de54à24

pour tous et pour personne

眠れぬ夜の娘たち

眠りのない夜と、一日中巨大な睡魔に呪われる日が、数日毎にやってくる。増薬してから約一月が経つので、そろそろなんらかの明示的変化がみえてくる頃だが、未だ通院を断念するほどにも体調が悪い日も多く、明らかに精神的に不安定なようである。そうは言っても打てる手があるわけでもないので、いまはただ現状を供手するほかない──とはいえ、たかだか二、三日に一度一晩眠れなかったり眠たすぎたりだけなので、その苦痛とて高が知れたものではある。

  

私が日本の高校をあっという間に辞めたころ、中学にあがったばかりの妹もついに不登校となり、父親もまた精神的な限界から10年以上研修員として勤めた企業を辞め、必然的に母もまた相当な心的疲労に苛まれていた。その結果、2年前に建てたばかりの真新しい家を残して、気付けば私たちはある南国の地へと移り住むこととなった。私はそこで高校三年間を過ごし、両親はいまに至る10年以上の時をその亜熱帯の街で暮らしている。眠れぬ夜に度々思い出すのは、私がそこで出会った一つ年下の女の子だ。

 

私と彼女は背丈も大体同じくらいで、共に西洋の人々からすればとても幼く見えるようで、二人で休み時間などに寄り添うようにして言葉少なにはにかみながら話をしていると、決まってドラマのクラスの名物先生が大笑いをしながら、「なんの秘密話?リトルガールズ」とからかった。しかし私たちが似ている点といえば、体のサイズと一日違いの誕生日くらいで、そのほか国籍も今日に至る文化的背景も、それから笑いのツボから泣くタイミングまであらゆる感性的価値観も違っていたと思う。そして必然的に普段学校にいるときの私たちはそれぞれ別々の友人たちと過ごしていたし、放課後や週末に一緒に出かけるよいうことも殆どまったくなかった。そのため、私たちは実質的には多くの時間を一緒に過ごすことはなかった。それでも私が彼女を高校時代の友人として思い出すのは、私たちの間にもある種の友情と呼ぶべき繋がりがあったからにちがいない。つまり、私たちの友情を育んだのは単に共有された時間ではなく、別々に過ごした夜と、そして水色の表紙の一冊のノートであった。

 

どういう経緯でそれが始まったのかいまはもう思い出せないのだが、私と彼女は、彼女が転入してきてから私が卒業するまでの約二年間、交換日記をしていた──文通に続き、私たちは手書きの交換日記を愛するダイアリストたちであった。そして、つまりはそれが私たちの交流のほとんどすべてであった。そして、なぜいま彼女を思い出すかといえば、彼女の日記はよくこのように始まっていたからだ。

  

Dearest ...
Another sleepless night. I wonder you may be also awake yet. It's a beautiful time at late night since we are alsways permitted plenty of time for thinking of our life as well as remembering the past...

  

どう足掻いても外国語学習が苦手であった私は、英語を共通語とした高校時代からすでに週の半分をホームワーク消化のために徹夜で過ごすというような生活を送っていた── 恐らく潜在的に持っていた双極性障害気質のようなものが、このあたりの生活を契機に完全に顕在化してきたのだろうと想像している。そして毎日のように、授業で会う先生たちには「昨日はちゃんと寝た?」とか、「タイムマネジメント!」とか、「私はたあなたに課題を出し過ぎているのかしら……」と言われていた。No problem! I'm totally ok,  just enjoying to take some time getting my work done ── 私も私で、毎日そんなようなことを口癖にしながらなんとか授業についていっていた。(蛇足だが、その高校では年度末に各クラスの担当教員が高校生全体のなかから、最も優秀で独創的な生徒をひとり選んで表彰するのが習わしであった。そして、その高校での一年目が終わったとき、私はめでたくHardest Working Awardという光栄ではあるがあんまりかっこよくない賞を頂いたのであった。)

 

交換日記をしていた彼女をも度々訪れていた sleepless night 眠りのない夜は、どことなく儚く哲学的で、理性と根性で雁字搦めになっていた私のものとは全く異なるもののように想像された。眠りのない夜だけではない。彼女の書く日記は、思えば私にとって外国語文学に等しいものだった。そしてそれを読む私は、翻訳が成功していない遠い国の文学を手探りで読む文学の初学者であった。例えば、そこに書かれた proud や miserable と言ったことばは、わざわざ辞書を引かなくても日本語に翻訳することはできたが、それらが意味ありげに整列されたテクストから推測すると、私が知っている語義ではどうにもつじつまが合わないように感じられた。そしてまた、辞書を引いたところでやはりしっくりこない──「林檎は美味しい」とは言っても、「林檎は不憫だ」とは言わない。詩や抽象性の高い文学ならまだしも、私たちの手の中にある日常を記した日記には到底似つかわしくない文章やことばを私は度々彼女の日記にみつけた。 

 

しかし、私はむしろその違和を悦んだし、それによって彼女をさらに魅力的に感じてもいた。そして私もまた、もともと比喩や形容詞の多い自分の文章を、第二外国語の伝わりにくさの負い目から無理矢理強制するのをやめて、心のイメージが言語化されるがままに綴った。彼女もたびたび、私の「言い方」や「文体」を引用して「これはとてもすてきな文章ね」と返してくれた。それから、時折それを彼女の母国語である中国語に翻訳してくれたりもした。だから、私たちの交換日記は、いつも英語と中国語と日本語でいっぱいに溢れかえっていた。

 

ある夜に書かれた彼女の日記は、なかでも印象的だった。その当時、伯母の家に暮らしていた彼女の両親は、数年前に離婚しており家族はみんなばらばらに生活していたようだった。日記を読んでいると彼女はどちらかと言えばお母さんっ子なのだろうという感じがしていたのだが、その日の日記には父親への想いと涙が感情のままに綴られていた。数日前に彼女の父の母、つまり彼女の祖母が亡くなったのだという。そして、遠方にいる彼女の父は、娘との電話越しに自分の母親を亡くした深い悲しみのなかでずっと泣いていたのだと彼女は書いていた。そして、「父はどうしてもひとりぼっちで、私は父を護ってあげることもできない」と、彼女も一緒に電話を持ちながら泣くしかなかったということが記されていた。

 

彩管を揮うが如くの彼女のエクリチュールは情景をとてもダイレクトに伝えるものだったため、私はその時の日記を読みながら、自分の心が固まりながらどんどん重たくなっていくのを感じた。そして、次に書くべき私の日記の最初のことばは何時間もの間、ただ空を漂っていたのを覚えている。英語は便利で、そういうときの常套句には事欠かないのだが、それでも、それらを書くにしても、私は書き出しの一言を考えるともなく迷わずにはいられなかった。結局、私はどのような日記を次に彼女へ宛てて書いたのかをまったく思い出せないのだが、きっと美辞麗句より思いのままに、と自分に言い聞かせながら書き綴ったのだと思う。しかし、思いのままに綴れば綴るほど、なにかその思いの中にザラザラしたものがあることを認めずにはいられなかった。そのザラザラは、実のところ今日もまだ風化も代謝もされずに、そのまま私のどこかに滞留している──これは一体なんなのだろう。いまのところ思い当たっているのが、彼女と彼女の父親の関係である。あるいは、こう言うべきかもしれない。彼女の父親像と、私の父親像の明らかな違い──彼女と父との距離と、私と父の距離の明らかな違い──そして、それぞれの文化における女性の意味。

  

私の父は、きっと相当なことがあるまでは私の前では泣かないし、自分の母親の死はきっとその相当なことには含まれない。でも、彼女の父親は、まだ高校生の娘の前で娘が戸惑うほどに泣いた──それも、自分の母親の死についてである。南国の文化の描写にしばしばみられる女性中心の世界があるが、ある男性が母親を亡くすということの重さと、そしてその悲しみを預けるように泣きすがる対象がまだうら若き娘であるという常識は、その時の私にとってみれば、いま以上に理解不能で、異質なものとして感じられた(彼女もまた泣きじゃくる父を抱きしめるような優しい視点で語っていたが、きっと私ならば、例えば父が理性を失うようにして泣いた夜のことは、語ろうと思ってもきっと誰にも語れないだろう)。日本が女系社会であるというのとは、まったく違う女性の強さについての意味がそこにはあるように感じられた。

 

とても小柄で安達祐実に似たベビーフェイスの彼女は10年前と寸分の違いもない笑顔や文学的センスを持ちながらも、当然ながらいまはもうすっかり大人になっている。彼女は高校をでてからヨーロッパの大学への留学を経て、現在はずっと別々に暮らしていた母親と共に生活をしながら、母国で医師として働いている。本当は、精神科医を志望していたようだが、研修中、そのあまりにも深く思い現実を目の当たりにして、自分ではとてもつとまらないと悔しそうに語っていた。そしていまは大きな病院の小児科に勤めている。もちろん小児科病棟にも命に関わる病気も少なくないから、彼女は度々、その身体では受け止めきれないほどの悲しみに出会っている。けれども、その小さなお医者さんは、もっと小さな患者さんたちにとても好かれているようで、それはまさに彼女の天職のようにみえるのだった──天職というのは自分で決めるものではないということを、彼女の姿をみるたびに思い出す。

 

                                              *   *   *

 

私はこんなふうにして、数年に一度くらいの頻度で思い出すことがある。しかし、過去に二度ほど、私のこういう思考のスタンスをみて「どうしてそんなに過去ばかり考えるの?」「なんでそんなに後ろ向きなん?」と訊くひとがあった。面食らうとはこのことである。私は過去について思い出してはいたが、それを後ろ向きだとは思ってもみなかった。それに、思い出される過去は毎回同じものであったとしても、私の心的状況や成長具合如何によってまったく異なるものであるのだから、それを単に不動なる過去とは呼べない。と、私は完全に納得していたのである。もっと言えば、真に有益な概念や何かを言い当てることのできる洗練された観念とは、すべて過去を考えるということを土壌としていると思ってる。さらには、「後ろ向き」ということばが使われ得るのは過去に対してではなく、本当に未来的(早過ぎた)存在が現在をみる姿──しかもそれはずっと逆風に抗いながらも前進を続けている──を形容するものであると思う。これはつまり、あらゆる知識人の才能としての悲観性にほかならない。
  
彼女のあの独特な儚さは、まさにその意味での「後ろ向き」であった。私の交換日記相手は、偉大な後ろ向きの天使*1であった。
 

自伝の感性とは、自己のものの見方(ヴィジョン)が会得された時ということになる。/そのことはウルフが、起源である母への感情を書くだけでなく、その母自身の感情をも書き説明しなければ自分のライフストーリーは構築できず、自己把握も不可能となっていたということであろう。自伝とは必然的に他者の伝記を組み込むため、起源から展開する自己の軌跡は、記憶を通じた過去の経験に寄り添ってこそ秩序と形を与えられるのである。起源の空白を言語によって埋め、意味を求める作業が死の直前まで続くというのも、自己の中でいったん了解された物語も、生きている限り変化し再構築され続けるということである。記憶も、現在時の自己も、その認識も、不動ではないことをこの自伝はもの語っている。(伊藤節「ウルフの「過去のスケッチ」──"新しい自伝"を読む」東京家政大学研究紀要, Vol. 52, №1, 2012,  p. 25*2

 

 

 

 

*1:ヴァルター・ベンヤミンの高名な第九テーゼ。「「新しい天使」と題されたクレーの絵がある。そこで描かれている天使は、何かから遠ざかろうとしているように見えるが、天使はその何かをじっと見つめている。彼の眼は見開かれ、口は開き、翼は拡げられている。歴史の天使はこんな姿をしているにちがいない。彼は顔を過去へと向けている。われわれには事件の連鎖が見えるところに、彼は破局のみを見る。破局は絶え間なく瓦礫を積み重ねていき、瓦礫は彼の足下にまで飛んでくる。彼はそこに留まり、死者たちを目覚めさせ、粉々に破壊されたものを寄せ集めて組み立てたいのだが、楽園から強風が吹いてきて彼の翼をふくらませ、その風があまりにも強いので、彼はもう翼を閉じることができない。この強風によって、天使は抗うこともできずに、彼が背を向けている未来へと運ばれる。その間にも、彼の目の前の瓦礫の山は天に届くばかりに堆くなっていく。われわれが進歩と呼ぶのはこの強風のことである」(Walter Benjamin, Über den Begriff der Geschichte, in Gesammelte Schriften Band I-2, pp. 697-698/ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」, 『ベンヤミン・コレクション1──近代の意味』浅井健二郎/久保哲司訳, 筑摩書房, 1995)。
Cf. 杉村靖彦「証言から歴史へ──対話の臨界に立って」[PDF

*2:CiNii 論文 -  ウルフの「過去のスケッチ」:"新しい自伝"を読む