de54à24

pour tous et pour personne

「僕は夜が好きなんだよね」

完全に眠り方を忘れてしまった。その上、寝室に入りたくない。最後に目覚めてから何日たったのだろう。買ってきたコーヒーを落として暖めた豆乳に垂らせば、数時間の眠りと同じくらいの安らぎが得られるような気がしている。

 

もはや恋だのときめきだのに関心を失ってから随分経つような気がするけれど、それでも一番最近少しだけ好きだったある男の人が言ったことばが淡く思い出される時間。彼はとても夜更かしで、さらに言えばあまり眠らない人だった。なぜいつも夜に起きているのかと尋ねたら、そんなことは考えてみたことがなかったという感じで、「僕は夜が好きなんだよね」と言った。このことばを想起するのを邪魔するものがない良質な深夜には、そのことばの響きに導かれる。

 

久しぶりにいろんなブログをみていた。はてなのブログネットワークをさまようのは、数年ぶりのような気がする。大量に上がってくる新着ブログやグルーピングされた人々の記事を縦横無尽に渡り歩いていると、なんだかいつもはただすれ違うだけの見知らぬ街中の人々がしゃべりだしたらこういうことになる、というのを見せつけられているような気分になって少しだけ愉快だった。そこでは定期的に病気について描かれたブログとも、当然出会う。もちろん私の食指が伸びている方向がそうだった、というのもあるのだろうけれど、想像以上のさまざまな病気の現実があるようだった。

 

ともあれやっぱり、鬱病とか双極性障害とか統合失調症とか、そういう困難とともにある人たちの多くは、PCの明かりに耐えられるだけの体力気力があるとはいえ具合がわるいのにも関わらず、病気についてとても勉強熱心だったり、温もりすら感じてしまいそうになるようなチャーミングな文章を書いたりする人が多いなぁ、と思う。教え込まれた思考回路や感覚の外へどうにかして抜けだそうとしているすべての彼らの小さな疼きが、やがて蠢きとなり輝きとならんことを。

 

ところで私は、「なんだかんだ言って、鬱病になってよかったと思うよ、だってこの病気の本当の苦しみがわかるからね」なんて、中途半端な悟り染みたことを言う人を信用しない。こと入院中には、回復の兆しのある鬱病患者たちがラウンジに寄って顔を合わせては、話すことがなくなりそうな頃に決まってなにかへの申し訳のように「病気もまたいい経験だ」論が飛び出すのを気味の悪い思いでみていた。そんなばかな話はない。本当に思っていたとしても、本当に「この病気の苦しみ」とやらを分かったならば、そんなこと口にするだろうか。最初のエントリーにも書いたけれど、精神科が対応する病気の多くは、同じ病名を冠されたところで、同じ種類や程度の苦しみを経験するわけではない。確かに内臓疾病患者の経験と比較するよりは鬱病患者同士の経験のほうが類似することは多いかもしれない。さりとて、百人の性格の違いがあれば、百人の病態と治療のプロセスがあるのだ。ヤスパースやらビンスワンガーやらミンコフスキーやらを持ち出すまでもなく、精神の病というのは人間存在そのものに関わる現象であることは、投薬であれ精神療法であれ、この分野における治療が未だに根拠なきまま進んでいる現状がなによりも物語っている。人間は、人間の存在について完全に知ることは(少なくても科学技術を用いている時代においては)決してできないだろう。

 

そんな精神疾患の特殊性を差し引いたところで、「経験してみて初めて分かった」や「経験してないものにはわからない」といった経験万歳!主義話法はつくづく「まったくわけがわからないよ」(キューべー)としか言いようがない。そこでいう「分かった」というのはなんなのだろう。なにを「分かった」のだろう。そもそも「分かる」ということは、経験していない者の口を絶対的にふさげるようななにものなのだろうか。自分が得た経験になにか特別な価値を起きたがる人は、要するにその他にも経験というものが無限に存在し、それらのことについてはいっさい何も分からない自分ということについてはまったく顧みないかのようではないか。こういう例はあまりにも粗暴ではあるけれど、「戦争をしてみて始めて分かった」ところで、膨大な人間や文化や自然を冒涜したその現実はどうなるというのか。戦争の経験者たちが持ちうる表現は、決して経験主義的なものではない。彼らの多くは、自らの生命と存在に徹底した沈黙を課したまま生き続けることだけのようではいのか。経験してみて初めて分かるようなことは、なにかを分かったうちには入らない。経験が万能の教師であるならば、なぜ私たちは本を書き、読み、考えるのか。つまらない人生論を語り出す前に考えてほしいと願うばかりである。

 

病気に寄り添われた生活では、体調や情緒や知覚なんかもいつもと随分違って、容易に不安や混乱に陥りがちなわけだけど、それでもなにかを分かったと思っているよりは、歩むべき道を歩んでいるのではないだろうかと、時折そんなことを思う。

 

クリスマスは、大失恋のあとだろうが独り身だろうが風邪を引いていようが鬱状態のどん底にあろうが、私は大好きなので、街が作り物の華やぎに埋もれているのをまた見に行きたい。そしてクリスマスで重要なのは、音楽。お気に入りは宇多田ヒカルの"Can't Wait 'Til Christmas"と菊地成孔の"The Christmas Song"。あつい紅茶に砂糖の代わりにアマレットを注ぐと、冬の深夜にぴったりの香りが立ちこめる。今のところ最後の恋人の彼は、きっと今夜も本を読んで過ごしているのだろう。

 

 


宇多田ヒカル Hikaru Utada - Can't Wait 'Til Christmas at ...

 


菊地成孔の歌唱による 「ザ・クリスマス・ソング」 - YouTube

 

 

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CHANSONS EXTRAITES DE DEGUSTATION A JAZZ

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