃に本当によく熱を出しては家族の日常をパニックに導いた。一度熱がでると1週間は絶対に下がらない上に、一切の飲食を拒んだためにほとんど死に際の状態となった。もちろん病院には常連となり、点滴や注射も日常茶飯事であった。一度は強制入院となり、妹の面倒をみるために仙台の田舎から祖父や叔母たちも出てきたてくれた。父は熱にうなされる小さな娘を不憫に思ってはふたつの小さな人形を買ってきてくれた。だが、私は大嫌いな病院に入院させられたことにひどく憤慨しており、父の差し出した人形を思いっきり投げ返した。「こんなもので欺されるか!」とことばにはせずともはち切れんばかりに強く思ったあの瞬間はいまでもありありと思い出すことができる。まだ4つほどであったが、三つ子の魂百までとはよく言ったもので、病中の気の強さはいまでもまったく変わらない。同じく、そのころ私が好きだったキキララを模したようなピンクとベビーブルーの洋服が着せられたかわいい二体の人形は、いまも変わらず実家の書棚の上に飾られている。

 

庸子さんはすらりと立ちあがって入り口脇の書棚に行き、意外にすばやく一冊抜き出して戻ってくると、それを床とおなじ樫材のテーブルの上にそっと滑らせた。黄ばんだ質素な紙の、薄っぺらな表紙に、赤と黒の縁取りがある。ワインレッドに近い文字で Miracles というタイトルが読めた。実山さんが手にとって頁を繰ってみると、指の腹に触れるなかの髪が、ほんのりとあたたかかった。
「なんと書いてあるんです?」と木槌さんが訊ねた。「横文字ってのは、どうも」
「ミラクル、です。奇跡、って意味です」最初から知っていたような口ぶりで庸子さんが応えた。

 

堀江敏幸イラクサの庭」『雪沼とその周辺』op. cit., p. 56)