de54à24

pour tous et pour personne

二つの降誕祭

久しぶりにfacebookを覗くと、旧友たちが毎冬と同じように日本各地、世界各地でクリスマスホリデーの陽気さに包まれながらそれぞれのクリスマスを楽しんでいる様子であった。クリスマスもお正月も、基本的には集まって物を食べ酒を飲み、イルミネーションや神社を見に行くことで満足するように出来ている日本という土地や日本人という文化にはそれ以上のイベントはなかなか受け入れられないのだろうが、私はクリスマスの数日前に行われるパーティーの雰囲気も大好きである。ドレスを着て、いつもより甘い香水を纏い、自分の腕を軽くパートナーの腕に回し、すれ違う人々と「Merry Christmas!!」を交わしながらたどり着く大きなホールでのクリスマスダンスパーティーもそれはそれでとても素敵な時間であるだろう。クリスマス休暇を前にした人々は、他のどの休暇を待ち望むよりも幸せそうに見える。心を込めて、Merry Christmas and a Happy New Year☺︎*

 

大学に来てからというもの、クリスマスを過ごす恋人や友人がなかったわけではないが、あったところでミュージシャンの彼は、これぞ稼ぎ時と言わんばかりにクリスマス前後はあちこちに出払っていたし、あるいは彼女のある人はもちろんその娘と過ごすはずであり、また友人たちと集まったところで(正月と同じどころか)外気が冷え込むようになってから毎週末のように自然発生していた鍋を食べる会となにも変わらない──どこへ行っても他の誰よりもお酒を飲む私は、クリスマスに託けてシャンパンを開け、その後手酌でビールやらワインやらウィスキーやら日本酒やらを飲み干しながら、友人たちの恋の悩みや惚気話をアテに上機嫌で酔っ払うのが常である。二十代も後半にもなれば、キャッキャキラキラのクリスマスもいいがおいしくお酒が飲めることほど幸せなものもなかろうと悟り始める。そういうわけで、ここ何年か、私のクリスマスはいつも平日仕様である。

 

それでもなぜかクリスマスはいつもどこかスペシャルで、それだけで幸せな気分になる。それは多分、これまで過ごしてきたクリスマスの数々があまりにも幸福だったからかもしれない。特に幼少期は、キリスト教系の幼稚園だったこともあり、毎年かなり本格的なクリスマス会があったし(しかしそこで年少年中さんは蠟燭を模した電気のおもちゃを持って小一時間の会に挑むのであるが、年長さんになると本物の火が灯された蠟燭を持って入場し、その後はとにかく灯が消えないように、そして自分が燃えないようにと最大限の集中力で蠟燭を見つめることに終始するため、割と会どころではない)、通っていた絵画教室の先生は中東系の御一家だったため、イエス様の生い立ちについての講話やら数十人の子供たちが満足するために用意された大きなクリスマスケーキやら聖夜の晩餐やらと、一年に使えるエネルギーの半分はクリスマスのために使われているような感じだった。しかし、それにもかかわらず私がクリスマスの思い出を振り返れば真っ先に思い出される二つのクリスマスは、まったくクリスマスらしくもなく、そしてそのためにこそ私はこの先もずっと12月になれば、7才と16才のクリスマスを否応なく思い出すのだろうと思う。

 

12月25日は私がいまでも変わらず心より敬愛し、この人生が終わってからでもいいからもう一度会いたいと願う祖父の命日である。7才という年頃から考えるに、もしかするとそれは私が「死」という概念を初めて理解した別れだったかもしれない。膵臓に癌を患い、長年入退院を繰り返しながら、最後は痛み以外の意識がすべてなくなって、親戚中が集まる病室は孤独よりもずっと辛い現実を前に皆最愛の祖父の死すら祈るような気持ちで過ごしていた。まだ幼く、死に別れる悲しみについてまだほとんどなにも知らない私にですら、それはどんなことでも適えてくれる父が悲痛に涙するほかない殆ど世界の絶望に等しい事態だということを理解した。

 

どんなことがあろうと、25日の朝にはサンタクロースが残していったリボンのついたプレゼントが枕元や足下に置かれていたのだが、7才になったばかりのクリスマスの朝は部屋中が荒涼と静まり返っていた。私がサンタクロースが両親であることをついに認めたのは、この時だった。しかしそれと同時に、葬儀の準備が手際よく進められる中、祖父の通夜に集う何十人もの祖父の友人たちにお酌をしたり、もう殆ど生前の祖父の面影が見えない姿で部屋の真ん中に横たわる祖父を見つめながら、もしかすると祖父は選ばれてサンタクロースになったのかもしれないというひらめきを心の底から信じた。

 

愛する人との別れで一番悲しい瞬間は、息を引き取ったその瞬間と、葬儀で誰しもが嗚咽を飲み込むことができず、大人であることを忘れてるほどの混乱に引きずり込まれるときであって、その二つの悲嘆の時の間に漂う時間──死者に対する恭敬の義務を淡々と片づけている時間──は、まるであの絶望的な悲憤など幻想であったかのように静穏な空気に包まれている──おそらく、一時の情緒的な喧擾の後に続くこの精邃閑寂たる時間こそが死別というものだと、私はその後何年もの時を経て考えるようになった。滅多に会うこともない人々が家中を埋め尽くし、酒を飲み、いつか故人と笑い合った思い出を取り出しては閑かに笑う、そんななんとなく不思議な大人達の様子を感じながら、それは名付けようのない時間であり、なにか秘密のパーティーのようであると思った。誰もサンタクロースの格好はしていないけれど。

 

今でも私はサンタクロースになった祖父をどこかで信じているようで、今日はどこかで祖父と再会できるような気がしている。

 

約10年の後、私は高校生になった。小、中学校時代は心身症やパニック障害で殆ど物も食べられないときもあり、さらには広場恐怖による著しい外出制限のなかで生活していた。そのため勉強どころではなかったのだが、しかしそれでも親心としてはその先のことを思い、少し無理をしてでも私のことを高校へはやろうとした。そのため私は、特に中学になってからの勉強を殆どすべて教科書と進研ゼミを使って独学で学んだ。そして、他の友人達と同じように冬空の下、少し遠くにある高校へむけて自転車を走らせ、受験をした。公立高校には出席日数が足りなくて試験を受けることもできなかったので、私立高校の普通科を受験することにしていた。そして無事に合格、進学の運びとなった。

 

とは言え、それまで4年に渡って不登校児だった私が、果たして突然なんてことのない女子高生のような顔ができるのかは甚だ疑問であった。1クラスに50人弱の生徒が詰め込まれた多学科30クラス以上あるマンモス校のなかでも、1組から3組は特別進学クラスというようななにやら気色悪い名称が付けられており、そこに監獄された生徒たちはその学校のパンフレットに載る東大やら京大やらを連想するための数字を担わされた奴隷のようなものであった。私はただ体調不良から逃れて穏やかなハイスクールライフを過ごしたかっただけなのだが、なぜそんな高校を選んでしまったのか、選択ミスを悔やまずにはいられなかった。

 

仮にも県下トップクラスの進学校、朝はスカートの丈を測られ、街には自転車で通ってはならないいくつかの道があり(他校の生徒との揉め事防止策)、もちろん部活は禁止であった(それにも関わらず私は春休みの間、母親に唆されて髪を茶色に染めていたため、度々生活指導から北側の暗い教室に呼び出されては「なぜ染めたのか」「黒にもどしなさい」という判を押したような台詞を聞かされていたが、あまりにしつこいのでそのうちそれから逃げ回ることを日常とするようになった)。そんなルールを教え込まれながら、そのルールの外にある他のコースや学科の生徒たちのあまりにも楽しげな様子にいつも窓から見とれていた。そんなことをしているうちに、とりあえず気候も穏やかな春はなんだかよくわからないうちに終わった。

 

しかし、再び「テストの点数がよければ学校だって、茶髪もピアスもスカート丈も、自由にしていたってなにも言わないよ」という母の悪魔のささやきに教唆され、ほとんど生活指導の監視を振り切るためだけに私は中間テストに挑んだ──ながらく引きこもりであった私には、残念ながら悪い意味で家族が友達なのであった。そして担任(私はこの化学を教える若い女性の担任がとても好きだった)が喜ぶほどの高得点で乗り切った直後、そんな雑多な生活に飽きたのか、ふたたび体調をひどく崩し、そのまままた学校へ行けなくなった。それから梅雨が明け、夏休みとなり、二学期が始まり、それが終わる頃まで、実に短い私の高校生活のなかで友人となった3人の女の子たちがしばしば学校での様子を話しに下校後うちへ遊びにきていた。しかし、私はもう学校には戻らないような気がしていた。その頃は体調が若干回復するとなにも考えず、3時間も4時間も毎日ただただ街中を歩き回っていた。

 

しばらく悶々としていたが、そのどっちつかずの様子がなによりよくないと見込んで夏頃から退学を勧めていた両親が、私の16の誕生日がきたころ、再三再四退学を勧めた。もはや学校に行きたいとは思っていなかったのだが、いつものように辞めたいという思いよりもわずかに多く、高校を辞めたあとのことを案ぜずにはいられなかった。その時、父や母になんと言われたのだろうと思い返そうとするのだが、あまり覚えていない。それでも、冷静に考えれば考えるほど、あの高校に通い続けるのはその時の私にとって現実的ではなかった。毎朝具合が悪く吐き気と嘔吐に苦しむ日々がそれ以上生産的な時間に結びつくはずもない。そこにいる間、私はきっと具合が悪いままである。やがて、今度はむしろ退学したあとの自分の気分の晴れやかさばかりを想像するようになっていた。

 

そして、年はまたぎたくないとばかりに母を急かして高校まで車で連れて行ってもらい、どこかで見たことがある顔の先生(もちろん生活指導である)に退学届を提出した。(そこには担任がいるべきなのだが、先述の私のお気に入りの担任も、私を含めクラスに4人の不登校および登校拒否児を抱えながら精神を病み、ある朝ふらつく身体を押して登校したものの母親に送り届けられた先の校門で倒れて以来入院していた。その代わりの生活指導の教員は、相変わらず軽薄な笑顔でなにかを言いながら私の退学届を受け取った。腹黒いやつしかここでは生き残れないようである。)

 

ほかでもなく、退学届けを出したその雪のちらつく曇天の日がクリスマスであった。私の退学届けには12月25日という数字が並んでいるのかと思うと、それはそれで悪くない気がした。母の車に戻りながら、私は多分この先10年はこのクリスマスを思い出すのだろうな、と思っていた。

 

こうして時折やってくる私のクリスマスらしからぬクリスマス、そろそろ三度目が訪れるころだろうか。

 

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I wish you all Merry Christmas♡

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