de54à24

pour tous et pour personne

風俗街の舗道で、今日のナナたちの自由

 

一昨日の晩から、あろうことか「自由」について考え続けている。そして昨日の晩からはそれに加えて「本質としての死/現象としての死」という表現が頭からは離れない。寝て起きたら忘れるどころか、私の意思に代わって思考を続けていた夢のおかげで、寝起きの瞬間にはそこにあるものをすべて書き出さなくてはパンクしそうなほどに頭がいっぱいだった。混乱そのものと訣別するが如くほとんど力尽くで枕から頭を引き剥がした。顔を洗ってメイクをし、ロマンスという名が付けられた香水を耳の後ろに少しだけつけると、ようやく心が外行きになった。久しぶりにデニムのパンツに両脚を通し、母から譲り受けたセーターと妹が要らないといってよこしたダウンを着た。病院の予約時間にはまだ幾分早い時刻ではあったが、雪がちらつく真冬の空気を吸い尽くしたくて急いで部屋をでた。バッグにはスケッチブックとたくさんの鉛筆、記号論の本を一冊といつもつかっているノートとペンケースが入っている。朝の街を、通勤中の人たちに混ざって閑歩した。

  

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今日の診察は、主治医に背中を押してもらうための面談だったようである──畢竟、次のチャンスを生かせなかったとしても、あなたが懸命に向き合ってきた学問はこれからもずっとなくなりませんよ、と言われてすべてが腑に落ちた気がした。人生は人生、学問は学問、それ以外のなにものでもない──人生は学問でもないし、学問は人生でもないから、どちらかが転んで失敗しても、別な方が手を取って起き上がらせてくれる。

 

人それぞれ、たくさんの人間関係によって日々を編んでいるが、そのうち本質的な関係とは一体どのくらいあるのだろうか。つまり、いくつの本質的重要性──かけがえのなさ──によって裏付けられた人間関係があれば、人は十分安全に生きていけるのだろうか。かけがえのなさを決定する枢要なるものは様々であろうが、私はそのひとにしか訊けない(あるいは、そのひと以外に訊いても意味がないと思う)なんらかの質問や疑問が存在する場合、そのひとと自分との間に生じている関係性は本質的なものを含んでいると考えることにしている。そして本質的である関係性は、すべてを受け容れることのできる神ではない私が、生活のなかで物事に優先順位をつけるにあたって重要な礎となるのである。人間関係が大切なのは、コネクションやコミュニケーションのためではない。あるいは助け合いや繋がり、絆といったより精神論染みたものであるはずもない。人間関係が尊いものであるのは、それが自分の歩みを進める──自分の人生を生きる──道しるべとなるからに他ならない。人間関係において内面や精神を語ることは、翻ってその尊い関係をむしろ進んで瓦解することのように思われる。

 

ものごとの本質などというものを21世紀になってもなお大真面目に語ろうというのは、多少ならずとも言語に絶して自縄自縛に陥るのが明らかな愚行のように思われるが、それが「死」についてとなればなおのことである。再び、ゴダール女と男のいる舗道』についてを、ここに少しばかり呵してみたい。

 

今村純子氏(以下敬称略)は「瞬間の形而上学 : 『女と男のいる舗道』をめぐって」*1の第四章(pp. 30-32)に「「現象としての死」と「本質としての死」」というタイトルを付しているのだが、果たして死に現象も本質もあるだろうか──正確に言えば、死は常に現象であるところにおいて本質となるがゆえに、それらふたつを分けることなど無意味ではないか。とはいえ、重箱の隅を突くような議論をしていても仕方がないので、もう少し先へ進もう(死の本質と現象の問題についてなどは、おそらく後にウラジミール・ジャンケレヴィッチやエリザベス・キューブラー・ロスなどを参照して再考するだろう)。そこにはこのようなことが書かれている。

 

(…)物語の最終場面において、ナナを売り飛ばそうとするラウールと売り飛ばす先の「ひも」とのいかさいに巻き込まれたナナは、最初は売り飛ばす先の「ひも」に、次にだめ押しのようにラウールに撃たれた、死ぬ。まさしくこのナナの「現象としての死」の描写をもって、映画は幕を閉じる。/この主人公の突然の「現象としての死」は、鑑賞者に大きな衝撃を与えざるを得ない。だが、映画全体において問題になっているのは、この「現象としての死」ではなく、むしろ、この衝撃から逆照射される「本質としての死」である。つまり、射殺される以前に、「ナナの魂は果たして生きていたのか?」ということが問われなければならないのである。

 

(今村純子「瞬間の形而上学 : 『女と男のいる舗道』をめぐって」op. cit., p. 31)

 

「ナナの魂は果たして生きていたのか?」という問いについて、今村は、娼婦となったナナの生活は、「ナナの「わたくし」から乖離した、実体のない生活」であり、「「考えること」をしたら、生きてゆけない生活」(Op. cit., p. 33)であると述べ、自分で語る言葉を持たないナナ(娼婦)は、苦悩することも、それによって主体を確立することもできていないのだということを指摘している。言葉も苦悩も主体もないところで、魂は生きられない──これがナナの姿である。つまり、「現象としての死」以前にナナは「魂の死」すなわち「本質として死」に捉えられていたのだろう。鑑賞者はそのようなナナの姿を通じて、自分の人生を生きるということはどういうことかを「感性を通じて認識せざるをえない」(今村, op. cit., p. 33)というのがこの論文における今村の結論である。

 

ここでもう一つ、この論文と同様の問題を射程にいれているスーザン・ソンタグのエッセイを再び読み直そう。前述の議論をソンタグのエッセイへと引き継ぐならば、次のように言うことができるだろう。すなわち、今村が「魂の死」=「本質としての死」と呼んだものを、ソンタグはむしろ「自由」の問題として考察するのである、と。ソンタグのエッセイは『女と男のいる舗道』における「自由」の問題について敷衍された論考と位置づけられるが、しかし「自由」についての考量に加えてもう一つ、忽略できない重要な点がある。すなわちこのエッセイ全編に渡って通奏低音として響いている〈形式〉と〈内容〉という美学的対立構造である*2。この〈形式〉-〈内容〉の対立が、様々な変奏(たとえば証言-分析や外面-内面、実存-本質*3)を伴って、ゴダールの映画を論じるという形式をとりながら、やがてナナというひとりの娼婦によって「証言」される(かもしれない)「自由」についてのある確信的ヴィジョンへと収斂する。例えば、このエッセイの始めのほうでソンタグは芸術についての次のように記している。

 

2.
すべて芸術は証言の一形式として、最も激烈な精神による正確性の主張として、考えうるものであろう。すべて芸術作品は、その提示する動きに関して論ずるまでもなく明白であろうとするひとつの試みとして、眺められるであろう。

 

3.
証言と分析は違う。証言は、何かが起こったという事実を打ち立てる。分析はなぜ起こったのかを示す。証言は、定義としては、完璧な議論の一形式である。だが完璧性の代償として、証言はつねに形式的である。(…)分析は実体がある。分析は、定義としてはつねに不完全な論証の一形式である。正しく言えば、分析には終わりがない。/ひとつの芸術作品がどの程度に証言の一形式としてあみ出されるものかは、もちろん、釣合の問題である。たしかに、作品によっては他のものより形式に重点をおいて証言をより多くめざすものもある。だがやはり、ここが私の論じたいところだが、すべて芸術は形式なるものへ、実体なるものよりむしろ形式に違いない完璧性に、向かうものだ──優美と衣装を展開する集結部へ。心理的動機づけや社会的要因によって納得させることは二義的なものにすぎない。(…)

 

4.
証言をもっぱらとする芸術は、二つの意味で形式的である。その主題は(素材を超えた)事柄の形式であり、(素材を超えた)意識の形式である。その手段も形式的だ──すなわち、意匠としてもきわだって目立つ要素をもっている(シンメトリー、反復、転置、ダブリングなど)。(…)

 

5.
ゴダールの映画は、どちらかというと分析よりは証言に傾いている。『女と男のいる舗道』は提示であり、証明である。それは何かが起こったことを示す、なぜ起こったかではなしに。

 

スーザン・ソンタグゴダールの『女と男のいる舗道』」, 『反解釈』海老根宏/川村錠一郎/喜志哲雄訳, 筑摩書房, 1996, pp. 315-316. 太字は引用者による) 

 

芸術(作品)は分析ではなく証言となるべきである、というのがここでのソンタグの主張であり、芸術に対する構えである。そして証言とは、「何かが起こったという事実を打ち立て」、そして「その提示する動き[何かが起こったということ]に関して論ずるまでもなく明白であろうとする」ような「完璧な議論の一形式」である──この完璧性故に、証言は形式的にならざるを得ない。要するに、芸術(作品)は、分析ではなく証言であるが故に〈形式〉に絶対的な重きを置かざるをえないものであり、さらに換言すれば、そこに差し出されている芸術(作品)と対峙する者にとって、それが表現し伝えようとする事柄(すなわち〈内容〉)に触れようとすればするほどに求められる「明白さ」のために、芸術(作品)は究竟すべて〈形式〉として現れるのである。

 

ソンタグにとってこの準則は、芸術にのみ適用されるものではなく、例えばその背後にある美や自由、さらには人生に至るまでの広大な範疇に反映されるものである──それ故に、〈内容〉に対する〈形式〉の優位というテーゼさらに強固に打ち立てられることとなる。「ナナは自分が自由なことを知っている、とゴダールは語る。が、その自由には心理的内面が皆無である。自由は内面の心理的な何かではない──もっと物理的な美点に近い」のだから、必然「この映画は心理学をまったく避けている。感情を、内面の苦痛を探ることがまるでない」ソンタグ, op. cit., p. 327)のである。映画とナナの人生の本質的問題はすべて外面、形式にある。

 

自由が生成される場所は、心理的内面ではなくより物理的な領域である。だから、ソンタグの議論においては、例えば先の今村の議論が指摘しているような「内面的苦悩によって確立する主体」というものは、そもそも存在しない──主体の自由と内面的苦悩はなんの関係もない。ソンタグにとっては、そのように語られる内面など、自由や美、芸術、果ては人生にとって、ただただ邪魔なだけであると言わんばかりである。そもそも内面は、魂に到達するためには破られるべき障碍のようなものなのだ。映画の冒頭、ナナへ向けて別れた夫ポールによって引用される8才の少女が書いた短い作文がある──「めんどりには外と中があります。外をむくと中が残り、中をむくと魂が見えます」(フランス語のめんどり poule には淫売婦という意味がある)。

 

女と男のいる舗道』で、われわれはナナが裸になるのに立ち合う。ナナが彼女の外側、つまり昔の彼女を脱ぎ捨てたところから映画は始まる。やがていくつかのエピソードのうちに現れる新しい彼女とは、売春婦としての彼女である。ただし、ゴダールの関心は心理にあるのでもなければ売春の社会学にあるのでもない。彼は人生という環境領域から離脱する行動の最もラディカルな隠喩[メタファ]として、売春を取り上げる──実験演習地として、何が人生の本質で何が余計なものなのかを探求するひとつの試練として。

 

スーザン・ソンタグ, op. cit., pp. 324-325)

 

内面を剥ぐとそこにある「人生の本質」、すなわちこれが自由である。ポールの妻でありひとりの子の母であるナナが、妻と母という環境を剥ぎ棄て、「女優になる」という心の中にしまっていた目標の前で娼婦となる。外と中に覆われた魂は女優になることではなく、娼婦として生きることそのものとなる。ソンタグは、ゴダールがこの映画の基調としたモンテーニュの自由律──「あなた自身を他人にあたえなさい。あなた自身をあなた自身にあたえなさい」──を引いて次のように述べている。「売春婦の生涯は、むろんのこと、自分を他人にあたえる行為の最もラディカルな隠喩[メタファ]である。だが、ナナが自分を自分にとっておく姿を、ゴダールはどのように示したのかを訊ねるとしたら、答えはこうだ──ゴダールはそれを示していない。示すというよりは、詳細に究明しているのだ」(ソンタグ, op. cit., p. 327)。

 

ソンタグはふと立ち止まり、モンテーニュの自由律をナナがいかにして達成しているかを考える。娼婦の生活とは、ほかでもなく他人に自分を与える行為の究極的メタファであるが、果たしてナナはいかにして自身を自身に与えているのか? それに対するソンタグの結論は──ゴダールはその方法を明示してはいない、なぜならそれこそがこの映画が映画として探求している点であり、これに関わるすべての人間(ゴダールやカリーナ、鑑賞者を含む)が自ら続けるべき探求なのである。自由のための最後のピース──「自分自身に自分を与えるとは?」

 

しかしながら、モンテーニュに再度立ち返れば、ソンタグの議論にさらに付け加えることができるかもしれない。「死についてあらかじめ考えることは、自由について考えることにほかならない。死に方を学んだ人間は、奴隷の心を忘れることができた人間なのだ」というモンテーニュが『エセー』に記した一節を思い出そう。『女と男のいる舗道』の最終幕でナナがなんの理由もなく男たちに撃ち殺される──そして恐らく死んでいく──が、その時、鑑賞者はそれまでナナに重ねて究明を続けていた自由についての熟考を突然に裏返されることとなる。自由の思索の裏側には、ほかでもない死があったのだ。ナナの死は、自由のメタモルフォーゼとしての死を証言する。それによって私たちは、モンテーニュの死と自由についてのあの箴言を唐突に理解するであろう──否、分析的な理解ではない、私たちは自由について考えることが死について考えること、そして死について考えることは自由を考えること──すなわち、自由を実現すること──とであるという証言を、目撃するのである*4

 

先日の「あしたが見えない - NHK クローズアップ現代」は、若年女性の貧困問題の象徴としての性産業やその背景にある社会保障の実質的破綻を伝えるものであった。そこに映された女性たちも「餓死」や「自殺」ということばをつかい、例外なく「死」について考えずにはいられない状況にあることが示されていた。文化的歴史的経済的背景に多少の違いはあれ、死の影に怯えながら性産業に従事する女性たちに、ナナの姿を重ねないわけにはいかない。しかし、現代日本のナナたちは、あの映画という文化的抵抗の後に生まれてきた女性たちである。彼女たちが死について考えずにはいられないほどに切迫した状況にあるということ、それは経済的精神的苦悩だけを意味するのではない──社会学や経済学、あるいは心理学やジャーナリズムはそこまでしか言及しない(言及しない、ということがそこにある問題を「言及されたこと」だけに矮小化してしまわぬよう、私たちは注意深く考えなくてはならない)。そうではなく、彼女たちの状況を以て、これ以上ないほどまでに深刻に真剣に自由について考え続ける姿であると私たちは証言しなくてはならないのではないか。ゴダールが、『女と男のいる舗道』に数分に及んで静かに涙を流すナナとジャンヌ・ダルクを交互に映すショットを織り込んでいたことを思い出しながら、私は本質的な自由の実現について考えずにはいられない。

 

 

 

 

*1:今村純子「瞬間の形而上学 : 『女と男のいる舗道』をめぐって」, 『慶應義塾大学日吉紀要: 人文科学 The Hiyoshi review of the humanities』,  慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会, №23, 2008, pp. 23-34.[pdf] 

*2:形式と内容の問題は、スーザン・ソンタグの初期の思索全体において中核をなすものであり、それは「ゴダールの『女と男のいる舗道』」が収められている『反解釈』全体を通じて打ち出されるソンタグの問題意識である。

*3:しかしながら、この実存-本質の対立構造から、ソンタグサルトル的な実存主義と呼ぶことはできないように思う。これはそのまま、この拙論冒頭で触れた死の本質と現象の対立は可能かという疑問と通じるだろう。

*4:加えて、ゴダールにとって娼婦という存在は広く社会──特に男女というものの関係──について考える際につねに鍵となるものである。ここにも次のようなモンテーニュ思索が受け継がれているといえる──「本当のことを白状しよう。われわれのうちで、自分の不徳よりも妻の不徳から来る恥辱を恐れない者は一人もいない。自分の良心よりも、かわいい妻の良心に気をつかわない者は一人もいない。(…)われわれの過酷な法令は、女性がこの不貞という不徳におけることを、その本質以上にひとぢ、不徳なものと見なし、この不徳を原因よりも悪い結果にまきこんでいる。(…)したがって、女性がそれほど激しく、それほど自然な欲望を抑えようと務めるのはばかげている。私は彼女らがいかにも処女らしく、冷静な意志をもっていることを自慢するのを聞くと、せせら笑ってやる」(『エセー』第3巻第5章「ウェルギリウスの詩句について」)。