de54à24

pour tous et pour personne

蛸と霧

 

仮にも研究者を志す者として、私は自分の感情というものとの間にいつも注意深く距離をとっている。資料を十分に公正に見、聞き、読むためにも、テクストを十分に平明に書くためにも、研究対象との間にある時間のなかで十分に思慮深く考えるためにも、自分の感情というものが、強いものであればあるほど冷静に処理しなくてはならないと考えている。しかし、元来私は、感情を表現することや自分の感情をなにかの判断のために用いることに対して少なくない「居心地の悪さ」を感じていた。それは物心ついた頃からの習慣であったし、私の性質や性格とも呼べるものだと思っている。だから何度目かに映画化されたジョー・ライト監督の『アンナ・カレーニナ』(2012)などを観ると──俳優陣が感情豊かに演じれば演じるほどに──誠に不愉快な2時間を過ごすはめになる(特にキーラ・ナイトレイの演技は「海賊」の頃から、感情そのものを表現せんとする際には必ずといっていいほどわざとらしさに過ぎる傾向がある)。ロシアの面白さとイギリスの歴史は、考えられる範囲でも食い合わせが悪いように思われたが、役者が英語をしゃべりまくっているという時点でもはやそれはともかくとすべきで、問題はトルストイの筆致が果たしてあのような映像イメージを喚起させる要素を含んだものであっただろうかということに尽きる。そう思いながら、映画が終わると同時に書斎に置かれた書棚の奥のほうに仕舞われていたはずの『アンナ・カレーニナ』を取り出した。両親のどちらかが若い頃に買いそろえた河出書房の世界文学全集第11巻だった。

 

ひとりになると、レーヴィンは、いまの独身者たちの話を思いだしながら、もう一度自分の心にたずねてみた──自分の心に、はたして彼らの話したような、自由を愛惜する気持ちがあるかどうかを。/彼はこうたずねてみて、にっこり笑った。《自由? なんのための自由だ? 幸福はただ、彼女の希望、彼女の思想を、愛し、願い、考えるということだけにあるのだ。つまり、自由というものは少しもないのだ──これが幸福というものなのだ!》/《だが、おれは彼女の思想を、彼女の希望を、彼女の感情を知っているだろうか?》こうとつぜん、ひとつの声が彼にささやいた。微笑は彼の顔から消えて、彼は考えに沈んだ。恐怖と疑惑──すべてにたいする疑惑が彼の心に現れたのである。

 

(レフ・トルストイアンナ・カレーニナ』中村白葉訳, 河出書房新社, 1965, p. 497)

 

それから今度は、感情表現のカルチャーギャップに居心地の悪さを感じることなく観ることができるものをと思い、おくればせながら『ミスト』(2007)を初めて観た。『ショーシャンクの空に』(1994)や『グリーンマイル』(1999)の監督を務め、『華氏451』の映画化も進められているとの噂のあるフランク・ダラボン監督によるスティーブン・キング『霧』(1980)を原作とした映画作品である。こどもに与えられた特別な地位や能力、信仰や愛を巡る人間たちの逡巡、十分に組み込まれたスプラッター的要素およびSF感、そして鑑賞後のすさまじい荒廃感など、スティーブン・キングらしさ満点の映画だった。

 

人間にとって驚異となる怪物を次々と生み出すなにものかとして描かれ、またタイトルにもなっている霧(ミスト)が、劇中において恐怖の時間として描かれる「夜」とともに、ヴィクトール・E・フランクルによる強制収容所体験記『夜と霧*1から取られたものであることは明らかである。この映画の本流は、人間の化学実験によって恐らくは突然変異したのであろう巨大な怪物たちの母胎を現象として/メタファーとして象徴する「霧」と人間との闘いである。次から次へと登場する危険な怪物たちの出自はほとんど伏せられており、最後のシーンを以てしても、怪物たちが退治、駆除されたかどうかはわからない。なにか国家規模の事件が起こったとき、我々がその出来事についての背景や現状を把握することが許されるにようになるのは、事実その事件の収拾がある程度まで付いてからである。このことは、間もなく3年の月日が経とうとしている東日本大震災を知っているものであれば説明を要さないであろう──実にこの映画のラストシーンは、あの震災の後、とくに福島県双葉郡にある福島第一原子力発電所の爆発の後に、たびたびテレビ画面やPCブラウザで「ニュース」として私たちが目撃していたものと大変よく似ている。事件の経緯の一切を知らされぬまま見続けることを強要するこのような視点は、いわば非映画的であり、まさしく現実的なものである。しかしその一方で、現実的な視線が捉えているものはどこまでもSF的な光景なのだから、これは真か幻か、と輪を掛けて自己の目を疑うことを人間たち(登場人物 ≒ 鑑賞者)に迫ってくる

 

私は、この映画のレヴューに関して、上映当初も、それから今回の鑑賞後も一切触れていない。加えて、私はあまりいいSF映画の鑑賞者ではないので、この映画の観るべきポイントを正しく掴んでいないかもしれない。そういう言い訳をしながら、『ミスト』を観たらこれを語らずにはいられないというある一つのポイントを優れて秀でた一冊の研究書とともにここに開陳しておこう。それはすなわち、蛸である。

        

           f:id:by24to54:20140225230115j:plain *2

 

映画開始からおおよそ25分、最初の怪物として登場するのが巨大な蛸(の足)である。ただしそれは、私たちがよく知るあのたことは随分と趣が異なっている。その巨大蛸は、吸盤と思われる箇所からまるで狩りをする空腹な熊の爪のような鋭利な刃物を剥き出しにし、獲物──人間──の皮膚を鋭く切り裂いては血を吸い肉を喰うような怪物蛸である。5分も経たぬうちに、あたりは飛び散った血の惨状と化す。その凶暴さは、「ひょっとこ」のようなコミカルさを伴って連想されるわれわれ日本人のたことはほとんど別物である。ここからすぐに思い起されるのは、たとえば『ザ・グリード』(スティーブン・ソマーズ監督, 1998)や『オクトパス』(ジョン・エアーズ監督, 2000)の巨大蛸、あるいはふたたび『パイレーツオブカリビアン*3フライング・ダッチマン号船長デイヴィ・ジョーンズによって擬人化されたいわゆるデヴィル・フィッシュ系のイメージだ。それらはどれも人間存在にとっては邪悪か残虐以外のなにものでもないといったような悪魔的「蛸」の具現化であるが、このような蛸は西洋文化が実に2500年以上も昔、古代ギリシア時代からその想像力のなかで育みながら脈々と引き継いできたイメージなのである。

 

今日までいくつかの重要な蛸(のイメージ)についての研究が残されているが、なかでも重要な文献のひとつとして、ロジェ・カイヨワ『蛸──想像の世界を支配する論理をさぐる』(1973)*4が上げられる。『遊びと人間』(1958)や『反対称──右と左の弁証法』(1973)などでもよく知られるフランスの哲学者ロジェ・カイヨワ(1913-1978)が晩年に残した『蛸』は、優れて文化人類学的な視点と手法によって、古今東西の「蛸」というイメージおよびイコンが担ってきた意味をつまびらかにしてみせる。それ以前にカイヨワは、カマキリの研究*5を行っているが、今研究では人間の想像力と蛸の邂逅において何が起こってきたのかという関心が、人間の意識を媒体としながらも、理性的動物である人間の意思からはまったく独立し、自律した「想像力」というものの姿を照らし出している*6

 

多種多様なおびただしい生物のなかには、その外観だけで人間の想像力を驚かし、同時に刺激するものがいる。このことを認めるべきだというのが最初からの私の意見である。ときには習性が加わる場合もあるが、普通は外観だけで十分である。大まかな全体の様子、あるいは輪郭のどこか一ヵ所いわくありげな部分が──種痘がつくというのと同じ意味で──人間の想像力につき、これを揺り動かしさえすればよいのだからである。(Ibid., p. 11)

 

西洋文化の起源である古代ギリシアにおいて、一度あの吸盤でくっついたらそう簡単には離れない様子や、環境に応じてからだの色を変え、いわば保護色を使い分けることによって身を護り、敵を欺き、獲物を獲得する蛸は、タフな精神力や賢さの象徴となっていた(Ibid.pp. 22-23)。しかし、キリスト教の時代に突入するとその意味は一転、蛸は人間の「敵」として言及されることが多くなった。つまり、蛸のような狡猾な人に騙されないように、といった具合である。

 

手のとどく距離までひき寄せるために違和であるように見せかけているたこに恐れもなく近づく魚のように、思慮のない人間は、誘惑や罪に陥る、と聖アンブロシウスは警告している。(…)正直な者をだますことは罪深いことである。しかもたこは、それを習慣にしている。このような論理にもとづいて、たこは、ついには悪魔そのもの、あるいは女を意味するものになってしまう。女はいつわりの楽しみで男を誘惑し、つづいて罪と地獄の罰と責苦のなかへ引きずり込んでいくものだからである。より一般的には、たこは、誘惑者、裏切り者、嘘つき、また同様に守銭奴の象徴となっている。犠牲者たちからはぎ取った富をためこんで喜ぶ守銭奴である。(Ibid., p. 23)

 

19世紀になるまで、すなわち科学がキリスト教から勝ち取った信託とともに世の定量を開始するまで、蛸は、たとえば聖バジル『異教徒の著作の効用についての講話』(4世紀)やホラポロン『聖刻文字』(古代末期エジプト)のピエルス-ワレリアーヌスによる註釈、アリストパネース『ダイドロス』、オッピアノス『漁について』などにおいて語り継がれた。そして科学の時代が訪れてからもしばらくは、科学者たちの筆の迷いのなかで、蛸は空想の世界と現実の世界を跨ぐような位置付けを与えられていた。そして既述の通り、邪知深さや(蛸の肉の消化の悪さから)人を苦しめるもの、そしてなにより、次々とこどもを孕む様子などから極端な好色の徴として蛸は描かれることとなる。注目すべきは、この好色という蛸に担わされたイメージが、距離的にもそして時間的にも遠く離れたここ極東日本においても共通のものであったということである。たとえば葛飾北斎の《蛸と海女》(1820年頃)などは、春画に詳しくない方でも一見したことがあるのではないだろうか*7

 

(ちなみに、私は葛飾北斎の蛸の絵を見るたびに、予備校の夏期講習で出会った岡山の友人のことが必ず頭を過ぎる。というのも、そう長くはない夏期講習のなかで何となく話すようになった私たちは、特に当てもなく互いの趣味関心などを夏の陽を避けながら話していたのだが、どことなく話しにくそうにしていた彼女がようやく口を開いたと思ったら、「私、シュンガに興味ある」と言ったのだ。私としては、彼女が春画に興味を抱いていても一向に構わなかったのだが、それ以前に春画をちゃんと見たこともなければ、それはどんな画家によって描かれていたものなのかもよく知らなかったのだ。そんな自分の無知を彼女に告げたまでは覚えているが、その後の彼女の反応を私は思い出せずにいる。数日後、私は日本の中等教育に掛かる議定書と共に最後のプレゼンテーションに代えて半ば鑑賞者参加型の演劇染みたことを行い(以降講師も学生も含め皆に「先生」と呼ばれるようになったのは言うまでもない)、彼女は彼女で春画とはまったく関係のないなにかでその機を乗り切った。夏期講習も終わり、彼女は岡山の実家へ帰っていき、私もまた新たなプロジェクトを考えねばというストレスに苛まれ始めた。そして間もなく、岡山の彼女から手紙が届いた。ずいぶん分厚い封筒だったが、大切に開封してみるとそこからは溢れるように葛飾北斎の《蛸と海女》(カラー)が出てきたのだった。フル画角の画像やら一部のアップのものまで、そしてそれらに添えられた手紙が、もう二度とこれらが入っていた封筒には仕舞えないというほどに詰め込まれていた。半ば唖然としながら、彼女はこの絵の研究をしたいのかとしばらく眺めていた。そして間もなく、その猥雑さには確かになにか妙な真剣さと滑稽さが入り混ざっているのに気がついた──なるほど。)

 

《蛸と海女》への言及を含め、カイヨワは『蛸』において一章分を日本の蛸についての考察にあてている(第一部第Ⅵ章)。そこで指摘されている日本における蛸の特徴については次のようなものがある。実際に目にする機会が少ないが故に蛸に関する想像力を必要以上に磨き上げてきた西洋諸国とは異なり、元来食用として親しまれてきた日本のたこは人間にとって非常に日常的なものであった。そのためたこは、当然「危険なものとは思われていなかった」(Ibid., p. 89)。しかし、ある時から「その動物が驚くべき魅惑力をもった怪物に変身し、突如として大げさな恐怖をもよおさせるもの」(Ibid., p. 89)となったことをカイヨワは指摘する。さらに、日常に飼い慣らされたたこがこのような突然の変化を遂げた経緯や背景について追いながら、この変化には西洋の怪物的蛸にも通じるなにものかが示されているに違いないことをカイヨワの慧眼は告げていく。

 

この変化は比較的短期間に、非常に限られた地域内で起こった。それはまさに、たこがよく知られていない、ともかくあまり親しまれていない地域である。よく知らないということは、たしかに、空想がわき道にそれるのに好都合な条件である。初めにその趣旨をまいたのは、発行部数の非常に多い二、三冊の書物であった。これは驚くべきことである。/しかしながらこの幻覚が、それを支える本体とはかくも不釣合いな運命に偶然出会うことになった背景には、当然、それなりの理由があったはずなのである。すなわち、この動物自体のなかにすでに、ひろく想像力に訴えて以上な効果を及ぼしうる何らかの要素が、含まれていたのにちがいないのである。しかも、この傾向は、普遍的なものであるから、たこを見なれている地方では、平凡な現実が常軌を逸した夢想を絶えず打ち消しているのにもかかわらず、そのような地方においてさえ、同じ要素が認められるにちがいないのである。(Ibid., pp. 89-90)

 

 

そもそも「蛸は概して縁起のよいもの」であり、日本人の実生活と想像のなかで「重要な役割を演じている」のだが、それを象徴的に示しているのが、たとえば京都新京極や東京目黒にある蛸薬師など、薬師如来をまつった寺にある習慣である。そこには今日でもたこの絵馬を奉納するという慣わしがあり、これには「仏が彼ら〔参拝者〕のいぼ(おそらくたこの吸盤と同一視されているのであろう)を取り除いてくれたことを感謝する」(Ibid., p. 91)という意味があるのだという*8。しかしながら、日本においても蛸はこのような親しみやすいキャラクターイメージをもとより含意していたわけではない。残されている資料などが示唆するのは、むしろ18世紀頃までの工芸品や絵画に描かれた多くの蛸は古代ギリシアのそれとよく似た「よりまじめで、愉快なものでない」イメージであり、「攻撃的で威圧的なものとして表現」されたものであった(Ibid.p. 92)。もちろん、先に触れた葛飾北斎春画、あるいは仙厓の蛸の絵、国芳の巨大蛸の版画もそのうちである。ともあれ、暗澹たるものであれコミカルなものであれ、そこには「たこを人間的に表現しようとしている点」が一貫して共通しており、これが日本独特の蛸イメージの脈動であるとカイヨワは記している(Ibid.p. 96)。

 

このように、実に変幻自在な姿とともに人間たちの想像力を呼び覚ましては攪拌してきた蛸を、いわばイメージと想像力の磁場としてカイヨワは丹念に描き出している。なかでも私の心を掴んだのは、漫画的な日本の蛸イメージはただ擬人化されているという特徴だけではなく、実のところいくら想像力をかきたてて描かれたものであっても8本という触腕の数は絶対に変更されないという事実である。よく考えてみれば──そして、映画などに込められた西洋来の蛸イメージとも日常的に接する機会を持つ現代の私たちにとってみれば──それは実に奇妙な不変性である。それについてカイヨワは、次のように述べている。「最も意外なのは、おそらく、蛸の触腕の数がふやされてさえいないことであろう。ほかならぬこの日本では、木の根と同じほどたくさんの、もつれあった腕をもったたこを、実際に見ることができるのに、である。たとえば、鳥羽水族館にある標本は、一つは五四本、もうひとつは八五本の触腕をもっている。この触腕が八五本のたこは、一九五六年に捕獲された。日本のテレビジョンは、一九七二年八月に、このたこをとりあげた番組を放送した。実際にある奇形は想像力に少しの影響も及ぼさなかった。想像力はそれ自身の空想の法則に従ったのである」(Ibid., pp. 102-103)。

 

カイヨワが言うように蛸には、人間の不思議な想像力を呼び覚ますなにか不思議な力──想像力の礎──がある。想像力とは、もちろん科学が測定するいま-ここの現実とは異なる世界のことである。それにもかかわらず、日本の蛸イメージにおいては8本の触腕という科学的現実が想像的なものとして立ち現れている。カイヨワの論考はこれ以上には及んではいないが、おそらくこの8本の触腕が科学的現実ではなく想像力を示すものとして現代まで日本人の文化に現れているのには、八という数字が神話的に特別な意味を担っていることなども影響しているだろう(ただしこれについて敷衍し十分に立証するためには、中国における蛸についてをより一層調べる必要があるだろう)。ともあれ、日本人が蛸には必ず擬人化の要素を授けていたという既述の事実が想像力と科学的現実の交差を意味していたとすれば、この絶対不変の8本の触腕もまたそれと同様の経脈にあると言えるだろう。私たちが実際に目にするたこの8本の足、あるいは8本足のたこは、現実とファンタジーが渦を巻く異次元の徴──ちょうど映画『ミスト』の中の人物にとってのあの怪物蛸と同様に──なのであることは間違いない。

 

 

 

 

*1:Viktor Frankl, …trotzdem Ja zum Leben sagen: Ein Psychologe erlebt das KonzentrationslagerMünchen; Kösel-Verlag, 1977, trans. 『夜と霧(新訳)池田香代子訳, みすず書房, 2002.

*2:ヴィクトール・ユゴー "Octopus with the initials" (1866)Art of Victor Hugo: an overview of his drawings(カイヨワ, p. cit., p. 71)

*3:1st.『パイレーツ・オブ・カリビアン──呪われた海賊たち』(ゴア・ヴァービンスキー監督, 2003), 2nd.『パイレーツ・オブ・カリビアン──デッドマンズ・チェストゴア・ヴァービンスキー監督, 2006), 3rd. 『パイレーツ・オブ・カリビアン──ワールド・エンドゴア・ヴァービンスキー監督, 2007), 4th. 『パイレーツ・オブ・カリビアン──生命の泉』(ロブ・マーシャル監督, 2011).

*4:Roger Caillois, La pieuvre, essai sur la logique de l'imaginaire, Paris; La Table ronde, 1973; trans. ロジェ・カイヨワ『蛸──想像の世界を支配する論理をさぐる』 塚崎幹夫訳, 中央公論社, 1975.

*5:Roger Caillois, Le Mythe et l'Homme, Paris; Folio, 1987 (1938); trans.『神話と人間』久米博訳, せりか書房, 1994.

*6:スティーブン・キングの原作についてはまだ確認していないが、少なくとも映画『ミスト』における巨大蛸のシーンは、以下のカイヨワによって集められたトレビウス-ニゲルという古代ギリシア人の陳述(古代地中海地方でのたこについて)に共通するところが多い。「ルークルスがバエティカの総督になったとき、かれに随行したトレビウス-ニゲルは、たこの大きさを非常に誇張している。地中海には、全長が二メートルに達するものはめったにないのに、である。彼はある報告のなかで、カルティアにいたたこの話をしている。この報告はプリニウスに大きな感銘を与えたようである。このたこは水から出て、塩づけにしていた肉や魚を貯蔵してある倉庫へ、いつも盗みに行っていた。盗まれないようにするために、普通にはないほどの高さの板囲が作られた。しかしたこは、木の上にはいのぼって、これを乗り越えた。ある夜、犬が、このたこのにおいをかぎつけた。番人たちは、その大きさに驚いて怪物を開いてにしているのだと信じた。この怪物に勝つためには、何人もの男が大奮闘をしなければならなかった。彼らは三叉のやすで怪物を突き殺した。それはまったく巨大なものであった。頭は一五アムフォラの樽ほどもあった、等々。触腕ただ一本だけの太さでも大人が両手腕をのばさねばならぬほどであった。吸盤は金盥のようで、位置かめ分の容量があった」(R. カイヨワ『蛸』op. cit., p. 20)。さらにこのような蛸についての記述を残したトレビウス-ニゲルが、「蛸が人間を死にいたらせることがありうるという風雪を流した最初の人」であるとカイヨワは述べている。トレビウス-ニゲルによれば、その蛸のどう猛さは「人間を海の底にひきずり込み、吸盤を使ってその血を最後の一滴まで吸い取ってしまうというような、最も残忍なやり方で死にいたらせる」(Ibid., p. 22)ものであるという。

*7:画像を貼り付けようかとも思ったが、初見で驚かれる方もあると思われるため、以下に検索結果のリンクを掲載する;葛飾北斎 蛸と海女 - Google 検索

*8:その他にもカイヨワは、比較的最近の日本文化における蛸の特徴、特に図像学的特徴について次のように論考している。「一般的にいって、蛸は奇妙なほど人間化されているように見える。喜びを振りまくとまではいわないが、愉快な、ぶしつけとまではいわないが、ふざけることが好きな人物の特徴を与えられて、蛸は表現されている。手ぬぐいで頭にはち巻きをして、横で結ぶという庶民的格好をしている。扇子であおいだり、小さな日傘をさしたりしているが、必要があってそうしているのではなく、気取っているのである。触腕で立って、体を左右に動かし、愛嬌をふりまく。酒場や料理屋の看板によく使われている。/看板に使われている蛸は、すわっている場合でも立っている場合でも、一本の腕には酒の徳利、もう一本の腕には肴を持っている。蛸は陽気さおよび酒の酔いの観念と結び付けられてるのである。/たこは同様に、新聞・雑誌の続き漫画にも姿を現し、不器用で、赤面している主人公として描かれている。他人のために力を貸そうという気になるのだが、間違ったことをひとり合点するし、とくにやることなすこと大失策ばかり、破局を引き起こすことしかできないのである。/坊主の沿った頭と、この動物の頭巾が似ている結果、たこはときに「蛸入道」(蛸の坊主)と呼ばれることがある。また同様に、蛸の頭巾は、尊者福禄寿の度はずれに長い、すべすべした頭の代用品として使われることもある。尊者福禄寿とは七福神の一人で、とくに長寿を象徴し、ときには老子と同一視されている神である。/これらさまざまな表現からまったく自然に浮かび上がってくるのは、半ば人間、半ばたこという雑種の生物のイメージである」(Ibid.pp. 91-92)。