de54à24

pour tous et pour personne

親愛なる神は細部に宿る

双極性障害研究ネットワーク(BDRNJ)のニュースレター*1をまとめて読んでいた。やっぱり、もう少し元気になったら遺伝子やゲノムについて基礎的なところだけでも勉強しよう。そういえば、物質-細胞統合システム拠点(iCeMS)についてもずっと見に行こうと思ったまま、まったく手も足もが伸びていなかった。ちなみに、BDRNJにも参加されている加藤忠史先生の御著書『岐路に立つ精神医学──精神疾患解明へのロードマップ』も少し前に拝読させていただいた。大変読みやすいながらも、日本の精神医療周辺の問題や最新の状況を垣間見ることができてとても興味深かった。歴史を含め、精神医療とはどういうものなのかを知りたい方にぜひ一読をおすすめしたい。

  

今日は、朝早くに部屋の電気の点検のために検査員が訪れた。その後、本当は用事を足しにいくついでに金曜の街を放浪してみようかと思っていたのだが、連日続いている体調の悪さに加えて、昨日から暴力的に過ぎるほどの眠気に取り憑かれていたため、街中散歩は明日以降に繰り上げた。あまりにも強度の高い眠気だが、それは睡眠とはまったく別の回路に生じているもののようで、どこで横になっても眠れない。それがさらに疲労感となっているのが身体の内側からも、そして顔を洗ったり歯を磨いたりする毎にその前に立つ鏡の中の自分の顔からも窺えた。出かけるわけでも人に会うわけでもないが、なんとなくいつもより数倍濃いようにみえる目の下の隈を隠したくなった。せめて顔だけでも元気そうならば、気持ちもいくらかは楽になるような気がしたのだ。だが、結局そんな思いもまた睡魔と倦怠によって中断された。

 

ほとんど動いていない頭でキッチンをうろうろしていると、糖分をとったら眠気もいくらか改善されるかもしれないと思いつき、昼間からずっと飴や甘いコーヒーを口の中に放り込んでいる。おかげで口の中がずっと甘ったるく、そのかったるい倦怠はもはや胃袋にまで及んでいる。晴れない胃袋は空腹を奪われ、今度は食事を摂るのが億劫になっていた。夕方頃からは、もしかしてエネルギー不足で眠いのかもしれないなどと思い出した。しかし食欲もないので、食べられるものを捜しながら小さい氷を口に含んだ。思わず、それで溜飲を下げた。

 

つらつらとこんなことを書いていると、昔友人たちとやった実験めいた遊びを思い出した。それは思考や文筆・描写についての一種の訓練であった。いろいろ試したが、記憶に残っているのは三つくらいだろうか。一つは、私のようなもの書きタイプの人間に与えられた課題で、ある決められた期間、毎日一回、それまでの24時間にあったころをとにかくすべてことばにし、文字にし、文章にするというものである。時計の文字盤を見ながら、24時間の自分の足跡をたどるにも、またその追跡を言語化するにも、慣れるまではかなり力がいる。それのおかげか知らないが、私が後にも先にも、レポートや論文を文字数の不足で思い悩んだことはないし(もちろんその逆の苦労は少なくない)、感情が昂ぶって言いたいことが山のようになったときも相手とぶつかる前に一度文章にして、本当に言うべきこと簡抜できるようになった──大抵の場合、殆どのことが書くことで抛棄される単なる一時の感情だったりする(もちろんそれはそれで大切だが、いつでもその類いの感情に十分な時間があてられるほど暇でもない)。

 

もうひとつは、イメージを使うことを得意とする人たちがやっていた遊びで、とにかく自画像を描きまくるというものであった。10枚なり20枚なり、とにかく描く。肉眼で見えないところも、虫眼鏡などをつかって掘り返して見ながら、それも描く。くちびるの厚さを定規ではかっている人もいる。自分の右目の上瞼にはまつげが何本あるのかを把握し始めるような人もでてくる。粘土のようなもので歯形をとりだす人もいる。できあがった自画像はどれも、見たことがないその人の細部によって構成されているため、モデルであり描き手であるその人の秘密が露わになっているようで、ただ見るのも恥ずかしいような気持ちになった。

 

三つ目が、なんらかの理由で上記のどちらもやることができない人を中心に行われた遊びである。これは比較的労力を必要としないし、普段の生活のためにも役に立つものであった。方法は実にシンプルで、買い物をしたときのレシートを1週間なり2週間なりの間すべて保管し、定期的に大きな画用紙やノートなどに貼り付けていくというものである。日記や家計簿をつけるのが面倒だったりする人も、割とこれならできるという感じのようであった。当然ながらレシートはそのひとのライフログとなる。おもしろいのは、ある一定期間経過するとなぜこんな買い物をしたのかを自身でも理解できなかったり、あるいは見覚えのないレシートが必ずでてくるということである。自分とは別の人格が過去に自分として振る舞っているようで、少し気持ちが悪いもとすら感じるのである。

 

どの遊びも、要するに自分の襞をひらく方法となっている。自分では知らない自分と出会うこと、その薄気味悪さと潜在可能性。一般大学の入試にはあまり役にたたないかもしれないが、美術系の大学入試にはこういう遊びがとても役にたつだろう(私は当時、圧倒的に語彙と比喩と視点の位置が自分に足らないことを思い知った)。そして細胞を知る驚きというのも、まさにこの「薄気味悪さと潜在可能性」に他ならない。どんどん近づいて、距離の存在が護られる最大限の接近とともに対象を子細に見る、ということは比喩以上の意味で、まさに対象を切り裂くことだ。おそらくどんな分野でも、この距離の壊滅の寸前に、この先進むべき道が隠されている。細部は、自ずから私たちへと語りかける過去と未来なのである。

 

Der liebe Gott steckt im Detail. (Aby M.Warburg: 1925)

 

わたしにとって重要なのは、美術史研究の広汎な読者たちがきちんと注意して、細部のみに拘泥する退屈な様式鑑定の方向に走らないようにすると同時に、さらにそれ以上に、敬虔さを欠いたディレッタンティズムに陥って自己満足的なおしゃべりを繰り広げることからは身を守るようになることだけである。過去そのものが、自らの声でふたたび自らのことを語り始めることができるようになれば、わたしたちはついに芸術を扱う文化史学を手に入れることになるだろう。(Aby M.Warburg)*2

 

 

                
                Goldmund - Corduroy Road 2005 FULL (Peaceful ... 

 

 

   

 

*1:こちらから読めます。

*2:Dieter WUTTKE, Aby M. Warburg: Ausgewählte und Würdigungen. Herausgegeben von D. Wuttke in Verbindung mit C. G. Heise. Zweite, verbesserte und bibliographisch ergänyte Auflage. Baden-Badenä Verlag Valentin Koerner, 1980. 3. Aufl, 1992, S. 614. Cf.  CiNii論文 - 加藤哲弘「ヴァールブルクの言葉『親愛なる神は細部に宿る』をめぐって」,『人文論究』関西学院大学, 53(1), 2003, pp. 15-28.