de54à24

pour tous et pour personne

深き瑞々しさを湛えた最良の部分

 

飼い猫を連れての一時帰国をしている両親から段ボール4つ分の届け物があった。一つは発泡スチロールの箱で、そこには冷凍の魚がいっぱいに詰め込まれていた。もう一つの箱にはが豚の角煮ときんぴらゴボウ、ふきの煮物、キャベツの甘酢漬けなどの私が好きな母の手料理とバナナやアボカド、伊予柑などの果物、そして残りの二箱には父からの届けもので、中央公論社の世界の文学が隙間なく詰め込まれていた。増税直前、宅配業者は大変な繁忙期であり、よくうちに届けてくれる顔なじみの若いお姉さんもいつもより少しだけ疲れている様子だった。それでも荷物の取り違えもなく、荷物の一つ一つを指定された場所と時間にしっかりと届けてくれるのは、さすが日本のお国柄といった感じである。

 

 前回だったか、前々回だったか、両親が帰国をした際に、機内上映されていた映画『華麗なるギャツビー』(2013)を観たと母からメールがあった。映画自体が特におもしろかったわけではないが、映画を観たあとに書店で見かけた本の冒頭に目を通したら、中学生か高校生かの頃の私が思い起こされて仕方がなかったと、そのメールには書いてあった。「あの頃の〇〇ちゃんは、こういうことを考えていたのでしょうか」──と書く母はきっとその頃の私が毎日何を考え、何を感じているのか、日に日にわからなくなっていくと感じていたのだろうと、私は思った。今となっては脆弱な私の心身と海を隔てた距離の所為もあって互いに対立する余裕もないが、その昔──私が一番健康だった頃──、母と私はとても仲が悪かった。何をしても刺すような目でみてくる母を私は耐えられなかったし、母としても彼氏などをつくって週末はどこかで夜通し遊び歩いている私の素行を心配と嫌悪が入り交って相乗する思いで私をみていたのだろう。お陰で、私は一人暮らしを始めたとき、そんな重苦しい実家から解放されたことでまったくホームシック知らずの日々を送った。だが思えば、両親と暮らすことなどもしかするとこの先もう二度とないのかもしれない。

 

僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。
「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」
 父はそれ以上の細かい説明をしてくれなかったけれど、僕と父のあいだにはいつも、多くを語らずとも何につけ人並み以上にわかりあえるところがあった。だから、そこにはきっと見かけよりずっと深い意味が込められているのだろうという察しはついた。おかげで僕は、何ごとによらずともものごとをすぐに決めつけないという傾向を身につけてしまった。そのような習性は僕のまわりに、一風変わった性格の人々を数多く招き寄せることになったし、また往々にして、僕を退屈きわまりない人々のかっこうの餌食にもした。このような資質があたりまえの人間に見受けられると、あたりまえとは言いがたい魂の持ち主はすかさずかぎつけて近寄ってくるのである。

スコット・フィッツジェラルドグレート・ギャツビー村上春樹訳, 中央公論新社, 2006, p. 9-10)

 

フィッツジェラルドの The Great Gatsby(Charles Scribner's Sons, 1925)は高校生の頃に原著で、二十歳前後に守屋陽一訳の『華麗なるギャツビー』(旺文社文庫,1978)を、そして学部在学中にでた新訳『グレート・ギャツビー』(村上春樹訳, 中央公論新社, 2006)を何となく読んだが、最後に読んだのが殆ど10年前のことで、しかも──母の映画に対する感想ではないが──過去3度も読んでいた割に、その度にこれと言った感銘も受けず、ほとんど記憶も感想もなく読み流していたようである。そしてどうやら、サリンジャーの The Catcher in the Rye(1951)の一部の場面が The Great Gatsby と混ざりあっているようで、ギャツビーの豪勢な自宅のプールを思い出しては、突如として「池のダックはどこにいっただろうか」などと考え始めた。同じニューヨークとはいえ、ギャツビー邸はロングアイランド、ホールデンがいたのはセントラルパークだったことを、ゆっくりと記憶の糸をほどくようにして思い出した。しかし、物語についての記憶がいくら混濁していようとも、かの有名な書き出しだけは、そのページを写真イメージのように思い出せるほどだった。母が読んだのも、おそらくこの冒頭の数ページだろう(ただし、母は村上春樹が嫌いなので、おそらく光文社の小川訳で読んだのではないだろうかと思う)。

 

そんなこんなで大学時代には、食えないやつだといういわれのない非難を浴びることになった。それというのも僕は、取り乱した(そしてろくに面識のない)人々から、切実な内緒話を再三にわたって打ち明けられたからだ。僕にしてみれば、そんな役回りを何も進んで求めたわけではない。そろそろ腹を割った打ち明け話が始まりそうだなという、いつもながらの徴候が、地平線にほの見えてきたときには、しばしば居眠りを装ったり、何かに没頭しているふりをしたり、あるいはからかい半分で相手につっかかっていったりしたものである。若者の告白などというものは、あるいは少なくともその手の表現に用いられる言語は、おおむねどこかからの借りものだし、明らかに抑圧によってゆがめられているものだからだ。判断を保留することは、無限に引き延ばされた希望を抱くことにほかならない。父が訳知り顔で述べ、僕がまた訳知り顔で受け売りしているように、人間の基本的な良識や品位は、生まれながらに公平に振り当てられるわけではない。そしてもしそのことを忘れたら、ひょっとしてひどく重要なものを見落としてしまうのではないかと、僕はいまだに心配になってしまう。

(Ibid., p. 10)

 

柔らかい雨が落ちるなか郵便物を出しに下におりると、雨天にもかかわらず向かいの花畑は沢山の花をひろげていた。雨粒はひとがいない日曜日に、緑化係に変わってプランターの花々に水を注いでいるようだった。音色が聞こえてきそうな花々の風景につられて近寄ってみると、初めて見る花があった。桜のようだが、ソメイヨシノよりの倍ほどはある薄紅の花びらが、文字通り満開となっている小さな木。もっと近づいてみると、根元に添えられた名札が「アーモンドの木」と名乗っていた。アーモンドの花がこんなに桜に似ているなんて、思いもよらなかった。アーモンドの和名は扁桃だから、この木はまさしく「桜桃」と呼ぶべきものなのだ。そんなふうに驚いてみせる私を、横からイチゴの見張り番のうさぎさんが笑っていた。

 

 

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二冊あったはずの単行本の『スペインの宇宙食』が一冊しか見当たらず、気になりながらも、実家の書架から抜いてきた中原中也全集の半分を見つけ出し、小さな段ボールに詰めた。次回の両親の帰国は来月末と聞いたので、初旬にある母の誕生日のためのプレゼントを同じ箱に入れて送ることにした。数ヶ月前に母が喜びそうなちいさなピアスを見付けて買っておいたものだった。合わせて小さなメモを入れてからガムテープで封をして、近所のコンビニではなく、もう少し先のコンビニまで散歩がてら歩いたところで、実家宛に荷物を出した。その間、頭にあったのは十余年振りに帰国した飼い猫のことだった。私たち家族が海外移住した際、その少し前に妹によって拾われてきた二匹の猫のうち一匹は、日本の地を再び見ることなく約二年前に亡くなった。だから、今回の帰国は一匹だけの長旅だった。老体が長時間の空の旅に耐えられるか、誰もが心配せずにはいられなかったが、無事に生きて成田空港に降り立った。しかし猫にしてみれば、それこそ本当に「日本異国論」の気分だろう。

 

〈昼間からすっ裸のガールフレンドは、起きたばかりの僕の隣で「いいとも」を見ながら「ねえ? タモリも死ぬときがくんのかなあ? 来るよね? あたし、信じられない」と言った〉

菊地成孔『歌舞伎町のミッドナイト・フットボール──世界の9年間と、新宿コマ劇場裏の6日間』小学館, 2004, p. 40)

 

菊地成孔の「すっ裸のガールフレンド」の科白を初めて読んだ数年前、それは『歌舞伎町ミッドナイト・フットボール』を通じてもっとも衝撃をうけた科白だった。あまりに印象的だったから、私はそのフレーズを度々思い出してきた。そしておそらくは思い出す度に、そのフレーズのある風景を私なりに脚色していたらしく、久しぶりに本を開いて、菊地成孔によって書き綴られたその「タモリ」の話を改めて読んでみると、私の記憶よりもずっと簡素なものだった。この科白を読む以前、私はタモリがいつか死んでしまうなんてことを考えたこともなかったから、〈いつか死ぬのかなあ?〉なんて言われたら、「いいとも」はその日からいったいどうなるのだろうか、「いいとも」をいつも何気なくみているひとはどうなってしまうだろう──そんなことを気づけば何度となく考えていたのだ。

 

だから「いいとも」の終わりは、ある意味で、私が想定していた最悪の事態を巧妙に免れる唯一の方法であるように思われた。そして、もしかするとタモリさんがここ何年も考えていたことの一つは、自分の死と番組の終わりを関係づけてはいけないという、エンターテイナーの美学だったかもしれないと思った。役者が舞台上で泉下の客となることは美学であるが、コメディアンの場合はそうではない。笑いの熟練工たちは、実のところ役者やアイドルよりも鮮血や生命の鼓動を鑑賞者にみせてはならない存在なのである。それは、他でもなく繊細な「笑い」の存在論と「笑い」という人間の社会的機能によって運命づけられた崇高な定めである。またその反面、笑いはその多くを「想像力」に因っていると言えるかもしれない。そういえば、松岡正剛もこんなことを言っていた。

 

僕が思うに、タモリはテレビ界の村上春樹。(…)春樹の文学っていうのはマスター文学です。つまり、マスターがカウンター越しに客と接するように、春樹文学の登場人物は互いに一定の距離を保ってコミュニケーションしている。 これはタモリが『いいとも』で見せていた司会のスタンスとよく似ています。さらに村上春樹は作家として、シーンの断片を通じて出来事を暗示させる能力が非常に高い。会話から入って、明確に言及しないのに何らかの出来事を読者にイメージさせる。タモリも『寿司将棋』のように、『二二玉』って言うだけで、そこに物自体がなくても将棋の全体が寿司を通じて見えてくる。互いに才能の本質が暗示力にあって、そのものずばりといった表現をしない人たちなんです。

松岡正剛「INTERVIEW1 タモリとはナポリタンだ」, 『ケトル』太田出版, Dec. 2013, Vol.16, p. 18)