de54à24

pour tous et pour personne

4階の屋上から見えたもの

元気なときもそうでないときも、なにをやってもだめなだと思う日には、いっそのことなにもしないと決めてしまうことにしている。しかし、生存している者にとってはもちろんなにもしないということほど難しいものはないため、必ずなにかしらのことはしてしまう──まったく意味も価値もないようにみえることであれ必ずなにかをせずにはいられない。そういう日のTO DOリストの一番上に、決まって登場するのが、屋上に上がることである。昼間であれ夜中であれ、煙草と暖かい飲み物をもって外にでて、マンションの屋上に上がる。屋上と言っても、アパートと呼ぶ方が正しいような3階立ての小さな建物の屋上なので、そんなに高い場所でもない。ただ、近所の小学校の校庭がそこからよく見える。夜には社会人のテニス同好会の人々がテンポよく球打ちをしているし、週末には小学生の野球チームやサッカーチームが元気な声を上げて練習をしている。その景色は、朦朧とした頭に少しの清涼感を与える。日曜の夜は、しかし、そのいつも賑やかな校庭にも正しく静寂が訪れる。大きな銀杏の木も、もうすっかり黄金の霜葉を手放していた。

 

研究分野故、昔から私の身の回りにはいわゆるアート好き、アーティスト信奉者が多い。そこにあって、彼らの話を聴きながら、たまに話をふられたりすると、私は曖昧な返事をするか、あるいはアンチ・アート、アンチ・アーティスト的心情を明言する。昔は黙るか濁すしかなかったが、スタッフとして展示会やフェスの場数を踏んだり、講義をきいたり本を広げて勉強したりするうちに、アンチを明示することができるようにもなった。それは無論、感情的、あるいは感覚的に気に入らないことに苦言を呈すことではない。

 

好き/嫌いとPro/Antiは全く異なるものである──だから、アート好きのひとたちの佚楽には安易に介入しない。私はその昔人生に迷って、都内最大手の美術系予備校に足繁く通った(りサボったり)していたこともあり、今日一端のアーティストになったその頃からの友人も少なくない。彼らとは今でも友人としての関係が続いているし、少なからず尊敬もしている。さらに言えば、私の家族には(成功しているとは言い難いが)アート界にどっぷり浸かっているものがある。しかしそんな彼らと交誼を結びはぐくみ続けるのとはまったく別に、アートというものに対しては造詣を深めれば深めるほどに批判的態度をとらずにはいられない。そしてまた、なにが問題なのだろうとしばしば自身に問いかけずにはいられない。ここでは一端専門的で歴史的な事情を脇に措くとして、私たちと同じ生活を少なからず共有しているいわゆるコンテンポラリーアート/アーティストのことだけを念頭においてみる──歴史は遡る時に初めて見える。そこでできるだけシンプルに考えようと努めると、最初に疑念の対象となるのが、いわゆる執拗に顕現化する承認欲求であるように思える。

 

もう少し具体的に言えば、「すばらしいもの」に対する表現の仕方が、どこか歪なのだ。別な言い方をすれば、アートが社会や世界に必要であることをなんらかのかたちで主張する──この作品はすばらしい、あるいはすばらしく無意味だ、などという批評を伴って存在する──「アートにしかできない」「これこそアートだ」「アート最高」──そういう必死の主張が、私には見ていられないと感じられるのだ。つまりそれは最悪だ。

 

某自動車会社に研究者として努めていたことのある父が、口には出さずとも私が研究者の道に踏み入れることに一抹の不安と躊躇いを覚えているときに言った──社会に存在するものはそれだけで必要とされている証だ。自分の研究や研究者としての自分に存在意義があるのかなどという問いは、杞憂か、あるいは自分の不安やルサンチマンへの言い訳、自身の仕事の怠慢に対する申し訳けだろう。つまり、アートやアーティストがどこか躍起になっているとき、自分の存在を社会へ主張するとき、私はそこに彼らの不安や恐れ、ルサンチマンへの言い訳、自身の仕事の怠慢に対する正当付けを見取らずにはいられないのである。道ばたの石ころを撮して、それをアートとして展示するのはまったく構わない。しかし、それを意味のある/ないアートとして再度主張するのは、あまりに虚しい。

 

アートなんかとはまったく関係もないであろう小学校の校庭が暗闇で羽を伸ばしているのをみながら、そんなことを考えていた。そして、半年に一回くらい、夜ばかりが続く太陽の昇らない数日があればいいなと思っていた。「夜の中において、夜はあたかもひとつの親密さを持っているかのようである。私たちは夜の中に入り、眠りによって、死によって休息する」とモーリス・ブランショは書いていた。「僕は夜が好きなんだよね」と言った眠らない彼ならば、 そんな魔法のような明けない夜もつくってくれるような気がした。

 

夜の中において、死ぬことは、眠ることのように、まだ世界のひとつの現在であり、昼のひとつの手段である。それは成し遂げるものの美しい限界であり、成就の一瞬であり、完成である。(…)この展望において、死ぬことは存在から私を解放させる自由との出会いに、挑戦によって、闘争によって、行動によって、労働によって、存在から逃れることを私に可能にさせ、他者たちの世界に向かった私を乗り越えることを可能にさせる断固とした分離との出会いに赴くことである。(モーリス・ブランショ『文学空間 』/ M. Blanchot, "Le Dehors, la Nuit", "Le sommeil, la nuit", in L'espace littéraire, Gallimard, 1955, p. 215)