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pour tous et pour personne

破戒 ── Brake the Commandment

島崎藤村『破戒』を読む。学部時代のゼミのある後輩が『破戒』を愛読書としており、事あるごとに藤村の話をしていたことを思い出していた──もともとは現代美術の批評を専門とする指導教官のゼミであったが、代々(指導教官も含め)むしろ美術以外の文学や音楽、デザインなどに特化する者が多く、5年前に小説『魚神』で文壇デビューを飾った千早茜などもそのうちである。義務教育のほとんどを不登校児として過ごしたため正統な教育をほとんど受け損ね、そのまま高校時代を外国で過ごした私がこの国の文学を知る道標としていたのは、ほかでもなく宇多田ヒカル*1であり、そこから漏れているほとんどの近代文学は偶然出会った人々の愛読書や著作を読むことで補われている──振り返れば、私にとって大学とはそのような「人から文学への出会」の場以外のなにものでもなかったように思う。

 
『破壊』は明治39年(西暦1906年)、島崎藤村自費出版にて発表し、文名を博した自然主義文学*2を代表する長編小説である。そこには、部落人種差別を縦糸とした人間たちの苦悩や葛藤が描かれており、しばしばそれは島崎藤村の著作のなかでもっとも社会的問題意識が表出した作品であると言われている。
 
父の呼ぶ声が復た聞えた。急に丑松は立留って、星明かりに周囲を透して視たが、別に人の影らしいものが目に入るでも無かった。すべては皆な無言である。犬一つ啼いて通らないこの寒い夜に、何が音を出して丑松の耳を欺こう。
「丑松、丑末」
とまた呼んだ。さあ、丑松は畏れず慄えずにいられなかった。心はもう底の底までも掻乱されて了ったのである。たしかにそれは父の声で──皺枯れた中にも威厳のある父の声で、あの深い烏帽子ヶ嶽の谷間から、遠くこの飯山にいる丑松を呼ぶように聞えた。目をあげて見れば、空とてもやはり地の上と同じように、音も無ければ声も無い。風は死に、鳥は隠れ、清しい星の姿ところどころ。銀河の光は薄い煙のように遠く厳かな天を流れて、深大な感動を人の心に与える。さすがに幽かなな反射はあって、仰げば仰ぐほど暗い藍色の海のようなは、そこに高いを望むような心地もせらるるのであった。声──あの父の呼ぶ声は、この星夜の寒空を伝って、丑松の耳の底に響いて来るかのよう。子の霊魂を捜すような親の声は確かに聞えた。しかしその意味は。こう思い迷って、丑松はあちこちあちこちと庭の内を歩いて見た。/ああ、何をそんなに呼ぶのであろう。丑松は一生の戒めを思出した。あの父の言葉を思出した。自分の精神の内部の苦痛が、子を思う親の情からして、自然と 父にも通じたのであろうか。飽くまでも素性を隠せ、今日までの親の苦心を忘れるな、という意味であろうか。
 
島崎藤村『破戒』新潮社, 1954(2005改訂), pp. 103-104)
 
 
 
今日、ここに書かれているようないわゆる部落差別や人種差別のようなことを実際に目の当たりにする機会は、この国においては随分少なくなっているだろう──とはいえ近隣諸国との間に生じている差別問題は今でもなお生々しいし、一歩海の外にでて暮らせば日本というナショナリティ故に被差別者になることも珍しくない。法的、政治的、医療医学的、そして人々の意識的なレベルにおける変革と風化によってかなり見えにくいいものになっているとはいえ、しかし、今日でも各地の同和問題に代表される(部落)差別の水面下には未だに因習的な差別意識が息づいている。
 
 
私は小学生の頃、祖父亡き後に祖母と曽祖父がふたりで暮すこととなった仙台の田舎に引っ越した。祖母がひとりで曽祖父の面倒をみるのは大変だろうとの父の判断で、父はそれまで私たち家族が暮らした土地に単身赴任として残り、私は母とともに仙台に引っ越したのであった──母は明らかにこれを厭がっていたが、もともと両親は同じ中学の同窓でもあり、この転居によって母の実家もずっと近くなったのもあり、こどもと飼い犬を連れてひとり見知らぬ土地に参入する心細さは幾分些少なものであっただろうと思う。千坪近くある敷地に、果物や野菜が年中実る畑と庭、かつて祖父母が世話をしていた20人ほどの学生たちが暮らしていた今は空の寮や食器や農機具などが無造作に仕舞われた蔵、そしてトトロに出てきそうな「お化け屋敷」の家を少しだけよくしたような家屋があり、私たちはその二階で4年間暮らした。
 
 
その古い家にはあちこちから隙間風が入り、ねずみ取りを置けば数日で巨大なねずみがかかり、夏場にはそのねずみより大きなウシガエルが庭で遊ぶ私たちの目の前を悠々と横切っていく。風呂場には二層式の洗濯機が置かれ、トイレは水洗ではないために定期的に汲み取り車がものすごい音と臭いを引き連れてやってくる。そんな昭和を引きずった住まいではあったが、とても若いというのはそれだけで感心するもので、あっという間にそこでの暮らしにも慣れ、いまとなっては母とたくさんの時間を過ごしたその頃をとても懐かしく思う。しかし、曽祖父も婿養子の身、祖母と母ももちろん嫁にきた身であり、要するに、仮にも家族4代が一緒に暮らすその家において正統な血筋を継ぐ者は10にも満たない私しかなかったということもあり──もうこの時点で家が相当過疎化していたのだ、それが濫妨されるのも時間の問題であったのかもしれない──、家にはいつもどことなく他人行儀な雰囲気が立ち込めていたのを日々感じとってもいた。
 
 
仙台の市街地まで電車で20分程度のところにあるその町では、私が暮らしていたころなどはどこにいても田畑が見え、すれ違う人のほとんどが顔見知りという稲と野菜が生活の中心にある農村地であった。祖父の生前は我が家も田畑を何反も世話する専業農家であったし、盆暮れ正月に帰省すれば決まっておやつを持って祖父のトラックで比較的遠くにある畑に一緒の出かけては農作業の邪魔をし、家に帰ってからは収穫したばかりのネギを農協に出荷するために数本ずつ束ねて青いテープでまとめて留めるという作業をへばりついて見ていたり、たまに祖父の膝に乗って手伝ったしていた。そして少なくとも私がそこで暮らしていたころまでは、例えば近所の人たちと井戸端会議を始める祖母がまったくなにを言っているのか聞き取れないほどの東北訛がまだしっかり生きているような田舎でもあった。
 
 
そんな土地もまた、時代の風によってこれまでに何度となく国からの区画整理や新しい道路の開通、大型ショッピングモール開設による立ち退き要請などと闘うことを余儀なくされたが、いまでは例にもれず各所がすっかり新興住宅地となり、私の通った小学校もかつてよりもずっと多くの児童を抱え、つまりは完全なベッドタウンに成り代わっている。そこに暮らす人間が入れ替われば、当然そこに染み付いていた差別もまた、ある程度は自然と風化していくもののようであるというのを、数年に一度その町を訪れては感じている──その意味では、相続問題で家を負われた私たち家族もまた、その土地の新陳代謝の一部であったということであろう。
 

私が母から聞かされていたのは次のような話であった。その土地やあるいは少し離れた同じような農村地帯では、ほんの4、5世代程前まで、いわゆる癩病(ハンセン病)が続くと考えられていた血筋がいくつかあり(癩病も当時は悪魔付きや精神病の気狂いとして認識されていたという*3)、特に父の生家のある地帯は癩病を含めいくつかの理由によって「部落」とよばれ、隔離され、結婚を始めとする外部との交換を閉ざされていたという。とくに、いわゆる無癩県運動に力がいれられていた宮城県なので、癩病患者は外からも内からも被差別者としての役割を担わされていたことが容易に想像できる。

 
聞けば、チョコレートやカプリチョーザが大好きな母とオレンジ色の車に乗って田舎道を走っていた父である。今とそれほど大差ない若いふたりが結婚を決めたとき、母方の家や町では「あそこは部落だから嫁にはいくな」という話が聞こえてきていたし、また母の父(私の祖父)などは昔からの地主であった父の生家といわゆる小作人としてどうにかやってきた母の生家の「階級差」ゆえに、娘の結婚を渋っていたともいう。いずれにしても、病や階級、部落に関する差別の問題や意識は、当然ながらいくら見えなくなったところで、それが正しく解消されたことは意味しない(そしてこの因襲の成り立ちはそのまま、人種や民族、外国人差別や、あるいはこどもの世界におけるいじめ、こどもを持たない女性に対する蔑視の構造と同根のものである)。目に見えない、立証できないもの相手に闘うためには、どんな方略があり、一体なにができるだろうか──否、それよりもまず、そもそも差別やいじめという問題に対して「なにかする」ということ、それがすぐさま誰かに何らかの影響を及ぼすという可能性についてなにも疑わないという鄙陋な無垢は、許されないということを私たちは心に刻まなくてはならない。
 
 
岸政彦先生が朝日出版社第二編集部ブログで始められた連載が頭を過ぎった。
 
調査者としての私は、聞き取りをした人びとと個人的な友人になることもかなり多いし、また逆に、個人的な友人にあらためてインタビューをお願いすることも少なくない。しかし、多くの場合は、私と調査対象の方々との出会いやつながりは、断片的で一時的なものである。さまざまなつてをたどって、見ず知らずの方に、一時間か二時間のインタビューを依頼する。私と人びととのつながりは、この短い時間だけである。この限られた時間のなかで、その人びとの人生の、いくつかの断片的な語りを聞く。(…)/こうした断片的な出会いで語られてきた断片的な人生の記録を、それがそのままその人の人生だと、あるいは、それがそのままその人が属する集団の運命だと、一般化し全体化することは、ひとつの暴力である。/私たち社会学者は、仕事として他人の語りを分析しなければならない。それは要するに、そうした暴力と無縁ではいられない、ということである。

岸政彦「断片的なものの社会学」第一回 イントロダクション, 朝日出版社第二編集部ブログ

 

 
ライプニッツモナドやインド仏教の曼荼羅におけるミクロとマクロのコスモスなどを始め、古今東西、他者の生を我の生として受け止めようとする思想哲学は数限りない。それほどまでに、私たち人間は他者たるものを理解することの難しさを痛感してきたのである(その意味でも、大の猫好きである岸先生が持っている懐っこさや人と人との繋がりに対する敬意と信頼は、おそらくフィールドを渡り歩く──教室や図書館、研究室もフィールドであるとすれば。如何なる学者もフィールドワーカーである──社会学者にとって最大の財産であり能力であるように思われ、そしてまた、それはまさしく私が社会学という学問から得たいと思い願うものにほかならない)。「世界中のすべての小石が、それぞれの形や色、つや、模様、傷を持った「この小石」である、ということの、その想像をはるかに超えた「膨大さ」を、必死に想像しようとしていた。いかなる感情移入も擬人化もないところにある、「すべてのもの」が「このこれ」であることの、その単純なとんでもなさ。そのなかで個別であることの、意味のなさ」(Op.cit.)。
 
 
私は、恥ずかしながら、勉強不足も相まったところで、多くの差別問題について知るところが実に少ない。しかし、歴史に刻まれた被差別者たちからは、この「個別的であることの、意味のなさ」というものが何ものかによって取り上げられているのだろうということを強く感じている。70年代以降アクティビストと結託し、血気盛んに女性蔑視を告発してきたフェミニズムに対して、私がある種の嫌悪感すら感じるのは、多分それらの多く(もしくは最も目立つもの)が現行の社会構造を踏み台にしながら、弁証法的飛躍のない「反」イズム(Anti-ism)に留まっているからだと思う。現実以上の意味を持たされた存在の重さを前に、私たちはもう反動的なエネルギーでもって掲げる新しい主義や主張、定義や意味では決して抵抗できないということを感じずにはいられない──暴力の撲滅抹消を目的とした抵抗が新たなる暴力を生むような構造をつくり上げることがないように、なによりもまず自らの言動のなにが差別的意味合いを持つのかについて注意深くあらねばならない。それが、私たちに課せられた破戒への道である。
 
 
 
 

 

*1:Hikki's WEBSITE

*2:明治40年代に、藤崎藤村と田山花袋『蒲団』(明治40年)を中心に隆盛した文学で、島村抱月が「早稲田文学」を舞台にその理論的な牽引役を担っていた。西洋ではゾライズムとも呼ばれた自然主義(naturalism)は元来、社会的環境と生物学的遺伝を素因として人間の一生を客観的に描こうとするものであった。しかし、転じて日本の近代文学における自然主義は、反技巧・反虚構的態度によって対象を「ありのまま」に描く表面描写を理念とするものである。またそれは、その理念的性質によって後の私小説の基盤となったとされる。藤村、花袋のほかの代表的な作家には、徳田秋声正宗白鳥、岩野泡鳴などがある。

*3:近年までの医療の発展によってハンセン病は完全に治療可能な病となったが、そうではなかった折りにはしばしば患者を家や施設に隔離し、それによって一生社会から閉ざされた場所で生きねばならなくなったものもあったという。そのために、精神的にうつ状態になるなどして今日でいうところの精神疾患に患罹したひとも少なくなかったようである。またハンセン病の主症状には末梢神経の異常というものがあり、ひどくなると身体感覚の完全な麻痺や視神経の壊滅などが起こる。そのために、精神の不安定が引き金になったのかもしれない、油を被って自分の身体に火をつけ焼身自殺をとげた人の話もいくつか聞こえてきた。癩病の話になるとよくその悲惨な光景をことば少なに語る祖母や母の顔が思い出される。