de54à24

pour tous et pour personne

サバイバルに必要なのはナイフではない

 

今年で一番夏に近い日の朝に目を覚ますと、いつものように淹れたコーヒーに氷を三つ浮かべた。それからカップを持っていつものようにベランダに出て、よく晴れた青空になんとも言えぬ満足感を覚えながら、南側と西側の壁に沿って並べたプランターのなかの様子を眺めた。確実に、日毎に緑が濃くなっている。みれば、先週植えた朝顔の種のうち、七つが双葉を一生懸命土の中から引っ張り出している真っ只中だった。その様子は発芽というよりも、むしろ出産と呼ぶべき姿のような痛々しく生々しい、そしてなによりグロテスクな光景だった。その『エレファント・マン』(デヴィッド・リンチ監督, 1980)的なグロテスクさは、ほ乳類の出産とは違い、「産む痛み」と「産み落とされる痛み」が同一の芽の中に凝縮されているからだろうと思われた。切られるべき臍の緒が存在しないということだけで、誕生はかくも怪異なものとなる。母胎という grotta (洞窟)から生まれ出る者たちよ、この世界は、産み落とされる場所として、十分に美しい時空間であるだろうか。

 

学部生の頃のある夏、夏休みに帰省する場所も習慣もない私は、かなりまとまった量の映画を観た。私が学部時代に在籍していた大学では、突如山田洋次監督を客員教授として招聘して映像学部を設立する以前、映像や映画関係に委しい教官のほとんどが文学部で教鞭をとっていた。ヨーロッパ映画を専門とする者は多くなかったが、美術史や現代アート批評の専攻にある教官は誰でもそれなりのシネフィルで、場合によっては映画について語らせたら専門の美術史より饒舌であったりもした。また、特に北野圭介先生のようなハリウッド系の研究者は毎年いくつかの講義で広く映画史について講義をしていて、次から次へと紹介される映画(北野先生はその頃大好きなオードリー・ヘップバーンの魅力についてを語り尽くしていた)を観ながら──三時間ぶっ続けで映画を観る講義もめずらしくなかった──、初めて知る監督の名前や女優の顔に一々心を揺さぶられた。講義のあとで友人たちとどこのレンタルショップでどの映画のDVDが入手可能かなどという情報交換をしていたのは、いまでも懐かしく思う。その頃の私もまた、そんな環境に育てられては文学部の学生らしく当然のようにヌーヴェル・バーグやフィルムノワールなどにかぶれていった。

 

TSUTAYAなどのレンタルビデオショップのように新しいものを入れると同時に古いものから廃棄しているところとは異なり、大学からほど近いところにある店には古いものから新しいものまで、まさしく映画を観たい者向けのラインナップが揃っていた。TSUTAYA大学図書館の間を絶妙に埋めてくれるこの店によって映画を観る目を仕込まれた学生はきっとかなりの数になることだろう。現に、三年生から所属したゼミには実に多くの映画好きが集まっていた。必要なのは講義の出席回数ではなく図書館と映画館とレンタルショップだ、というのも言外で教官から学生に伝えられたメッセージであった。ただ、一日に三、四本観続けていると、作品同士が溶け合ってしまい、もはやなにを観たのかすら明確に思い出せなくなることもしばしばあった。それを防ぐためにも時折キャンパスに顔を出しては、同様の境遇にある友人たちと観たばかりの映画について他愛もないやりとりをした。そんななかでも特に印象的だった作品が両手に収まる程度あるのだが、そのうち特にふと頭を擡げるのが、そのうちのふたつがラリー・クラーク監督の『キッズ』(1995)とガス・ヴァン・サント監督による『エレファント』(2003)である。共にアメリカを舞台とした “キッズ” たちの映画で、特に前者はAIDSを題材とし、後者は1999年コロラド州コロンバイン高校銃乱射事件という事実に基づいた映画である。後者はいままで何度か観たのだが、前者『キッズ』はあの夏の夜に一度だけ観たきりで、それ以降観るチャンスに恵まれていない。しかしそれでも年に何度か、あのうら若きクロエ・セヴィニーの薄く涙を浮かべた不安そうな横顔と共に思い出されるのだった。

 

      


      

 

私は、邦画に関しては特によい鑑賞者ではないのだが、しかしながら、上記のような映画を観ると、日本には題材として作品化するべき事件がたくさんあるのにも関わらず、そういう映画がとても少ないように思う(少なくともレンタルショップで簡単に観られるものはとても限られている)。事件や事故を風化させないためにも、一時の麻疹のように湧いては消えるワイドショーの特集やニュース映像、あるいはメモリアル的に制作されるNHKのドキュメンタリーなどでは救いきれない細部や形式のためにも、想像と創造によって汲み取り、補い、いつでも取り出せる映画という形の歴史と記憶に残しておくことは、非常に重要だと思われる。そしてそのような映画は、言うなれば一篇の「映画」として撮られるべきではなく、むしろ現実の再構成、あるいは関わった人間達の記憶の想起として実現されるべきであるというのが個人的な指向であり願望である。例えば、本国において米国コロンバイン高校銃乱射事件に匹敵する重大な少年事件、秋葉原通り魔事件(2008年6月)を映画化した作品──大森立嗣監督『ぼっちゃん』──が昨年夏に公開されたのは記憶に新しい。

 

       

映画に関してはとくにフォーマリスティックな指向性を持っているため、やはり私は「なにを撮るか」ではなく「どう撮るか」ということが映画にとっては絶対的に重要だと思う。その点で──この映画を非難するつもりは毛頭ないが──『ぼっちゃん』では、偏頗な構成によりあの秋葉原無差別殺傷事件の最も記憶されておくべき部分のいくつかがまだムネモシュネの成立には足りないように感じられる。無論、その片手落ちの軽い感じが大森監督の感性であり個性であるということをある程度は理解した上で、それでもなおこの題材を選んだ限りにおいて「どう撮るか」ということに関しては、より多くの作家や監督が挑むべき課題であると考える。

 

先月半ば、雨宮処凛がBLOGOSに秋葉原無差別殺傷事件の犯人加藤智大の弟が自殺(享年28歳)したことについての記事を寄せていた(被害者遺族と加害者家族 〜秋葉原事件犯人の弟の自殺に思う〜 の巻 - 雨宮処凛(マガジン9) - BLOGOS)。雨宮処凛に関しては、最近のプレカリアート問題に関する仕事はもとより、若かりし頃の右翼活動時代から精神疾患、自殺者の問題についての関心まで、無鉄砲、あるいは特攻隊的とも思われるような体一つで問題にぶつかっていくようなその姿が実に印象的である。見ようによっては計算や思慮が欠けすぎているようにもみえる彼女のやり方だが、しかし特に理屈や技巧が通用せず、風化という時間との戦いでもある社会的問題に取り組もうとする際には、そんなやり方もある程度は有効なのかもしれない。思い出されるのは、以前彼女がずっと若い頃に北朝鮮へと渡った姿を映し出したドキュメンタリーである。静かに淡々と進む映像に反して、その記録は非常にショッキングなものであった。それは恐らく、そこに映っている彼女があまりにも生々しく個人の内面的な傷と弱き社会的存在としての痛みを一挙に感じ受けていたからではないかと、私は私の傷の痛みをもってそう解釈した ── あの映像に映っていた少女を終えてまだ間もない女性が、今日も自殺することなくきちんと大人になり、生き続けているというのはとても信じがたいことにすら思われてならない。

 

あらゆる事件の加害者家族の問題については、確かに事件そのもの、被害者とその家族、そして犯人についての報道や関心に追いやられるようにして、語られ鑑みられることがとても少ない。しかし、生きている現実という意味では加害者家族もまた、加害者、被害者、そして被害者家族と同等の希望のなさと逃げ場のなさに一生涯追い詰められ続けるに違いない。秋葉原事件の加害者の弟の自殺は、死へと向かったその意思や方法において、あるいはまた検視的にも生物学的にも無論自殺と認定されるものであるだろうが、その人間を死へと追いやったものについての動機的、観念的な死因を考えれば、そのほかすべての自殺という事態同様、「単なる自殺」ではないことは明らかだ。「単なる自殺」などはこの世のどこにも存在しない。多くの思惟や思考は、秋葉原通り魔事件、あるいは加藤智大そのひとが、自らの弟を死に追いやったのてであるという説明や納得に帰着するのかもしれない。しかし、そのような然もありなんなことを思い浮かべると、私はそこにある圧倒的と言ってもまだ絶対的に足りないほどに深淵な【思考停止】を感じずにはいられない。私は、そのような結論めいた答えに納得するのではなく、ただそれ以上の思考も想像もまったく持ち合わせていないということにただただ強直してしまっているのかもしれない。

 

その【思考停止】は、悉皆奈落の底のようである ── 奈落の底として目に映る漆黒の闇は、絶対的な深みという空間概念なのであり、物理的な底面ではない。加藤智大というあの通り魔殺人鬼が秋葉原という特殊な加工を施されたかのような街に誕生する数日、あるいは数時間前、その頭のなかに見ていたものもまた、この奈落の底のような永遠の闇、ただそれだけだったのかもしれない。そして、映画というスクリーンの上の光は、この思考停止という漆黒の闇へ放たれる光となることを望むべきなのだ……。

そんなことを、菊地成孔のジェントルで嘘っぽく、それでいて甘やかな声が呼び込むジャズサウンドに身を委ねながら思っていた。金曜の真夜中に赤坂から粋な夜電波に乗って届けられる耽美的な時間には、一週間のなかでもっとも重厚な優しさと芳醇な自由が詰め込まれていた

 

 (…)犯人にとってアキバのホコテンは、呪いの詰まった、汚すべき場所という側面(タクマに於ける小学校の校庭や、アメリカで頻発するライフル乱射事件に於ける高校の大食堂のような)もあったかも知れませんが、同時に「アキバのホコテンなら、解ってくれる(乃至、喜んでくれる/面白がってくれる/怖がってくれるetc)という、「許してくれる場」であったことが想像出来、これがこの事件の第二のネクストレヴェル性であって、つまり事はアキバだけではなく、現代性の推進は幼児性の進行に他ならないという、面白くも何ともない、在り来たりな結論です。 (…)

➡Read ALL  菊地成孔『PELISSE』「速報」2008. 6. 13 更新分 

 

ドラッグを極めて大雑把に定義するならば「現実感を無くし、万能感を得られるので日常の憂さが晴れるし、脳の働きが非日常的になるので何かが解った(悟った)気などもするのだが、実際は何も無い。また、中毒や依存した場合の代償として被害妄想と無能感とあらゆる痛みに苛まれ、廃人に至る」ものであって、携帯/ネット/アニメ/ゲームは現代を代表するドラッグです。安価で高性能なのが手に入りますし、何せ国家にドラッグだと思われていません。ほとんどのハードドラッグが、発明され、流通され始めた当初はドラッグだとは思われていなかった。(…)我が国はマリファナひとつ解禁出来ず、パソコンとネットは大盤振る舞いである社会ですが、一方でこれも実に日本っぽい話なのですが、「やばいとなったら手のひらを返した様に徹底的に取り締まる」というのも我が国の姿ですから、携帯(以下略)がドラッグだという事の確認/立証/看做があったら規制されると思うのですが、認識されない限り規制はありません(在刑法定主義が云々、といった司法の議論は何の役にも立ちません。それがドラッグだと認識されるかどうかだけが総てです)。(…)現代人は、極めて大雑把に「労働」という1セット制から「労働/趣味」という2セット性を経て、現在「労働/趣味/ネット世界に接続」という3セット性に生活時間の区分を進化させていますが、そのうちのひとつがドラッグなのだという事について、一般的な認識が無さ過ぎると思います(たとえ話で「ネット中毒」とか「アニメはドラッグ」とか言っても、それは認識からむしろ遠くなります。普通にトルエンやコケインやアンフェタミンの様にドラッグなのだ。と知るべきです。 

(…)
恋の悩みに関しては専門外ですので、いささか無責任な事を言いますが、告白すべきだと思います。告白して上手く行っても、断られても、同じ事です。告白するかどうかは、結果の如何ではなく、告白するかしないかのみが問題であって、告白しない理由というのは「振られたら傷つくから」以外に想像がつきません。傷つくのがイヤという理由だけで告白が出来ないのであれば、それは生きていないのとほぼ同じです。傷ついて初めて時間と空間は生じます。傷つくのを回避する人からは時空間が消え、自殺以外やる事が無くなる訳です。勝ち負けが世界を支配していると言うのは間違いではありません。問題は、勝利がどこにあるか、敗北がどこにあるか深く知る事です。

➡Read ALL 菊地成孔『PELISSE』「速報」, 2008. 6. 17 更新分

   

 

かつて、オールナイトでアート系クラブイベントを主催するにあたり、会場や出演するDJなどを探していたときに、ふと袖振り合うも多生の縁とばかりに出会った人がいる。私よりひとつ若い彼は同じ大学の出身で、当時はバーテンのバイトなどをしながらクラブに出入りすし、DJ名を名乗る夜の街の青年だった。別な知り合いから、この街のクラブシーンのことなら彼に訊けばいいと、彼の名前を教えられて手許にあった紙片にメモをとった。それだけを頼りにクラブオーナーやDJやミュージシャンたちに訊ねてまわりながらとあるバーで働いていた彼の姿を見つけた。その当時もゆっくり話をしたわけではなかったが、それでも彼がシャイな人間が多いDJという人種にしてはめずらしく初見でも大変人当たりがよく、そして話をしていればすぐに分かるとびぬけた知性の持ち主であった。そんな彼は、数年前に上京して介護関係の職につき、結婚し、こどもを持ち、そんなわけで今は家族三人、小さくも真正な幸福に包まれた家庭を生きている。私は、彼ほど上手にお酒が飲めるひとをまだ他に知らないし、彼ほどその愛息の人生に責任を持つという意味を理解し体現している男性をまだ他に知らない。彼の撮した写真に写された絵に描いたようなつぶらな瞳の小さな男の子は、お父さんに教えてもらうこの世界とこの人生を生きるたくさんの方法に護られた犀利さとしなやかさを湛える笑顔を浮かべていた。

 

今日の夕方にふと大学の図書館に行きたくなってキャンパスのある東の方を見たら、深緑の山が連なっているとばかり思い込んでいたところに、黄色くくすんだ斑模様をした一連の山が見えた。あの黄色く見える樹はなんだろう? 視線を下ろすと、対面の学校の校庭の真ん中に一本すっと立った銀杏が、若い緑の葉を豊かに茂らせていた。それを眺め見ながら『愛雪』という美しい名を持つ書物が頭を過ぎった。それは、父となったあの知的で誠実な青年が「偉大なる先達」と呼ぶ新田勲さんの著書だった。クラブの喧騒ではなく、いまは『愛雪』を読みながら夜を過ごす彼は、こんなことを言っていた ──「あらためて介助ってのはいい仕事だ。無限の可能性を秘めていて、どこからはめても綺麗な絵が出来ていくパズルのようだと思う。そして底がどこまでも深い。単純な介護技術だけではなく、選択できる無数のアプローチがあって、はじめて介助者になってきたなと思う。介助を労働という位置まで持ってきてくれた先達には頭があがらないし、介助を続けさせてくれている皆々様に感謝しながら一杯飲んで寝ます」。

 

 おやすみ、この途方もない世界。