de54à24

pour tous et pour personne

蛸と霧

 

仮にも研究者を志す者として、私は自分の感情というものとの間にいつも注意深く距離をとっている。資料を十分に公正に見、聞き、読むためにも、テクストを十分に平明に書くためにも、研究対象との間にある時間のなかで十分に思慮深く考えるためにも、自分の感情というものが、強いものであればあるほど冷静に処理しなくてはならないと考えている。しかし、元来私は、感情を表現することや自分の感情をなにかの判断のために用いることに対して少なくない「居心地の悪さ」を感じていた。それは物心ついた頃からの習慣であったし、私の性質や性格とも呼べるものだと思っている。だから何度目かに映画化されたジョー・ライト監督の『アンナ・カレーニナ』(2012)などを観ると──俳優陣が感情豊かに演じれば演じるほどに──誠に不愉快な2時間を過ごすはめになる(特にキーラ・ナイトレイの演技は「海賊」の頃から、感情そのものを表現せんとする際には必ずといっていいほどわざとらしさに過ぎる傾向がある)。ロシアの面白さとイギリスの歴史は、考えられる範囲でも食い合わせが悪いように思われたが、役者が英語をしゃべりまくっているという時点でもはやそれはともかくとすべきで、問題はトルストイの筆致が果たしてあのような映像イメージを喚起させる要素を含んだものであっただろうかということに尽きる。そう思いながら、映画が終わると同時に書斎に置かれた書棚の奥のほうに仕舞われていたはずの『アンナ・カレーニナ』を取り出した。両親のどちらかが若い頃に買いそろえた河出書房の世界文学全集第11巻だった。

 

ひとりになると、レーヴィンは、いまの独身者たちの話を思いだしながら、もう一度自分の心にたずねてみた──自分の心に、はたして彼らの話したような、自由を愛惜する気持ちがあるかどうかを。/彼はこうたずねてみて、にっこり笑った。《自由? なんのための自由だ? 幸福はただ、彼女の希望、彼女の思想を、愛し、願い、考えるということだけにあるのだ。つまり、自由というものは少しもないのだ──これが幸福というものなのだ!》/《だが、おれは彼女の思想を、彼女の希望を、彼女の感情を知っているだろうか?》こうとつぜん、ひとつの声が彼にささやいた。微笑は彼の顔から消えて、彼は考えに沈んだ。恐怖と疑惑──すべてにたいする疑惑が彼の心に現れたのである。

 

(レフ・トルストイアンナ・カレーニナ』中村白葉訳, 河出書房新社, 1965, p. 497)

 

それから今度は、感情表現のカルチャーギャップに居心地の悪さを感じることなく観ることができるものをと思い、おくればせながら『ミスト』(2007)を初めて観た。『ショーシャンクの空に』(1994)や『グリーンマイル』(1999)の監督を務め、『華氏451』の映画化も進められているとの噂のあるフランク・ダラボン監督によるスティーブン・キング『霧』(1980)を原作とした映画作品である。こどもに与えられた特別な地位や能力、信仰や愛を巡る人間たちの逡巡、十分に組み込まれたスプラッター的要素およびSF感、そして鑑賞後のすさまじい荒廃感など、スティーブン・キングらしさ満点の映画だった。

 

人間にとって驚異となる怪物を次々と生み出すなにものかとして描かれ、またタイトルにもなっている霧(ミスト)が、劇中において恐怖の時間として描かれる「夜」とともに、ヴィクトール・E・フランクルによる強制収容所体験記『夜と霧*1から取られたものであることは明らかである。この映画の本流は、人間の化学実験によって恐らくは突然変異したのであろう巨大な怪物たちの母胎を現象として/メタファーとして象徴する「霧」と人間との闘いである。次から次へと登場する危険な怪物たちの出自はほとんど伏せられており、最後のシーンを以てしても、怪物たちが退治、駆除されたかどうかはわからない。なにか国家規模の事件が起こったとき、我々がその出来事についての背景や現状を把握することが許されるにようになるのは、事実その事件の収拾がある程度まで付いてからである。このことは、間もなく3年の月日が経とうとしている東日本大震災を知っているものであれば説明を要さないであろう──実にこの映画のラストシーンは、あの震災の後、とくに福島県双葉郡にある福島第一原子力発電所の爆発の後に、たびたびテレビ画面やPCブラウザで「ニュース」として私たちが目撃していたものと大変よく似ている。事件の経緯の一切を知らされぬまま見続けることを強要するこのような視点は、いわば非映画的であり、まさしく現実的なものである。しかしその一方で、現実的な視線が捉えているものはどこまでもSF的な光景なのだから、これは真か幻か、と輪を掛けて自己の目を疑うことを人間たち(登場人物 ≒ 鑑賞者)に迫ってくる

 

私は、この映画のレヴューに関して、上映当初も、それから今回の鑑賞後も一切触れていない。加えて、私はあまりいいSF映画の鑑賞者ではないので、この映画の観るべきポイントを正しく掴んでいないかもしれない。そういう言い訳をしながら、『ミスト』を観たらこれを語らずにはいられないというある一つのポイントを優れて秀でた一冊の研究書とともにここに開陳しておこう。それはすなわち、蛸である。

        

           f:id:by24to54:20140225230115j:plain *2

 

映画開始からおおよそ25分、最初の怪物として登場するのが巨大な蛸(の足)である。ただしそれは、私たちがよく知るあのたことは随分と趣が異なっている。その巨大蛸は、吸盤と思われる箇所からまるで狩りをする空腹な熊の爪のような鋭利な刃物を剥き出しにし、獲物──人間──の皮膚を鋭く切り裂いては血を吸い肉を喰うような怪物蛸である。5分も経たぬうちに、あたりは飛び散った血の惨状と化す。その凶暴さは、「ひょっとこ」のようなコミカルさを伴って連想されるわれわれ日本人のたことはほとんど別物である。ここからすぐに思い起されるのは、たとえば『ザ・グリード』(スティーブン・ソマーズ監督, 1998)や『オクトパス』(ジョン・エアーズ監督, 2000)の巨大蛸、あるいはふたたび『パイレーツオブカリビアン*3フライング・ダッチマン号船長デイヴィ・ジョーンズによって擬人化されたいわゆるデヴィル・フィッシュ系のイメージだ。それらはどれも人間存在にとっては邪悪か残虐以外のなにものでもないといったような悪魔的「蛸」の具現化であるが、このような蛸は西洋文化が実に2500年以上も昔、古代ギリシア時代からその想像力のなかで育みながら脈々と引き継いできたイメージなのである。

 

今日までいくつかの重要な蛸(のイメージ)についての研究が残されているが、なかでも重要な文献のひとつとして、ロジェ・カイヨワ『蛸──想像の世界を支配する論理をさぐる』(1973)*4が上げられる。『遊びと人間』(1958)や『反対称──右と左の弁証法』(1973)などでもよく知られるフランスの哲学者ロジェ・カイヨワ(1913-1978)が晩年に残した『蛸』は、優れて文化人類学的な視点と手法によって、古今東西の「蛸」というイメージおよびイコンが担ってきた意味をつまびらかにしてみせる。それ以前にカイヨワは、カマキリの研究*5を行っているが、今研究では人間の想像力と蛸の邂逅において何が起こってきたのかという関心が、人間の意識を媒体としながらも、理性的動物である人間の意思からはまったく独立し、自律した「想像力」というものの姿を照らし出している*6

 

多種多様なおびただしい生物のなかには、その外観だけで人間の想像力を驚かし、同時に刺激するものがいる。このことを認めるべきだというのが最初からの私の意見である。ときには習性が加わる場合もあるが、普通は外観だけで十分である。大まかな全体の様子、あるいは輪郭のどこか一ヵ所いわくありげな部分が──種痘がつくというのと同じ意味で──人間の想像力につき、これを揺り動かしさえすればよいのだからである。(Ibid., p. 11)

 

西洋文化の起源である古代ギリシアにおいて、一度あの吸盤でくっついたらそう簡単には離れない様子や、環境に応じてからだの色を変え、いわば保護色を使い分けることによって身を護り、敵を欺き、獲物を獲得する蛸は、タフな精神力や賢さの象徴となっていた(Ibid.pp. 22-23)。しかし、キリスト教の時代に突入するとその意味は一転、蛸は人間の「敵」として言及されることが多くなった。つまり、蛸のような狡猾な人に騙されないように、といった具合である。

 

手のとどく距離までひき寄せるために違和であるように見せかけているたこに恐れもなく近づく魚のように、思慮のない人間は、誘惑や罪に陥る、と聖アンブロシウスは警告している。(…)正直な者をだますことは罪深いことである。しかもたこは、それを習慣にしている。このような論理にもとづいて、たこは、ついには悪魔そのもの、あるいは女を意味するものになってしまう。女はいつわりの楽しみで男を誘惑し、つづいて罪と地獄の罰と責苦のなかへ引きずり込んでいくものだからである。より一般的には、たこは、誘惑者、裏切り者、嘘つき、また同様に守銭奴の象徴となっている。犠牲者たちからはぎ取った富をためこんで喜ぶ守銭奴である。(Ibid., p. 23)

 

19世紀になるまで、すなわち科学がキリスト教から勝ち取った信託とともに世の定量を開始するまで、蛸は、たとえば聖バジル『異教徒の著作の効用についての講話』(4世紀)やホラポロン『聖刻文字』(古代末期エジプト)のピエルス-ワレリアーヌスによる註釈、アリストパネース『ダイドロス』、オッピアノス『漁について』などにおいて語り継がれた。そして科学の時代が訪れてからもしばらくは、科学者たちの筆の迷いのなかで、蛸は空想の世界と現実の世界を跨ぐような位置付けを与えられていた。そして既述の通り、邪知深さや(蛸の肉の消化の悪さから)人を苦しめるもの、そしてなにより、次々とこどもを孕む様子などから極端な好色の徴として蛸は描かれることとなる。注目すべきは、この好色という蛸に担わされたイメージが、距離的にもそして時間的にも遠く離れたここ極東日本においても共通のものであったということである。たとえば葛飾北斎の《蛸と海女》(1820年頃)などは、春画に詳しくない方でも一見したことがあるのではないだろうか*7

 

(ちなみに、私は葛飾北斎の蛸の絵を見るたびに、予備校の夏期講習で出会った岡山の友人のことが必ず頭を過ぎる。というのも、そう長くはない夏期講習のなかで何となく話すようになった私たちは、特に当てもなく互いの趣味関心などを夏の陽を避けながら話していたのだが、どことなく話しにくそうにしていた彼女がようやく口を開いたと思ったら、「私、シュンガに興味ある」と言ったのだ。私としては、彼女が春画に興味を抱いていても一向に構わなかったのだが、それ以前に春画をちゃんと見たこともなければ、それはどんな画家によって描かれていたものなのかもよく知らなかったのだ。そんな自分の無知を彼女に告げたまでは覚えているが、その後の彼女の反応を私は思い出せずにいる。数日後、私は日本の中等教育に掛かる議定書と共に最後のプレゼンテーションに代えて半ば鑑賞者参加型の演劇染みたことを行い(以降講師も学生も含め皆に「先生」と呼ばれるようになったのは言うまでもない)、彼女は彼女で春画とはまったく関係のないなにかでその機を乗り切った。夏期講習も終わり、彼女は岡山の実家へ帰っていき、私もまた新たなプロジェクトを考えねばというストレスに苛まれ始めた。そして間もなく、岡山の彼女から手紙が届いた。ずいぶん分厚い封筒だったが、大切に開封してみるとそこからは溢れるように葛飾北斎の《蛸と海女》(カラー)が出てきたのだった。フル画角の画像やら一部のアップのものまで、そしてそれらに添えられた手紙が、もう二度とこれらが入っていた封筒には仕舞えないというほどに詰め込まれていた。半ば唖然としながら、彼女はこの絵の研究をしたいのかとしばらく眺めていた。そして間もなく、その猥雑さには確かになにか妙な真剣さと滑稽さが入り混ざっているのに気がついた──なるほど。)

 

《蛸と海女》への言及を含め、カイヨワは『蛸』において一章分を日本の蛸についての考察にあてている(第一部第Ⅵ章)。そこで指摘されている日本における蛸の特徴については次のようなものがある。実際に目にする機会が少ないが故に蛸に関する想像力を必要以上に磨き上げてきた西洋諸国とは異なり、元来食用として親しまれてきた日本のたこは人間にとって非常に日常的なものであった。そのためたこは、当然「危険なものとは思われていなかった」(Ibid., p. 89)。しかし、ある時から「その動物が驚くべき魅惑力をもった怪物に変身し、突如として大げさな恐怖をもよおさせるもの」(Ibid., p. 89)となったことをカイヨワは指摘する。さらに、日常に飼い慣らされたたこがこのような突然の変化を遂げた経緯や背景について追いながら、この変化には西洋の怪物的蛸にも通じるなにものかが示されているに違いないことをカイヨワの慧眼は告げていく。

 

この変化は比較的短期間に、非常に限られた地域内で起こった。それはまさに、たこがよく知られていない、ともかくあまり親しまれていない地域である。よく知らないということは、たしかに、空想がわき道にそれるのに好都合な条件である。初めにその趣旨をまいたのは、発行部数の非常に多い二、三冊の書物であった。これは驚くべきことである。/しかしながらこの幻覚が、それを支える本体とはかくも不釣合いな運命に偶然出会うことになった背景には、当然、それなりの理由があったはずなのである。すなわち、この動物自体のなかにすでに、ひろく想像力に訴えて以上な効果を及ぼしうる何らかの要素が、含まれていたのにちがいないのである。しかも、この傾向は、普遍的なものであるから、たこを見なれている地方では、平凡な現実が常軌を逸した夢想を絶えず打ち消しているのにもかかわらず、そのような地方においてさえ、同じ要素が認められるにちがいないのである。(Ibid., pp. 89-90)

 

 

そもそも「蛸は概して縁起のよいもの」であり、日本人の実生活と想像のなかで「重要な役割を演じている」のだが、それを象徴的に示しているのが、たとえば京都新京極や東京目黒にある蛸薬師など、薬師如来をまつった寺にある習慣である。そこには今日でもたこの絵馬を奉納するという慣わしがあり、これには「仏が彼ら〔参拝者〕のいぼ(おそらくたこの吸盤と同一視されているのであろう)を取り除いてくれたことを感謝する」(Ibid., p. 91)という意味があるのだという*8。しかしながら、日本においても蛸はこのような親しみやすいキャラクターイメージをもとより含意していたわけではない。残されている資料などが示唆するのは、むしろ18世紀頃までの工芸品や絵画に描かれた多くの蛸は古代ギリシアのそれとよく似た「よりまじめで、愉快なものでない」イメージであり、「攻撃的で威圧的なものとして表現」されたものであった(Ibid.p. 92)。もちろん、先に触れた葛飾北斎春画、あるいは仙厓の蛸の絵、国芳の巨大蛸の版画もそのうちである。ともあれ、暗澹たるものであれコミカルなものであれ、そこには「たこを人間的に表現しようとしている点」が一貫して共通しており、これが日本独特の蛸イメージの脈動であるとカイヨワは記している(Ibid.p. 96)。

 

このように、実に変幻自在な姿とともに人間たちの想像力を呼び覚ましては攪拌してきた蛸を、いわばイメージと想像力の磁場としてカイヨワは丹念に描き出している。なかでも私の心を掴んだのは、漫画的な日本の蛸イメージはただ擬人化されているという特徴だけではなく、実のところいくら想像力をかきたてて描かれたものであっても8本という触腕の数は絶対に変更されないという事実である。よく考えてみれば──そして、映画などに込められた西洋来の蛸イメージとも日常的に接する機会を持つ現代の私たちにとってみれば──それは実に奇妙な不変性である。それについてカイヨワは、次のように述べている。「最も意外なのは、おそらく、蛸の触腕の数がふやされてさえいないことであろう。ほかならぬこの日本では、木の根と同じほどたくさんの、もつれあった腕をもったたこを、実際に見ることができるのに、である。たとえば、鳥羽水族館にある標本は、一つは五四本、もうひとつは八五本の触腕をもっている。この触腕が八五本のたこは、一九五六年に捕獲された。日本のテレビジョンは、一九七二年八月に、このたこをとりあげた番組を放送した。実際にある奇形は想像力に少しの影響も及ぼさなかった。想像力はそれ自身の空想の法則に従ったのである」(Ibid., pp. 102-103)。

 

カイヨワが言うように蛸には、人間の不思議な想像力を呼び覚ますなにか不思議な力──想像力の礎──がある。想像力とは、もちろん科学が測定するいま-ここの現実とは異なる世界のことである。それにもかかわらず、日本の蛸イメージにおいては8本の触腕という科学的現実が想像的なものとして立ち現れている。カイヨワの論考はこれ以上には及んではいないが、おそらくこの8本の触腕が科学的現実ではなく想像力を示すものとして現代まで日本人の文化に現れているのには、八という数字が神話的に特別な意味を担っていることなども影響しているだろう(ただしこれについて敷衍し十分に立証するためには、中国における蛸についてをより一層調べる必要があるだろう)。ともあれ、日本人が蛸には必ず擬人化の要素を授けていたという既述の事実が想像力と科学的現実の交差を意味していたとすれば、この絶対不変の8本の触腕もまたそれと同様の経脈にあると言えるだろう。私たちが実際に目にするたこの8本の足、あるいは8本足のたこは、現実とファンタジーが渦を巻く異次元の徴──ちょうど映画『ミスト』の中の人物にとってのあの怪物蛸と同様に──なのであることは間違いない。

 

 

 

 

*1:Viktor Frankl, …trotzdem Ja zum Leben sagen: Ein Psychologe erlebt das KonzentrationslagerMünchen; Kösel-Verlag, 1977, trans. 『夜と霧(新訳)池田香代子訳, みすず書房, 2002.

*2:ヴィクトール・ユゴー "Octopus with the initials" (1866)Art of Victor Hugo: an overview of his drawings(カイヨワ, p. cit., p. 71)

*3:1st.『パイレーツ・オブ・カリビアン──呪われた海賊たち』(ゴア・ヴァービンスキー監督, 2003), 2nd.『パイレーツ・オブ・カリビアン──デッドマンズ・チェストゴア・ヴァービンスキー監督, 2006), 3rd. 『パイレーツ・オブ・カリビアン──ワールド・エンドゴア・ヴァービンスキー監督, 2007), 4th. 『パイレーツ・オブ・カリビアン──生命の泉』(ロブ・マーシャル監督, 2011).

*4:Roger Caillois, La pieuvre, essai sur la logique de l'imaginaire, Paris; La Table ronde, 1973; trans. ロジェ・カイヨワ『蛸──想像の世界を支配する論理をさぐる』 塚崎幹夫訳, 中央公論社, 1975.

*5:Roger Caillois, Le Mythe et l'Homme, Paris; Folio, 1987 (1938); trans.『神話と人間』久米博訳, せりか書房, 1994.

*6:スティーブン・キングの原作についてはまだ確認していないが、少なくとも映画『ミスト』における巨大蛸のシーンは、以下のカイヨワによって集められたトレビウス-ニゲルという古代ギリシア人の陳述(古代地中海地方でのたこについて)に共通するところが多い。「ルークルスがバエティカの総督になったとき、かれに随行したトレビウス-ニゲルは、たこの大きさを非常に誇張している。地中海には、全長が二メートルに達するものはめったにないのに、である。彼はある報告のなかで、カルティアにいたたこの話をしている。この報告はプリニウスに大きな感銘を与えたようである。このたこは水から出て、塩づけにしていた肉や魚を貯蔵してある倉庫へ、いつも盗みに行っていた。盗まれないようにするために、普通にはないほどの高さの板囲が作られた。しかしたこは、木の上にはいのぼって、これを乗り越えた。ある夜、犬が、このたこのにおいをかぎつけた。番人たちは、その大きさに驚いて怪物を開いてにしているのだと信じた。この怪物に勝つためには、何人もの男が大奮闘をしなければならなかった。彼らは三叉のやすで怪物を突き殺した。それはまったく巨大なものであった。頭は一五アムフォラの樽ほどもあった、等々。触腕ただ一本だけの太さでも大人が両手腕をのばさねばならぬほどであった。吸盤は金盥のようで、位置かめ分の容量があった」(R. カイヨワ『蛸』op. cit., p. 20)。さらにこのような蛸についての記述を残したトレビウス-ニゲルが、「蛸が人間を死にいたらせることがありうるという風雪を流した最初の人」であるとカイヨワは述べている。トレビウス-ニゲルによれば、その蛸のどう猛さは「人間を海の底にひきずり込み、吸盤を使ってその血を最後の一滴まで吸い取ってしまうというような、最も残忍なやり方で死にいたらせる」(Ibid., p. 22)ものであるという。

*7:画像を貼り付けようかとも思ったが、初見で驚かれる方もあると思われるため、以下に検索結果のリンクを掲載する;葛飾北斎 蛸と海女 - Google 検索

*8:その他にもカイヨワは、比較的最近の日本文化における蛸の特徴、特に図像学的特徴について次のように論考している。「一般的にいって、蛸は奇妙なほど人間化されているように見える。喜びを振りまくとまではいわないが、愉快な、ぶしつけとまではいわないが、ふざけることが好きな人物の特徴を与えられて、蛸は表現されている。手ぬぐいで頭にはち巻きをして、横で結ぶという庶民的格好をしている。扇子であおいだり、小さな日傘をさしたりしているが、必要があってそうしているのではなく、気取っているのである。触腕で立って、体を左右に動かし、愛嬌をふりまく。酒場や料理屋の看板によく使われている。/看板に使われている蛸は、すわっている場合でも立っている場合でも、一本の腕には酒の徳利、もう一本の腕には肴を持っている。蛸は陽気さおよび酒の酔いの観念と結び付けられてるのである。/たこは同様に、新聞・雑誌の続き漫画にも姿を現し、不器用で、赤面している主人公として描かれている。他人のために力を貸そうという気になるのだが、間違ったことをひとり合点するし、とくにやることなすこと大失策ばかり、破局を引き起こすことしかできないのである。/坊主の沿った頭と、この動物の頭巾が似ている結果、たこはときに「蛸入道」(蛸の坊主)と呼ばれることがある。また同様に、蛸の頭巾は、尊者福禄寿の度はずれに長い、すべすべした頭の代用品として使われることもある。尊者福禄寿とは七福神の一人で、とくに長寿を象徴し、ときには老子と同一視されている神である。/これらさまざまな表現からまったく自然に浮かび上がってくるのは、半ば人間、半ばたこという雑種の生物のイメージである」(Ibid.pp. 91-92)。

奇跡と花

 

熱が下がってから、なにか飲むものや果物を買いに駅の方まで出ることにした。二月の陽は暖かく、やがて梅や桜の開花があちこちを賑わせるのだろうという予感が駅前の十字路を吹く風のなかにも見出された。北野天満宮の梅花祭ももうすぐだ。 私が桜の花よりも梅の花を好んでみるようになったのも、大学からほどないところに梅の都とも呼びたくなるような神社があったからだった。今年は見に行けるだろうか──思えば去年の今頃、学部のころに同じゼミに在籍していた一つ上の学年の女の子が、私の大学院合格を祝って梅の花をくれた。切枝をめぐって等間隔に付いた梅のつぼみが、まるでそれらがへばり付いている枝とはまったく無関係な組成であることを主張しているかのように赤く可憐であったのを今でも聢と想い出すことができる。梅をくれた彼女は、花に添えて蓋のついた小さな小瓶を手渡してくれた。その小瓶には「miracle」と書かかれており、中には小さく折りたたまれた紙片が沢山入っていた。その紙片にはゼミの学友たちや指導教官がメッセージを認めており、なにか特別な時にでも一つとりだして開けて見てほしいとのことだった。まるで小学生の女の子の戯びのような小瓶に入ったおみくじは、私をこれから進学する知らない場所へと後押ししているようでもあった。

 

今も机の上にそっと飾られている「miracle」をつくった彼女は、読書を愛する素敵な雰囲気をもった女性で、ウォン・カーウァイ監督の『恋する惑星』(1994)に出ていた王菲にとてもよく似ている。読書を示す女神のアイコンがあるとすれば、それはきっと彼女のポートレートに違いない。彼女は在学中よりよくいろいろな小説の話をしたが、最後に話したときに彼女の心を満たしていたのは、堀江敏幸『熊の敷石』であった。なにかとても大切なことについて語るようにして大好きな作品の大好きな箇所について話す彼女の姿を、私は何度となく写真に収めたいと思った。彼女の声には、命のないところにいつの間にか命を灯してしまうような、どことなく神秘的な色合いがあった。そういえば、「miracle」の彼女は今月結婚するのだった。あの子なら和装がとびきりに似合うだろう──そんなことを思い出しながら、よく行く花屋に寄って、二輪の白いガーベラと小さなつぼみのついた一輪の赤いラナンキュラスを買った。

 

なぜこんなことをつらつら思い出すのか。煙草を持つ女性の左手に、紫色の石のついた銀の指輪が鈍い光を放っている。二月生まれか、と彼は思う。妻もアメジストの指輪をすることがあった。誕生日に彼が贈ったものだ。これを身につけていると、かならずいいことがある、お守りなんだから長生きできるかもしない、百歳まで生きられそうよ、と妻は根拠もなしによくそう言っていた。

 

堀江敏幸「スタンス・ドット」『雪沼とその周辺』, 新潮社, 2007, p. 34)

 

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数日前の夕方、日が落ちると間もなく寒さが微かな重みを空気に落とすころ、見慣れた駅の前に降り立った。オフシーズンの平日ということもあり、いつもは無闇にごった返す駅の周辺も心持ち閑散としていているようにみえた。駅ビルに隣接する大きなホテルの一室に来るようにと言われていた。まわりこんで駅の東側のほうへ向かい、ホテルのロビーへ入ると、控えめに設えられた照明と贅沢なソファーに身を委ねたビジネスマンたちや旅行客と思われる人々がそれぞれに談笑したり、手元のケータイをいじったりしていた。何度か訪れたことのある場所だったが、思えばそれも何年も前のことであった。それにも関わらず少しも古くなるところがない空間は、どことなくSFの一節を吹き付けられたような趣であった。思えば、隣る原広司設計の駅舎も尽く近未来的で、時間の経過を一切受け付けないといった風の頑なさが備わっていた。この駅の周辺は、この街全体の思想を一層先鋭化することによって成立しているようなところがある。

 

私の胸の前に組まれた両腕のなかには、火事になったら一番に持ち出すと決めていた愛犬の遺骨の入った陶器の壺が抱えられていた。ほんの2日前にこの骨壺を引き取りたいという旨の連絡が母からあったのだ。あまりに急であったので、おそらく両親は私が蔵書や愛用の三台のmac、通帳やパスポートなどよりもずっと深く常日頃から遺骨となった愛犬を生活の中心に感じていることまでは想像していないのであろうことが察せられた。しかし、感情に関することを話す気分には到底ならなかったし、なにより時間がなかったので、呆然としながらも、愛犬の遺骨が何度目かの長旅を超えて、かつて家族みんなで暮らした家へと無事に戻ることができるようにと準備をした。二枚の布で順にくるみ、ちょうどよいサイズのバックに収め、そのなかには写真立てに入った写真を二枚と、鳩居堂の桜と春のお香を忍ばせた。飼い猫の一匹が亡くなったときにも、この桜のお香を持って行ったことを想い出した。

 

もうすぐ両親が10余年に及んだ海外生活に一区切りをつけ生活の基盤を日本へ戻すつもりのようで、今後愛犬と愛猫は寄り添って暖かい部屋のなかで母の手によって毎日生花や水、お香を添えられて大切にされるだろう。その意味では、愛犬の遺骨を手放すことは心配ではなかった。しかし、帰国するとはいえ、まだ月の半分は海外で生活する予定である両親のいない間、広く静かなあの家で逃げる足のない遺骨たちのことが気がかりではあった。

 

久しぶりに両親と食事をした。「天然ボケ」ということばがあって随分と救われている類の人間である母とそれを淡々を観察しては私に報告してくる父の日々のことを聞きながら、飲んでいるビールを吹き出しそうなほどに大笑いした。ひとしきり笑ったあとには日本を囲む諸外国との政治や自民党及び首相への不信についてを小一時間ほど話し合ったところで会はお開きとなった。こと外政に関することとなると、両親の仕事の関係上、いかなる与党のいかなる政策に対してもかなりシビアな批判を抱かざるを得ないのだが、それに輪を掛けて父と私の立場や見解と母のそれとがしばしば食い違うことには頭を抱えている。一定の自由と出来る限り広い公正さを求める父と私に対して、母はひとつひとつの家庭の安全を第一に考えている。保守的立場のほうが国防に対してはよりラディカルな保安政策を求めるようになる理由も母をみていると理解できなくはない。しかしそれと同時に、母のような立場の要求をできるだけ満たすかたちで最小限の戦力および武力保持の実現──という半ば以上に矛盾した要求──を真摯に考えている人間を、顔の皮の厚い政治家たちから見つけ出さなければならない難しさを改めて思わずにはいられない。政治といえば新聞紙面ではなく、フーコーやアタリ、アガンベンといったアクチュアルではあるものの今日明日の政治からはやはり多少距離のある哲学的思索がまっさきに思いつく私にとっては、アジア諸国をめぐる仕事に従事して毎日を生活する両親から聞くこのような話にはいつも一層身につまされる思いを抱いている。

 

翌日、いくつかの寺社仏閣を訪れるつもりであるという両親について行こうかと思っていたが、翌朝目覚めると身体中がなんとも言えない鈍痛によって縛られ身動きがとれなかったため、参加を見送った。そして次に目覚めると、あの鈍痛が体中の各関節へと溜まり、いつもより一層視力がおちているような、朦朧とした世界に包まれていた。聴覚も遠く、水を口に含めば苦みを感じた。察しはついていたが、熱を測ると39度ちかくまで上がっていた。ノロウィルスかインフルエンザかとも思われたが、時間を確かめると病院は既に閉まっている時間であったので、とにかく水分をとって、いつもより多めの睡眠剤を飲み干してからふたたびベッドへ潜った。こういうときでも睡眠剤がないと眠ることがかなわないのは、もう8年ほど前からだった。欲求が正しく働かないと生命維持機能も不良となり、風邪やその他不調も起こしやすくなる上になかなか治らないのだから、睡眠の不良は精神科のみならず内科や外科的にもやはり重要な問題なのだということを熱で濁った理性が勝手に思考した。

 

何度か目覚めたが、その度に水を飲んで体温を測ると体力の限界がきて再三度ベッドに倒れ込んだ。そして何日たったのかもよくわからなかったが、とにかく何度目かの日が十分に昇ったころにようやく起き上がってキッチンまでいくと冷蔵庫から赤いグレープフルーツジュースを取り出してコップに注いだ。冷たい果汁の液体を舌の上にのせると、味覚が随分と正常に近いところまで戻っているのを感じた。体温も37度代まで下がっていた。いつも35度代半ばが平熱なので、それでもいくらか熱っぽかったが、一日前とは比べものにならないほど、身体中に安堵感が満ちていた。大人になってから風邪を引くことも少なくなったが、私は幼い頃に本当によく熱を出しては家族の日常をパニックに導いた。一度熱がでると1週間は絶対に下がらない上に、一切の飲食を拒んだためにほとんど死に際の状態となった。もちろん病院には常連となり、点滴や注射も日常茶飯事であった。一度は強制入院となり、妹の面倒をみるために仙台の田舎から祖父や叔母たちも出てきたてくれた。父は熱にうなされる小さな娘を不憫に思ってはふたつの小さな人形を買ってきてくれた。だが、私は大嫌いな病院に入院させられたことにひどく憤慨しており、父の差し出した人形を思いっきり投げ返した。「こんなもので欺されるか!」とことばにはせずともはち切れんばかりに強く思ったあの瞬間はいまでもありありと思い出すことができる。まだ4つほどであったが、三つ子の魂百までとはよく言ったもので、病中の気の強さはいまでもまったく変わらない。同じく、そのころ私が好きだったキキララを模したようなピンクとベビーブルーの洋服が着せられたかわいい二体の人形は、いまも変わらず実家の書棚の上に飾られている。

 

庸子さんはすらりと立ちあがって入り口脇の書棚に行き、意外にすばやく一冊抜き出して戻ってくると、それを床とおなじ樫材のテーブルの上にそっと滑らせた。黄ばんだ質素な紙の、薄っぺらな表紙に、赤と黒の縁取りがある。ワインレッドに近い文字で Miracles というタイトルが読めた。実山さんが手にとって頁を繰ってみると、指の腹に触れるなかの髪が、ほんのりとあたたかかった。
「なんと書いてあるんです?」と木槌さんが訊ねた。「横文字ってのは、どうも」
「ミラクル、です。奇跡、って意味です」最初から知っていたような口ぶりで庸子さんが応えた。

 

堀江敏幸イラクサの庭」『雪沼とその周辺』op. cit., p. 56)

 

 

 

 

流れとよどみ

 

2月14日、世はバレンタインデー一色となっているのを横目に、2005年のこの日に大阪の寝屋川中央小学校で起きた教師殺傷事件についてをただ黙々とネットで調べていた。一審で懲役12年の判決を受けていた犯人の少年(事件当時17才)に対し、大阪高裁(古川博裁判長)は2007年11月、懲役15年の判決を言い渡した(弁護側もこの判決を上告することなく裁判は終わった)。この事件が人口に膾炙するきっかけとなったのが、犯人の少年が高機能広汎性発達障害との診断を受けていたという背景にあった(判決文においては高機能広汎性発達障害への言及があったが、その他メディアなどではなかでもアスペルガー症候群であったという報道をしていた)。この事件のその後と影響について知りたくてネット上を漂浪していたが、事件直後および大阪高裁の判決が出たときに加熱した報道があったのを除いては、他の多くの事件同様、まるで忘れられた記憶の残骸のようなものがところどころに落ちているだけで、いまも更新が続いている報道やサイトなどめぼしいものは見つからなかった。

 

いつからこの種の恐れや怯えを四六時中懐に潜ませるようになったのか、それすらも思い出せない。私はいつの頃からか自分の体調の悪さといつもセットにして「本が読めない」という現実について深く悲観してきた。仮にも文学部に在籍していたということがある種のプレッシャーになって、本を読んで勉強をしなくてはならないという思いが体内で絡み合って焦りとなっていたという側面ももちろんあるだろう。思えば、大学で生活を始めてから何年もの間、私は常に焦っていた気がする。しかし、それだけではないなにかもっと肝心な理由が、あの恐れや怯えの中核に根をおろしていたように思えてならない。たとえば、長く患うこの疾病と訣別するためには、自分を医師やカウンセラーに預けているだけでは絶対的に足らず、自らの意志で学ぶことによってのみ濁ったソウルジェムを正しく破壊する方法をみつけることができると信じていた──あるいはそう信じるしかなかった──というような感じに近いかもしれない。しかし、いずれにせよそれは比喩や仮定法を介したある種の想像にすぎない。なぜならば、私はいつの間にかあの種の恐れを抱くことすらなくなっていたどころか、どうしてかあの恐れも、それからその肝心な理由もまったく思い出すことができないからである。わかるのは、限りなく薄く残った恐れの残像──かつて自分のものであった感情の遠退いた姿、痕跡。

 

簡単に言えば、私は「本が読めない」ことを別な理由で恐れるようになっていたのだ。それは、読むことを中断するやいなやこの知覚や思考、存在や世界が瞬く間に収縮し、凝固してしまうようことへの恐怖である──私はこの辺りの言語の多くをおそらくはアルトーから学んでいる。知覚や思考の渦動を、存在や世界の川流を、停止させてしまうことがないように、自分が映るところのない──すなわち、「他」の──ことばや論理、理論や想像に定期的に触れる必要があると感じている。以前あった恐れや怯えが「この」恐怖に取って代わったのがいつなのかを知ることはもちろんできないのだが、一度恐怖についての理由が入れ替わったら最後、まるでそれがずっと私の恐怖を司っているものであるかのように思い込む程度には、人間の認知と思考と信念などというものはでたらめなものである。自己と歴史は常に捏造され続けるものだということは私が学部の頃に学んだ最も重要な事柄だったし、自己を主張することを慣習としているひとがしばしば低脳そうにみえるのもそのことと関係があると思われた。

 

アウグスティヌスからベルクソンフッサールなどに至る、時間や想起について思いを馳せてきた大思想家たちは、過去を思い起こすことについてを過去という「写し」の想起であると考えた。 想起は知覚ではない。だから、過去を思う私たちは、悲しみや喜びといったなんらかしらの峻烈な感情や熱さや痛みといった感覚を、現に知覚経験として感じるようには感じないのであると考えた。「写し」とはすなわち、知覚が根こそぎ取り除かれた現実のようなものである。しかし、大森荘蔵はこの「写し」という概念が持つ論理的不整合性を顧みることによって、次のような批判を残している。

 

過ぎた痛みの想起は少しも痛くはない。過ぎた音を想い出すことはその音がかすかに耳に聞えることではない。灼熱の夏を思い出しても暖房には些かの足しにはならない。アウグスティヌスが述べたように、記憶の中の喜びや悲しみは今は少しも嬉しくも悲しくもないのである。/実はこのことが人を「写し」の考えに誘う大きな要因であったのである。痛さから痛みを抜き去ったもの、暑さからその暑さを除去したもの、それは痛みの形骸であり暑さのミイラである。だからそれらは痛みや暑さそれ自体ではなく、それらの影であり「写し」なのである。(…)しかし、痛みから痛さを、暑熱から暑さを取り去ったならば一体何が残るというのだろう。何も残りはしない。痛くない痛み、暑くない暑さなどはりはしないのである。だからそのようなものとしての「写し」などもありはしない。(大森荘蔵「過去は消えず、過ぎゆくのみ」, 『流れとよどみ』産業図書, 1981, p. 266)

 

やる気がないと思う気力すらもなく、春暁めいた一日が街を訪れているのをベランダから眺めていた。陽は然ばかり暖かいが、南東から吹く風は冷たく強く、まだ名残とは呼べないほどの冬を含んでいた。改めて、視界が晴れた日には、四方を山に囲まれたこの小さな街に積もっている歴史と呼ばれるなにものかに思いを馳せていた。しかし、その間も左右の手がどんどんと冷えていき、間もなく意思するようには動かせないほどまでになった──まるであの山際より吹き付ける風によって自分の一部がどこかへ奪い去られたようではないか。しかし、一度冷え切った身体はそれ以上冷えを感じることもなくなり、手のあたりに現れた動作の不自由もすぐに忘れてしまった。心にあったのは、自分というものがどうやら毎刻毎刻、少しずつ死んでゆくものであるという実感であった。そして、私はどうしていつも気づけば「死」についてあれやこれやと考えているのだろうかと、これもまた何度となく思った問い未然の陳腐ななにものかに呆れながら空を仰いだ。

 

一日が始まってから終わるまでのあいだ、幾億個の細胞が生まれているのと引き替えに、限られたその場を譲るように同じ数だけの細胞が死んでいる。しかし、私は電子顕微鏡で自分の細胞をみたこともないし、その分野に関する専門的な教育を受けてきたわけでもないので、細胞の生き死にに関してはデータや情報としての事実をみてるだけでしかない。そうではなくて、自分の一部が死の方へと浮浪してゆくのを私が感じるときは大抵の場合、自分の感情の辻褄が違ってきているのを発見したときである。かつて感じられたことが、いまはまったく想像もつかないということ。眼前の事物や出来事に、それまでとは違う感情を抱き、それまでの感情がもはや思い出すことも不可能なほど消失されてしまうということ。大切にしていたものや心底憎悪してきたものが、ある朝目覚めるとどうでもよくなっているということ。本が読めなくなるのを恐れる理由が、夕方の疲れを感じながら一呼吸ついたときにはもう既に変わっていたということ。私にはこれらのことがいつも世界の重要な謎のように思われて仕方がないのだった。

 

昨日あったものが今日はないということをこれほどまでに訝しみ続けては、この世界にあるという現実に耐えられるわけがない。しかし、この問題をどうしても足蹴にできない理由はもうひとつある。つまり、昨日から今日という連鎖があるように、その反対のベクトルに乗った連鎖もまた日常的に存在するということについて、私はいつも胸裡の悪い思いを抱いているのだった。想像しやすいところであれば、たとえば家族のこと、より具体的に言えば親子間の絶対的遺伝の連鎖に叛し、例えば家族心理学などを引っ張り出してなにか問題を描き出そうとするときには、親子間の感情はもはやベクトルすら持たない伝播によって生み出され続け、さらにここでもし子供の側が倫理的・理論的正当性を十分に抱持して、自らに降りかかった問題を親(のしつけや文化、遺伝など)の責任として理解するとなると──日常的に問題を訴えることができる程度の平和に支えられた家庭においてこのようなことはしばしば発生しているように思われる── 一体問題の所在はどこへいってしまうのだろうか。問題の原因を見つけ出すことが問題となりすぎていて、問題自体も、それから見出された原因もまた、それ自体にはなんの意味もないようである。つまり、自らの問題を、絶対的な遺伝という連鎖の上流へと送り返すということは、すなわち上流の者はさらに上流へと送り返し、さらにその上の者へと送り返すということを、ほとんど永遠に繰り返すことになる──自分の心の病が親によるものであったというならば、自分の子を病ませるほどの状況においやられていた親の責任は、親の親にある……という具合だろうか。自己にかかる責任を上流へと投げ返すということは、結局なんら生産性のない空言による納得のように思えてならない。

 

これはただ机上の空論のようにもとられかねない理屈だけの問題ではない。ここにある問題の原因と責任を「絶対に拒むことのできない」者へと転嫁するということは、そこにある問題をさらに深化し兼ねないという懸念について思い至らないものはいないだろう。(例えば、近隣諸国から日本はどのように戦争責任を問われているか──戦争をしたのはいまここで生きる私たちではないけれど、彼らはあの戦争の責任を「日本」という国家を具現する私たちに突きつけている──、また反対に、私たちは米軍基地の不当性についてどのような理屈で米国を訴えるのか──「基地の兵隊さんにはなにも恨みはないけれど米軍は憎い」と話す沖縄の人々の声はどのように受け止められるのか。)メソッドやセオリーを有効に用いるには、自己ではない別な誰かを十分に主体化する必要があるし、またその時自己も十分に客体化される必要がある。この微妙な距離感のなかで、思考すること、想像すること、ことばをつなげること──結論は解決ではない。問題の投げ返しによる決着(のような思い込み)は、畢竟、責任逃れ以外のなにであるのだろうか。

 

虐待を働く親や親を憎む子の、あるいは戦争の悲壮や戦争責任を巡る憎しみといったさまざまな形をとった「過去の悲しみ」について、私はなにを考えることができるだろうか。あるいはまた、次のように問うこともできる。カントは、われわれは過去について考えることはできずただ空想することのみができるだけだと言ったが、ならば、私たちはこの「空想する」ことをどこまで有効化することができるだろうか。

 

(…)では痛みや暑さを想い出すとは一体何を想い出しているのか。もちろんその痛みや暑さそのものをである。ではそれが些かも痛くも暑くもないのはどうしてなのか。それはそれが「想い出されている」のであって「知覚されている」のではないからである。「想い出す」とは知覚の再生でもなく知覚の再現でもない。薄れて影のようになった知覚の再生でもなく、微弱に減圧され弱毒化された知覚の再現でもない。それは見たり聞いたり感じたりすることではないのはもちろん、模擬的に見たり聞いた入り感じたりすることでもないのである。それは知覚とは全く別種の様式で傷みや暑さが立ち現れることなのである。かつて知覚された痛みや暑さが今度は「想起」という様式で立ち現れることなのである。(…)それは遠方の火が熱くなくともそれが熱火であり、他人の痛みが私には何の痛みではなくとも痛みであることに変りないと同様に、今現在知覚的に痛くなく暑くなくともそれらは痛みそのものであり暑熱そのものなのである。(大森荘蔵, op. cit., p. 267)

 

大森の手法によれば、感情や感覚、そしてなにより知覚によって得られる像はそのレパートリーを今より何倍にも拡大することができる。それによって過去を過去として構築し考えることに近づき得るのかもしれない。(これは、PTSDの理論とも相互に参照できる好相性のもののように思える。)少なくとも、想起によって得られた感覚が、知覚ではないがもう一つの現実であるとする考えは、ポストヒューマニズム的な理論や思想のような新たな人間像を空想する方法としては非常に興味深い。興味深いだけではなく、時間の流れが介在した二者間の問題について、どちらかがどちらかに責任を問うといった緩怠を避ける道として十分に機能する可能性があるようにも思う。そしてここまでくるともう一つ、昨日まであったものが今日突然なくなるという時間と重力に沿った流れのなかにある変化──まるで突然変異──について、ダーウィンとスペンサーの二つの進化論を読むディディ=ユベルマンの手さばきを再度思い返したくなった(紙幅の許すところでいずれ改めて書きとどめてみたい)。

 

書くことを通じて歴史や他者は、空想から現実になる。

 

 

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みかんの皮を乾燥させた。なかには柚子もまぎれているのだけど、橙に紛れた黄の破片は見つかるだろうか。もう少し乾燥させた陳皮はお風呂に入れる予定。それから、いつものように早くに咲く桜も、満開だった。季節のよどみと流れゆく場所。
 

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ベランダに落ちた闇への言詞

 

研究を進めたいと祈るように思いながらも、思えば思うほどに思考や身体がただただ硬直していくような感覚にとらわれる。相変わらず調子があまりよくないのだろう。研究関連の書籍に関しては読めないどころか、本を手に取ることもできていない。なにか精神的な辛さのようなものが物理的な重さとなって一冊の本に堆積していることに気がつき、とても惨めで悲しい気分になる。けれども週に一度、運がよければ目次を眺める程度のことならばどうにかできる。それは確かに救いのようであり、こんなにも感情や感覚が停止状態にあるにもかかわらず、眺めた本に関しては、もう少し気力が戻ったらきっと読もうと自分自身に誓うことができるのだ。

 

ここ数日の不調を呼んでいる原因は大体見当がついている。両親が帰国し、私を訪れる日が迫っているからだ。私は、ここ十年余りに関しては概して両親とも良好な関係性を築いている。両親はいつでも具合の悪い私を心から心配してくれているし、生まれたときから今現在に至るまで精神的および経済的な支えを十二分に与えてくれている。私が大学院進学を望み、進学先が決まったときも大変に喜んでくれたし、研究に携わることを応援してくれてもいる。ただし、私自身その生活に無理が多いと感じるならばいつでも戻ってくるようにと、帰るべき場所までも護り続けてくれている。だから仲が悪いということはまったくないし、そういう意味で彼らの訪問を恐れているのではない。ただ、両親のみならず、他の家族や親戚全般に関しても、私自身もなんとも思っていないという風に振る舞っていても、彼らに会ったあとには必ず体調をひどく崩し、時には数ヶ月にわたって寝込んでしまうこともある。主治医やカウンセラーにも幾度となく相談を持ちかけているが、家族に会わないわけにもいかず、これに関しては対処療法のみしか用意ができていないのが現状である。

 

家族は他人ではないから、無意識に互いの生活や人格に限度を超えて介入してしまいがちな部分があるものだと、主治医は言っていた。心配を多く抱えていればいるほどに、自然と干渉の度合いもゆきすぎたものになりがちなのだろう。期待や想いが大きいほど、その大きさに気がつかなくなり、いつのまにか自分と相手の境界を侵犯しては、相手を自分の一部のようにコントロールすることを当然と思うようになってしまうのだろう。それを止めるために、思えば定期的に、大声をあげて泣いてみせたり、必要以上に鋭利なことばを投げつけたりしてきたようにも思う。差異を尊重してほしいということをどう伝えればよいのか、右往左往しながら、アタッチメントとデタッチメント間を、いつもふらふらと振り子のように揺れている。

 

数年前までは、不調が続くときであってももう少し他人との距離を自然と擁することができていたように思う。最近はそのことをある種の取り返しのつかない失敗の原因を探るように、度々考えている。運がなかったのか、みる目がなかったのか、私は元気なときの私しか好きではない相手と付き合っていたり、あるいは本当に具合が悪いときの私を(無意識にだろうが)利用するような人間を追い払えずにいた。定期的に訪れる鬱状態をだれか他人に見せたくないと身構えているのは、ここ数年の間にあったいくつかの人間関係における失敗を、私自身がまだ消化することも放棄することもできていないからだと思う。幾度となく鬱と躁の間を身勝手にさ迷いながら、それでもなお今も続いている関係は、乱暴に互いの境界を犯すことなく、必要以上に距離を埋めない人々との間にある。大抵の場合彼らにはパートナーがあるから、調子の悪くなったときには私が不在となるであろう関係を共有することを求めても、気長に待っていてくれている。恋人を持つことの恐怖は、相手にこの「私が不在の関係」=「不在の私との関係」を私と取り結ぶことを求めることができないからなのではないかと、自分なりに分析をしている。

 

私が双極性障害という病名を冠してからはまだ3年ほどしか経っていないが、思えば私はもう10年くらい前から自分の躁状態鬱状態を知っており、その上で使い分けてもいた。鬱状態は分かりやすいから、当時から病院でもそのための治療を断続的に行っていた。しかし、大抵の場合、この種の病状が悪化する原因は躁病相のほうにある。私は普段が鬱状態を基盤としているので、躁転したときは「チャンス」以外のなにものでもなかった。電話やメールをもらっていた友人たちにようやく折り返しの連絡ができるのも、誘われていた飲み会にようやく出向くことができるのも、あるいは自分の経験のため、そして鬱屈として日々に変化を与えるために必要と思われたバイトやイベントのボランティアの書類を書くことができるのも、すべて躁転後の限られた時間だった。むしろ3年まえに双極性障害という診断を受けてからの生活が、本当に以前より安全で豊かなものとなっているのか、時折訝しんでいる──という程度には、体調も状況も改善されてはいないと感じている。判断基準となるものもないから、正直なところよくわからないのだけれど。いずれにしても、躁の取り扱いにくれぐれも注意するようにと言われてから、私の生活は常に注意深く、人ともできる限り会うことがないように、そしてたとえ躁転しても決して無沙汰な友人たちに電話をかけまわったり、持っている体力以上の仕事をすることがないように、自分の腕で自分を力いっぱい抱え込んで抑えつけているような日々が続いている。打ち上げ花火のように生きるか、線香花火のように生きるか──せめて、そのような選択肢があったらいいのにと思う。

 

ANPO』(リンダ・ホーグランド監督, 2010)というドキュメンタリー映画を観た。もちろん、1960年に岸内閣によって米国とのあいだに取り結ばれた日米安全保障条約とそれを巡る全学連を中心とした60年安保闘争についてのドキュメンタリーである。この映画をほかの60年安保関連のドキュメンタリーとは異なるものにしている点があるとすれば、一つは日本に生まれた経歴を持つ米国人ホークランド監督による作品であるということと、それから様々に映し出されるドキュメント(作品)とともに歴史的政治的背景を述懐する人々がすべて画家や写真家、歌手や映画監督といったいわゆるアーティストであるということである。この半世紀を通じて時代の変化とともに作風を変えざるを得なかった作家や直接には60年安保を知らない若い作家など、皆それぞれ異口同音にあの政治の季節の不当な幕切れを愁い、反戦や反米軍基地を訴える。当然ながら、問題に潔い解決策などひとつもない。ただただ、少しの変化とともにこれからもこの生きた歴史の問題はずっと続いていくのだろうという予感だけがエンドクレジットの終わりとともに残される。

 

特に印象的であったのは、ある作家が、作品をつくるにはあの時のような難しい時代や怒りがどんどんとわき出てくるような社会のなかにあったほうがつくり易いのではないかと思うと語っていたシーンだ。瞬時にすべてを捉えきれないほどの疑問が頭を擡げた。ひとつはもちろん、アドルノの「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(アドルノ「文化批判と社会」,『プリズメン』渡辺祐邦/三原弟平訳, 筑摩書房, 1996, p. 36)という意味において、芸術作品を作るということの倫理性に向けられたものだ。そしてもうひとつ、社会に対する怒りや困難が作品を作らせるとする論法は、至極容易にたとえば鬱病鬱状態といったものを甘えとして批判するような態度に結びつくように思われるということ。さらにもう一点、1960年を始め、そのひとにとって特別な意味をもつ過去の地点を述懐する人々は、「あのとき」を今とは断然された時として感じ入っているのだろうということ──つまり、今はあの時ほど難しい時代ではないから、作品をつくるのも難しいという言外の思いがそこにはにじみ出ているということである。だが、今は「あのとき」から完全に断然しているなどと、今は「あのとき」と比較して難しくないときであると、なぜ言うことができるのだろうか。「あのとき」とは安保だけではなく、もちろん戦中戦後をはじめとする歴史における数々の困難のときとも置き換えることもできよう。今現在、この国が戦争の真っ只中にあって、精神科の薬どころか食べるものや飲むものにも困っているのではないというこの運命的現状は、確かに間違いなく幸せなことであると思う。しかし、戦争を知らないということだけによって、人間はより幸せであることを保証されるのだろうか。

 

安保闘争の終焉以降、人々の問題は社会から内面へと移ったとする社会学歴史学による心理分析に従うならば、制作意欲を可能にするためには、ほかでもない人間の「病んだ心」の追究が必要とされただろう。しかし、追究する側もされる側も同一の存在であるとき、社会への怒りを見つけ出すような手さばきは無論通用しない。幸福であることも、苦衷に沈むことも、どちらについても私たちは独り善がりの自信と頑迷な懐疑を矛と盾にして振りかざすほかに方法を知らない。ネガティブな感情を生産性へと結びつけるという方法は、有効に機能すればするほどに、漠とした不安を私の心に生んでいく。

 

偶然にも高校時代を同じ場所で過ごし、偶然にも同じ大学へ進学し、同じ学部で学び、殆ど同じ場所で暮らして、私がよく使っていた線路で死んでいった高野悦子という女性について折に触れては考える。私より30年先に生きた女性だが、なんだかもっとずっと昔に生きた人のように感じられる。それなのに、見知ったキャンパスや街について書き記している彼女の日記*1を、私はまるで交換日記の相手の文章を読むように読む。彼女の文章には、決して対社会と対自己内面を明確に割り切ることができないなにかが刻み込まれている。果たして、彼女の亡くなった1969年あたりを境に、社会は失われすべてが経済活動に覆われた人間のさもしい内面に「なった」のだろうか。そうではなくて、そのような内面は今という時代の特許物ではなく、ずっと以前から当然のようにあったものなのではないのか。そして、半世紀以前のあのような「社会」に関しても、いまも変わらずあるのではないか──より潜在化されているかもしれないとしても。

 

「(…)己の立場をどちらかにして何かの行動を起こさねばならぬ。でなければ、ただすべてを受身に、生きることもなく、死ぬこともなく、生きていくようになるのではないか」(高野悦子二十歳の原点』新潮社, 1971, p. 27)

 

「現在を生きているものにとって、過去は現在に関わっているという点で、はじめて意味を持つものである。燃やしたところで私が無くなるのではない。記述という過去がなくなるだけだ。燃やしてしまってなくなるような言葉はあっても何の意味もなさない」(Ibid., p. 170)。

 

「生きることは苦しい。ほんの一瞬でも立ちどまり、自らの思考を怠惰の中へおしやれば、たちまちあらゆる混沌がどっと押しよせてくる。思考を停止させぬこと。つねに自己の矛盾を論理化しながら進まねばならない。私のあらゆる感覚、感性、情念が一瞬の停止休憩をのぞめば、それは退歩になる」(Ibid., p. 151)。

 

私が病気を含め、自分に関する問題を内面ということばによって考えることに抵抗があるのは、それが別の文脈でぼろぼろになるまで分析され物語られ使い古されるのをただ手をこまねいてみているようなことをしたくないからかもしれない。私の内面は、十分に社会化された内面であるかもしれないし、内面の風を装った症状かもしれないのだ。ベランダの角に落ちて溜まった暗闇が、なにか秘密めいた風に安らいでいる。なにか過去のことでも知っているのだろうか。明日は今日よりよく晴れるという。窓の外に風を心地よく感じることができるだろうか。

 

 

 

 

 

*1:高野悦子二十歳の原点』(新潮社, 1971: 新装版2009)『二十歳の原点序章』(新潮社, 1974: 新装版2009)『二十歳の原点ノート』(新潮社, 1976: 新装版2009)。近年それぞれガンゼン社より新装版が、『二十歳の原点』は新潮社より文庫版が出版されている。

Wikipediaは燃えるのか: 過去の証明

 

2014年なんて、ソチオリンピックなんて、ずっと先の話だと思っていた。ずっと先だと思っていたものが現実になっていくことに驚愕しているというよりも、ずっと先だと思っていたものがすさまじい勢いでどんどんと過去になっていることに、私は心の底から驚嘆している。過去となったことを証明するように、Wikipediaのページは増え続ける。世界はほとんどが未来と過去で出来ていて、現実が占める割合は存外に少ない──今のところ思いつく「現実」の居所といえば、歴史を読む人においてくらいではないか。

 

美学が果たす任務とは、ある意味において、断絶がもたらされるまでは伝統が果たしてきたのと同じ任務である。つまり、過去の網の目のなかなでほつれてしまった糸を繕い直すことで、美学は古いものと新しいものの軋轢を解決する。この軋轢の宥和なくして人間は生きることができない。なぜなら人間というこの存在は、時間のうちに自己を見失いながらも、時間のうちにふたたび自己を見いださねばならず、したがってあらゆる瞬間において、自己は過去と自己の未来にさらされているものだからだ。伝承可能性の破壊をつうじて、美学は、否定的なしかたで過去を回復する。こうして伝承不可能性は、感性的な美のイメージにおいてそれ事態ひとつの勝ちになり、それゆえに人間の行為や意識を基礎づけるひとつ空間が過去と未来のあいだに拓かれることとなる。(ジョルジョ・アガンベン『中味のない人間』岡田温司/多賀健太郎/岡部宗吉訳, 人文書院, 2002, p.163)

 

農学研究科生物資源経済学専攻の司書室から、文献所在不明のため貸出申請に応じられないとの旨のメールが届いた。なんだかんだで断続的に一年くらい探し回っているヘイドン・ホワイト『物語と歴史』をやっと見つけたと思ったら、歴史関係の研究科ではなくなぜか農学研究科にあるというので、貸し出しの申請をしていたのだ。『物語と歴史』の版権は平凡社にあるようだが、リキエスタの会からオンデマンドで出版された書物らしく、刷られた数がそもそもかなり少ない。そのため法外な値のついた古書としてもほとんど見かけることのないタイトルの一つである(切実に平ラに入りに希望)。ヘイドン・ホワイトは、分野的に共通するところの多い研究を行っているカルロ・ギンズブルグやドミニク・ラカプラに比べても日本での訳出にあまり恵まれていないようで、何年も前から翻訳が出版されるとの噂がある Metahistory: The Historical Imagination in Nineteenth-Century Europe (Johns Hopkins Univ Press, 1975)も2014年になってもまだ具体的な出版日などは聞こえてこない。40年前の書物を訳出刊行したところで誰が読むのかとも思うが、殊『メタヒストリー』に関しては現在進行形の歴史(哲学)研究による引用も多く、歴史学の必須文献のひとつであるといっていい。ともあれ『物語と歴史』のほうは、図書資料の管理に関してびっくりするくらい大らかなこの大学の各図書館のどこかからまた連絡がくるのを期待して待つとしよう。*1

 

ここのところの不調で集中力と体力が劇的に低下しているため、なかなか映画一本見通すことが難しいのだが、十分に元気なときは持てる力のすべて以上を研究と勉強にあててしまうため、このままいくと映画をまったくみることなく人生を終えそうなので、ブラウザをみる体力があるときには気ままに休憩をはさみながら映画をみている。

 

ウンベルト・エーコ薔薇の名前』(河島英昭訳, 東京創元社, 1990/原題:Il Nome della Rosa, Bompiani, 1986)を映画化した『薔薇の名前』(1987/原題:Le Nom de la Rose)を鑑賞。ウンベルト・エーコを初めて読んだのは、大学一年の春だった。美術関係の専攻を志望する者たちにとっては『開かれた作品』のエーコ、文学徒の道に踏み入れんとする者たちならば『物語における読者』のエーコであるが、私が最初にエーコを知った(そして、日本語に訳されているはずなのに外国語を読むレベルの難しさに目が眩んだ)のはこの『薔薇の名前』という小説を通じてだった。築80年を超える文学部棟の一番上の階の午後の陽がよく入る大教室で、「生物の多様性」と冠されたいまは亡き遠藤彰先生による大変ユニークな講義が行われていて、そこでエーコの『薔薇の名前』がしばしば言及されていた。遠藤先生がなんだかいつもとても楽しそうにこの小説について話しているのを見聞きした初学者としては、わからないながらも読んでみないわけにはいかなかった。映画のほうもずっと観ようと思っていたのだったが、しかし、あのエーコの小説を映画化することなど絶対的に不可能であるように思われ、その懐疑心からなかなか手が出ずにいた。小説よりはもちろんとっつきやすかったが、随分シンプルな物語であった印象を受けた。小説になかなか手が出ないときに、とっかかりとして映画を観るのはいいかもしれない。修道院が燃えるシーンを観ながら、自分の家や研究室が火事にあったら何を持って逃げるかとジャン=クロード・カリエールに問われたエーコがHDDと答えたという伝説的逸話を思い出していた*2。本が燃えるといえば、Fahrenheit 451*3以来お決まりの知と人間と過去未来についての物語だが、そこにきて外付けハードディスクというアイテムはどうやってその物語に組み込まれるのだろうか。いや、それどころかWikipediaは燃えない。クラウド化がさらにすすめば、火事はおろかウィルスくらいではデータも消失しようがないのだから、ハードディスクを物理的に持って逃げるという想定すら必要ない。SFをますます希求する世界はまだまだ続きそうだ。だが、私が高校生のときに読んだ Lois Lowry の The Giver  はきっと10年前よりむしろずっと多くの読み方が可能な物語になっているように思う。(ちなみに、私はまだ若い親戚かお友達に本をプレゼントするならば、The Giver と Jerry Spinelli の Maniac Magee を翻訳とセットで贈ることにしている。)


      
      ◇映画『薔薇の名前』日本版予告篇 

 

 

それから、フランスでテレビ映画として制作された『サルトルボーヴォワール──哲学と愛』(2006)を鑑賞。映画としては特に興味を惹かれるところはなかったが、サルトルボーヴォワールというカップルについてのドキュメンタリー的な、あるいはむしろゴシップ的なおもしろさはあったかもしれない。それに時代的背景を思うと、さぞかし暗澹たるタッチでサルトルボーヴォワールが描かれるのだろうと思いきや、全編に渡って小気味よいジャズの四つ打ちやワルツの三拍子が鏤められており、なるほど万人の注意を引くテレビ放映モノという感じだった。個人的には思想という面からサルトルボーヴォワールにシンパを抱くところは殆どないのだが(一回り若かったら、あるいは生まれるのがあと三十年早かったらいざ知らず)、この映画を観ているとサルトル実存主義が政治的アンガージュマンを求めるにいたるまでの様子やいまや歴史の一部として捉えがちな約一世紀前の知性や概念を、血の通った生々しさを伴ってアクチュアルに垣間見ることができ、哲学の初学者たちがみれば霊感を得るところも多いかもしれない。ただ、サルトルボーヴォワールを並列しているタイトルに反して、実際はどちらかというとボーヴォワールからみるサルトルという画角で描かれていることが多く、概してボーヴォワールの物語というべきだろう。そういうわけで、私が一番おもしろかったのは、ボーヴォワールのファッションとメイク。とてもチャーミング。

 

      
      画『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』予告編

 

 

恋愛はともかく、私は同業者との結婚は絶対にいやなので、上述の偉大なる哲学者カップルにはまったく憧れるところがない。それに、ヒッピーのライフスタイルというのも好きではない。近頃はシェアハウスが流行っていて、まあそれ自体はいいとしても、大抵の場合シェアハウスに入りたがる面々はヒッピーとかサルトル的な自由とかを崇拝していたり憧憬の的にしていたりするから、私はそれだけでシェアハウスという文化に懐疑的な眼差しを向けてしまいがちであることを告白しておかねばなるまい──とはいえ、一度あるパーティーで某有名シェアハウスに迷い込んだことがあった(おいしい豚汁を振る舞われました)。それから、もし火事になったら、私は飼い犬の遺骨が入った壺を持って逃げるけれど、もしかしてセラミックのツボに入った骨は火事どころではもう燃えないのだろうか。生活というメモリのなかにあるほとんどのものが、未来か過去であり、その上置き換え可能のように思えてくる。「今を生きろ」なんてアフォリズムにそそのかされては、人間がしばしば人生というものに迷うのもきっとそのためであろう。今は未来と過去の集積場、嘘も嫉妬もないところに自由なんてあるはずがない。嘘や嫉妬のない場所は、無関心以外のなんだというのだろうか。(無関心に支配された場所では、誰を責めることも嫉妬することも、そして恋をすることもないのだ。)無関心は、きっとこの世で一番未来と過去のない場所である。

 

 

 

 

*1:ちなみに、立命館大学の先端学術研究科が2009年にヘイドン・ホワイトを招聘した際の講演〈 アフター・メタヒストリー ──ヘイドン・ホワイト教授のポストモダニズム講義〉の記録を訳出公開している: ヘイドン・ホワイト「ポストモダニズムと歴史叙述」吉田寛先生が立命に来て間もないころのはずだが、病床に伏していたのか、はたまた課外活動に励んでいたのか、私はヘイドン・ホワイトが来日していたことも知らなかったどころか、この頃の記憶が全般的にまったくない。

*2:「書物の話をさんざんしておいてなんですが、私[=エーコ]の場合、今まで書いたものすべてが入っている、二五〇ギガの外付けハードディスクを持って逃げますね。それ以外にも、何か持って逃げられるとしたら、今まで集めた古書のなかで、必ずしもいちばん高価とはかぎらないけれども、いちばん気に入っているものを選んで持ち出そうとするでしょう。ただ、問題があって、どうやって選ぶかということです。あんまりゆっくり考える時間がないほうがいいな。そうですね、ベルンハルト・フォン・ブライデンバッハの『聖地巡礼』でしょうか。シュパイヤーのドラーハという出版社が一四九〇年に刊行したもので、折りたたみ式の大きな版画のついた素晴らしい本です」(ウンベルト・エーコ/ジャン=クロード・カリエール『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』工藤妙子訳, 阪急コミュニケーションズ, 2010, p. 59)。

*3:Ray Bradbury, Fahrenheit 451, Ballantine Books, NY: New York City, 1953; trans. 『華氏451度宇野利泰訳, 早川書房, 2008.