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pour tous et pour personne

家族の在処: Reconnecting laws to the systems

 

ここ数週間、400mgまで増やしたセロクエルを毎夜服用するようになってから、生活の主導権が完全に私の意思から眠りへと移っている。それまでしてでも身体や脳にまずは休眠を与えたいという主治医の方針に同意した上とは言え、増薬の引き金となった深い抑うつ状態に加えて、それと同等程度に深重な人工の眠気を飼い慣らすには、もうしばらくの忍耐と訓練とが要るようである。

 

まるで意思の断末魔の叫びように、粘度の高い一日の合間を縫って「日本版変愛小説」を謳った岸本佐知子編「変愛小説集」が収められた「群像」2月号からいくつかの掌編を読んだ。恋愛ものなんて随分久しぶりだと思ってページを開いたが、そこには久しぶりのはずの恋愛物語はひとつもなく、むしろどことなく馴染みある世界がしまわれていた──私がここしばらく読む機会を得ていないのは、恋愛ものではなくハーレクイーンものであった。それから、ほかに読むべき本と、そしてなによりとるべき療養が一山も二山もあるために買うつもりはなかったはずなのだが、「國分功一郎プロデュース」の文言につられて買ってきた「現代思想」2月号キルケゴール特集をぱらぱらと捲った。そして巻頭の信田さよ子氏(以下敬称略)による連載「依存症をめぐる臨床」第14回に目を通した。

 

信田さよ子「病気の免責と暴力の責任」(「現代思想=特集キルケゴール青土社, Vol. 42, №2, 2014, pp. 8-13)は、数ページの短いテクストだが、戦争という国家暴力とDVと呼ばれるようになった家庭内暴力との関連、暴力が国家と家族の共謀関係にうちに隠匿されているという指摘、そして家族を語るときに用いるべきモデルとはなにかといった議論は、DVを抱えた家庭のみならずより一般的に機能不全に陥った家族──すなわち、存在するすべての家族──について鑑みるときに検討すべき点として参考になった。少し長いが、以下に一部を引用する。

 

少しずつ地殻が変動していくように、DVという名前をめぐって記憶の再構成が起きるに伴い、アルコール依存症の妻たちは実はDV被害者でもあったという確信が生まれたのである。このことは大きなパラダイム転換を意味していた。七〇年代から始まるアルコール依存症とその家族とのかかわりにおいて、それまでの私が依拠していたのは疾病モデル(アルコール依存小は病気である)と、家族システム論であった。病気の夫をとりまく家族をシステムとして把握することで、機能不全家族という視点とともに全体が見渡せたかのような錯覚に陥っていたのである。/しかしDVという名づけを適用することは、そのいずれでもないパラダイムの世界に漕ぎ出すことを意味した。アルコール依存症という疾病モデルから加害・被害という司法モデルへのパラダイム変換であり、均衡モデルに基づくシステム家族論から闘争モデルへの変換である。システム論の前提となっている均衡や統合性そのものが、暴力という定義の前では無効化されてしまうからだ。暴力は必ず加害・被害という関係性を生み出し、それは統合を前提とする家族には相容れないものである。/暴力という言葉は、公共圏(市民社会)においては禁止され犯罪化されるものとしてとらえてきたが、国家と家族においては容認されてきたのではないだろうか。相変わらず世界各地で戦闘は起きているが、それが裁かれることはない。家族も同様で、被害を受けた(と周囲からは定義される)人が警察に告訴しない限り裁かれることはない。これを「国家と家族の凶暴関係」と呼ぶこともできよう。/二〇〇一年にいわゆるDV防止法(配偶者からの暴力の防止及び被害者保護に関する法律)が制定され、各地のDV相談機関では当たり前のように「DVは犯罪です」というキャッチフレーズが用いられるが、これがどれほど恐ろしいものかについて無自覚であるように思われる。DVや虐待を名づけ定義づけることを恐ろしいと言っているのではなく、それ自体がもたらす家族観の転換、つまりシステム論的な、統合的家族観からの脱却がどれほどシビアであるかを自覚しなければならないと言いたいのだ。家族とは、殺害や障害が起きる可能性を含み、命を守るためには時には脱出しなければならない関係であるということは、家族への美しい幻想と最終的安全基地としての期待を放棄することを意味するからだ。

 

信田さよ子「病気の免責と暴力の責任」Op. cit., pp. 10-11)

 

上記にある通り、この論文の争点は、私たちが問題となっているある家族を理解する際に「システム家族論に基づく疾病モデル」(原因と結果と治療)に依拠して家族を捉えるのか、あるいはまた「司法=闘争モデル」(出来事と加害者と被害者)によって家族を考えるのかという点にある。戦後からずっと大勢であった前者(システム論+疾病モデル)における家族観*1に代わって、ここ10年余りは後者(司法=闘争モデル)が大々的に用いられるようになった。そこには、この新しい家族論モデルがそれまでは慣習に埋もれて問題にすらならなかった家庭内暴力の告発という機能と目的を担っていたという背景がある。DV夫から妻や子を守るという点に関して、家族を司法=闘争モデルによってみること、すなわち家族という場を生存を賭けた闘争の場として見立て、生きるためには闘い、場合によってはそこから逃げる必要がある場所として理解するということはそれなりに有効であってきたようである。

 

しかし、信田の指摘にあるように、司法モデルに基づいて家族を「闘争」概念によってみるとき、それまのシステム論が必ず担保していた「家族への美しい幻想」と「最終的安全基地」としての理想的家族は必ずや捨象されることとなる。朝に出かけていくより広い社会も闘争の場であり、仕事や学校を終えて帰る場もまた別の闘争の場となる。司法=闘争論は、一見するところ国家による暴力と結託し隠蔽されてきた家庭内暴力をDVということばによって啓蒙・摘発し、それによって女こどもを暴力から守っているかのようにみえる。けれども視点を変えてみれば、そのような議論は社会のなかに闘争の場を拡張し、闘争から逃れる場をこそひとびとから奪う、目にみえない高次のレベルでの暴力産出機械であるようにも思われる。つまり、そのような観点からすれば、司法=闘争モデルで家族を考えるということは、それ自体が新たな暴力の誘導体となり得るということである。

 

家庭内暴力をいつまでも温存してしまう可能性のある「家族システム論疾病モデル」と既述のような矛盾を抱えた「家族司法=闘争モデル」に対し、信田の議論はここ数年、無意識的に人々にすり込まれながら拡大する後者の危険性を訴えるものとなっている──「[司法=闘争モデル]それ自体がもたらす家族観の転換、つまりシステム論的な、統合的家族観からの脱却がどれほどシビアであるかを自覚しなければならない」(信田, op. cit., p. 11)。なぜならば、この転換は家族を「殺害や障害が起きる可能性を含み、命を守るためには時には脱出しなければならない関係」として捉えることであり、そのような家族のあり方は必然的に「家族への美しい幻想と最終的安全基地としての期待を放棄することを意味する」からである*2

 

私にはどちらの家族モデルがより有効なのか、それを判断し主張するまでの十分な知識や経験が未だ備わっていない。しかしながら、注意しなければならないと感じる点はある。それは簡単に言えば、このような議論がいつも簡単に「AかBか」という議論にすり替えられてしまうということである。問題は、提起されているようにみえる選択肢のなかから一つを選ぶ(そしてその理由をまったく正当であるという風に述べる)ということではない。そうではなくて、問題として上がっている事象を、別の次元へと転換、あるいは移行させることが重要なのである。なにかについて語ろうとする私たちは、そのことをひどく簡単に忘れがちではないか。ここは司法の現場ではない。真理の探究を忘れた、勝ち負けの勝負はくだらないし、正しさが議論の勝ち負けによって決定されるなど、あまりにも馬鹿げている。

 

そんな折、冒頭のキルケゴールが手伝ってか、國分功一郎先生のブログを思い出した。私が特に愛読しているエントリーのうちの一つ、それは東日本大震災から間もなく書かれたもので、次のようなことが記されている。

 

この前の日曜日、2011年3月27日付け東京新聞朝刊に  「哲学者」内山節氏の「システム依存からの脱却」というエッセイが載っていた(…)。   内山氏によれば、  わたしたちは「さまざまなシステムに依存して暮らしている」。ところがその「システム」は何らかの想定の範囲内で維持可能なように設計されている。原子力発電もそのひとつで、「これ以上の地震は発生しないという想定にたってシステムは設計されていた」。だがここ数年に世界で起こっていることは、市場システムにせよ、年金・社会保障システムにせよ、そうした想定が人間の思い込みに過ぎなかったということである。これが内山氏の議論の骨子である。

ここから彼は次のように結論する。想定に基づいたシステムは、想定外の事態が起こると崩壊する。「それに対して、支え合い結び合う人間たちの働きは、どんな事態でも力を発揮する。とすると未来の社会は、どんな方向に向かうべきなのか。それはシステムに依存しすぎた社会からの脱却であろう。私たちに求められているのは、人間の結び合いが基盤になるような社会の創造である」。

俺はこういう「システム」という語の使い方に大いに疑問を持った。正直言って、いま、内山氏のように「システム」という語を悪役に仕立ててものを考えるひとはそんなにはいないとは思うが、とはいえ、「システム」はダメで、「人間の結び合い」がいいという考えはダメだし、矛盾していると思う。なぜかといって、「人間の結び合い」もシステムだからだ。

こう言ってもいいだろう。システムにはいくつか層があって、インフラ(下位)のシステムによって  「人間の結び合い」が支えられ、「人間の結び合い」自体が  一つの上位システムを構成する。  俺は「人間の結び合い」の重要性を否定したいのではなくて、(というか、「人間の結び合い」が何より大切だと思っている)「人間の結び合い」はいくつものシステム(インフラ)によって支えられた一つのシステムなのだから、システムをそれを対立させるような仕方は結局どこにも存在しない「人間の結び合い」をただひたすら妄想することに至ってしまうと思う。

そうじゃなくて、新しい「人間の結び合い」のシステム、それを支える新しいシステムが必要なんじゃないのか?

 

〈計画停電の時代〉を生きるための制度を創造すること|Philosophy Sells...But Who's Buying?

 

 

続いて次のようなことが述べられている。かつて子育ては地域がやっていた、そしてそのような地域では老人が尊敬されていた──そういうノスタルジックな語りに登場する人間たちについて、そういう地域社会はなにも自然発生的に生まれてきたのではなく、そこにはちゃんと社会システムが用意されていたのだという。そしてそのシステム──1. インフラとしてのシステム、2. 人間関係のシステム、3. 複数のシステムを内包した社会というシステム──に則って、人間たちは結び合いを保っていた。だとすれば、「「システム」と「人間の結び合い」を対立させるというのは少々お粗末ではないか」。つまり、ここでの議論に置き換えれば、「家族システム疾病論」と「家族司法=闘争論」の対立させるというのは少々お粗末ではないか、という自然な疑問がうまれる。

 

ここで改めて気づかされるのは、司法=闘争論がほかでもなく「人間の結び合い」、闘争という形式の結び合いであるということである。だから、司法=闘争論に基づいて家族をみている限り、そこにある結び合いは「いかなる闘争か」という問いの中でのみ議論可能で実現可能なものとなり、それが闘争という理念に則している以上、終わることがない。おそらくそこではあらゆる関係が禁止事項に基づいた勝ち負けに収斂していくだろう──結び合いは闘争のスタイルの多様性を保証するためだけに使われていくだろう。法的な繋がりのなかにあるものの不自由さは、統制されているものがトップダウンの権力に従って動くことを決められているために、それ以上自ずから思考し動くことが困難となるという点にある。つまり、現実が真逆のものへと転換する余白がそこには織り込まれていないのだ。

 

一方、システムとは言い換えれば「制度」のことである──制度論はドゥルーズ哲学の中核を成すものである。それについてドゥルーズ研究者である國分先生は次のように端的に述べられている。「簡単に言うと、制度という語は(…)法に対立して用いられています。法が行動を禁止するもの、消極的なモーメントであるのに対し、制度は行動のモデル、積極的なモーメントです。社会は制度によって成り立っている。伝統的な哲学では、いつも社会で一番最初にあるものとして法を掲げますが、そうではなくて最初に制度があって、その後で法が来るのではないか」。司法=闘争論は、明らかに消極的なモーメントの連続である──ゆえに余白がないのである。反対に、(十分に制度化されていないかもしれないが)制度論としての「家族システム論」は、「積極的なモーメント」によって構成されている。そして、上記の引用のように法もまた制度の成果であるとするならば、家族システム論が司法的な家族闘争論の担っている役割(DV告発防止)に変わる法を生み出すことができるかもしれない。生成変化のための余白が十分に担保されたセオリーとして、これまでの家族システム論を(そして同時に疾病治癒の方法論を)読み直すことができるのかもしれない。

 

制度論から家族をみれば、家族という囲いを破るような点──ドゥルーズ=ガタリが lignes de fuite(闘争線)と呼んだ、あの窓ガラスに入ったヒビのような──が自然と組み込まれていると考えられる。そのような留意とともに押し広げられる家族の制度論的再考*3が、司法=闘争論が担ってきたDVの摘発・発見に変わるものを家族システム論的議論に見出していくことができれば、司法=闘争モデルを制度論上の過渡期として位置づけることも可能だろう──これは、ドメスティックな問題からナショナルな問題にいたるまで、そこにある暴力をもう一つの他の暴力を用いるのではない方法で、別なものに転換する可能性である。社会的視座のみならず、近代自我にかんする哲学的な問題や精神医学的議論の地平にも、このような視点は十分有効であるだろう。すなわち、家族(メンバー)を非難するある個人が、すべからくその家族を作り上げているものの一部であるという最大の矛盾を、個と社会を越境する制度という概念を用いれば難なく突破できるかもしれない*4。思えば、精神某の実存主義的理解や反精神医学でも知られるイギリスの精神科医R・D・レインもまた「内化されるのはシステムとしての家族です」*5と述べていた。つまり、

 

「システムから脱却することが必要なんじゃなくて、新しい経済システム 新しい社会システムが必要なんです。」

 

 

 

 

*1:これは例えば、家族の構成員すべてがそれぞれに担う役割があると考え、それが正しく遂行されることによって健全な家族が成立するという考えである(システム論)。さらに、もしその家族がDVなどの問題を抱えた場合には、そこに疾病モデルによる理解が加えられる。例えば、家庭内のなんらかの問題の原因を「病気」として理解することにより、その病気を抱えた構成メンバー(たとえば、アルコール依存症の父親など)に対して疾病治療が行われ、それによって家族の機能不全も徐々に回復すると考える。若干ならずとも楽観的過ぎるモデルのように思われるが、このシステム論と疾病モデルが基礎とする家族観は、構成員の排除という家族存続を賭けた最終手段に向かう前にいくつもの対処法を思案するという強度があり、暴力排除のためならば手段を選ばないという極端な方法に至ることが少ないという点では、未だに有効な点もあると思われる。

*2:なんらかの家庭の事情を抱え続けたがゆえに、「家族への美しい幻想など持ったことがない」「家族など百害あって一利なし」と考えているひともあるだろう。しかし、家族を司法=闘争モードによって捉えるということは、なにもこれまでに構成員であってきた家族を闘争の場と見なすだけではなく、これから築いていくかもしれないすべての家族を闘争の場としてゆくということを意味しているのである。これはこれから結婚をしていく人たちに対する介在であるのみならず、そのまま、これから生まれてくる人たちの社会──一般に、家族は最初の社会である──に対するヴィジョンの生成にも関わるものである。プリミティヴな社会は、必然的にいずれ社会一般を意味するようになるだろうし、それは潜在的に、社会における闘争の無制限の拡張を意味し、おそらくは全人類が常に闘争モードで生き続けることを強いる暴力の伝播拡大をも含意する──その場合、あの反戦の声はどこへいくのだろうか。信田が「どれほどシビアであるかを自覚しなければならない」と警鐘をならすのはそのような視野も含んでのことと考えられる。

*3:すなわち、まったく新しい家族システムの考案と実現である。具体的にはたとえば、家屋や都市の設計をはじめとする公共空間の再構築、幼稚園や学校を中心とする教育システムの見直し、そしてITなどの通信技術の利用を通したコミュニケーションの再検討などがあげられるだろう。

*4:たとえば、ロナルド・D・レインは、その家族論において次のように述べている。「家族は、家族外のかれらと対照的に、共通の一つのわれわれなのです。(…)このようなわれわれ家族の場合、われわれの一人一人が自分自身の内なる家族統合を認知するのみでなく、あなたの内に、彼の内に、彼女の内に、比較可能な同種の家族統合が存在することを期待しているのです。私の「家族」は彼ないし彼女の「家族」を包含しており、彼と私の「家族」です。この(かっこづきの)「家族」はその成員のおのおのによって共有される単一の社会的対象ではありません。「家族」は関係セット中の諸要素の一つ一つのなかに存在しているのであって、そしてそれ以外のどこにもないのです」(R・D・レイン「家族と「家族」」, 『家族の政治学』 阪本良男/笠原嘉訳, みすず書房, 1998(1979), p. 10)。また、「もし自己が「家族」の、つまりメンバーによって共有される一つの構造であるところの「家族」の統合性に依拠しているとすれば、そのときには自己の統合性はこの「家族」を他者と分かちもつ構造と感じる度合いに依存していることになります。ひとは、他人の「なか」にこうした「家族」構造が統合されているのを想像できる時、安心するのです」(R・D・レイン「家族と「家族」」, Op.cit., p. 23)。

*5:「内化されるのはシステムとしての家族です。要素と要素の間の、また一連の要素と一連の要素の間の諸関係と諸操作が内化されるのであって、孤立した要素が内化されるのではありません。要素は人であることもあれば、物であることも、部分・対象であることもあります。両親が内化されるとしたら、親しい関係にある両親もしくは疎遠な両親として、二人一緒か別々の存在として、近いか遠いか、愛しあっているか相争っている両親などとして内化されるのです。(…)各々の家族成員は、彼らが自分たちの内側に家族をもつと感じる程度に応じて、そしてまた他の家族成員が内部にもつもつ家族を特徴づけるところの一連の諸関係の内側に自分たちもいると感じる程度に応じて、家族の部分あるいは全体の、内側あるいは外側に、より多くあるいはより少なく、いると感じるのです。/内化された家族は一つの時間・空間系です。「近く」あるいは「遠く」、「一緒に」あるいは「離れて」あるとして内化されるのは空間的関係だけではありません。時間的な継起もまたつねにそこにあります」(R・D・レイン「家族と「家族」」, Op. cit., pp, 8-9)。