de54à24

pour tous et pour personne

「どうして私を生んだの?」

年末に二回、中学時代の同窓会が行われた(私は体調的、地理的理由から参加を見送ったがせめて体調がよければぜひ顔を出したかったと思う程度にはいまでも仲のよい友人たちの集まりである)。まわりを見渡してみると、古くからの友人たちの大体半分弱くらいがここ数年の間に結婚し、家庭を築いている。残りの半分は、医者や病院関係者、学者やアーティスト、元ひきこもり(で最近やっと社会と再会)等々、見るからに時間かお金の余裕がなさそうな者たちである。とは言え、時間やお金がなくても結婚していった人たちもたくさんいるから、結婚にとって一義的に重要なのがそれらではないことは明らかである。

 

私自身についてみれば、確か数年くらい前までは、結婚というものも今ほど現実味がなかったように思う。けれど、結婚については今よりもっといろいろ考えていたような気がする。私の両親は、私に結婚しろとはほとんど言わない──正確には、言わないようにしているのだと思う。いい経験になるから、とか、あるいは、ひとりでいるよりはいいだろうから、とかそんな理由を付けて「結婚もいいんじゃない?」程度のことを母が年に一、二度言ったか言わないか、そんなところである。父に至っては、寧ろ「結婚なんかしなくていいんだー」という風である(結婚式がとにかく嫌らしい)。同じ年頃の友人たちの両親も、最近は無闇に結婚を催促したりするよりも、「離婚してもいいから結婚しなよ」という大幅な留保を添えて寛大な要請を示しているようである。ここまでくると、もはや親対子の我慢比べの様相である。

 

私の両親が私に結婚をうるさく言わないのは、おそらく(というか「確実に」というべきか)私がかつて一度、結婚を含めた将来について彼らの前で泣いたことがあるからだ。私は、母親からもっと感情を表現してくれとずっと幼い頃から懇願されてきたほど、普段から、そして幼い頃から、あまり怒ったり泣いたり(もしかすると、笑ったりも)しないようにできている──正確に言えば、私なりに感情表現は十分にしているのだが、ひとから見れば明らかに「薄い」らしく、確かにそれが原因で家族や友人たちとの関係の上で躓いたり、もめたりしてきたように思う。しかし、あるとき私が両親に、自分の病気についてやその治療について、どのような方法をとり、そしてどのくらいの時間がかかるものなのか──場合によっては「一生付き合う」必要がある──、そういった話をしていたときに、突然感情が肥大化し、涙がとまらなくなったのだ。いま使っている薬は死ぬまでやめられないかもしれない、この薬を飲んでいるうちは妊娠出産はできない、云々。

 

感情が抑えきれなくて涙がでたのは、多分、自分がこどもを生めないかもしれないという事実にではなく、両親が自分の孫をみられないかもしれないということについてだったように感じている。私はいまも昔も、さほど強く自分のこどもを持ちたいと思ったことはない。小さな従妹弟や近所のちいさな友人たちが育っていくのをみてかわいいとも思ったし、こどもという存在は誰のどこのこどもであれかわいいと思う程度にはこども好きである。だから、自分もその時がくればこどもを産んだり育てたり、そういうこともあるだろうとぼんやりと思ってきた。ここ数年は、なんとなく自分のそんなぼんやりした思いよりも、両親の「孫の顔みたさ」が勝ってきているのを感じるが、それでもやはり私は白痴の如くにぼんやりしているのである。

 

もともと身体も小さく、特に骨盤なんて男の子のようなので、なんとなく私の身体は出産向きじゃないなーと思っていたのだが、双極性障害の治療につかわれるいくつかの薬がそれにさらに輪を掛けた。私はこれらをこれからもしばらく服用し続けなければ、生死に関わるレベルでの問題が起きるだろう。けれど、この薬*1は妊娠時には禁忌とされている。他の薬*2がないわけではなさそうだが、以前その薬を使ったときにあまり有用な効果がみられなかった──そしてそれ以前に、双極性障害と呼ばれているものの遺伝の確率についてもまたあれこれと思わずにはいられない。そういう事実を受け止めて服用を続けるということは、私にとって妊娠出産を8割か9割ほど諦めなくてはいけないことを意味しているように思えた。私は自分の人生と生命を救うために、自分が産むかもしれないこどもの生を冒している──そんなふうに感じて、そのために、私はいつもぼんやりしているのだった。

 

幸か不幸か、2014年に日本に生きている私には、妊娠出産あるいは結婚について、どのような選択をするかということは、「選択肢」の確かな存在を意味していると思う。おそらく、私の母親の世代くらいまでならば、選択肢があるようにみえて本当のところそれは選択肢ではなく、慣習を強要する迂回でしかなかったこともいまよりもずっと多かっただろう。これは、個人レベルでの善し悪しの問題ではない。以前は慣習という社会的意識故に、選択決定およびそれによって生じる責任を周囲の人間たちと共有していたのに対し、例えば「こどもを生まないという選択」について、今日の若い人々はひとりで考え、決定し、立ち向かわなくてはならない。

 

私の両親は私を授かる以前に、一度妊娠と中絶を経験している。母親が妊娠中に風疹に罹患したのである。詳しい話は聞いていないが、お墓参りにいくときにはいつも供養された水子菩提に手を合わせるのが習慣である──私はそのたびに、もしこの子が生まれていたならば、私や妹は生まれてこなかったのだろうかと考えたのであり、そしていまでもこの存在しない兄姉(多分、姉であったような気がしている)という存在を通じて、人間の生死を超越して存在する世界の奥行きというものを生々しく感じている。中絶に関する両親の選択が彼らの意思を伴うものであったのか、それともほとんど強制的なものであったのか、それについても私は知らない。しかし、生まれてくるだろう子がかなり高い確率で障害を持っているだろうことを両親や祖父母が危惧していたことは聞いている。だから、もしもこの中絶が意思決定によるものであったとしたら、私は両親に対してその決断に同意するか、あるいは難詰するか、いわゆる生命倫理などを学ぶようになってからは特に真剣に考えるようになった。

 

例えば、埴谷雄高──偶然にも母が埴谷雄高の著作を大切に蔵書しており、私は母から埴谷雄高の存在を教わった──は、自殺と避妊(子供を持たないこと)をのみ人間の最大の自由意思として認めているし、それは反対に言えば自殺をしないことと子供をつくることは、人間の尊厳の堕落であるとすら言い換えることができるだろう*3。妊娠中の病気や事故、あるいは私のように投薬治療の必要があるケースにおいて、胎児になんらかの影響が必ずもたらされるとわかっている場合、出産はそのままこれから生まれる人間に障害や病気を強要することを意味する。障害を持つ子供をもちたくないという親のエゴイスティックな問題のレベルで片付けるべきものではなく、これは、生まれてくる子供が障害とともに生きなくてはならないという、子供自身が受け止めなくてはならない問題である。どんな障害を持っていても、生まれたことは幸せなことであるというひとがいたとすれば、それは無責任か無思考か、あるいはただの健康馬鹿である。人と違うことや体調が悪いことが毎日続くこと、自分の人生がいつ幕を閉じるかわからないまま生きなくてはならないこと、そういう一切の現実の襞をがさつに束ねて、「生まれてきたことは幸せだ」などという権利は誰にもない。障害や病気による苦しい人生を呪うように、親に向かって「どうして私を生んだのか」というこどもに、果たしてなんと答えることができるだろうか──産み落としたこどもに対して親がとることのできる責任は、産む以前よりもずっと限られているにも関わらず。

 

私の父は、相続問題が起こって以降特に、自分の代でこの家を終わらせたいという旨のことを口にする──そして、80になろうとしている今、気がつけばハワイやグアムを旅行してあるいている進歩的な祖母も同じようなことを言う。なぜかと問うてもあれこれ言う人ではないので、みんなそれぞれに「こんなに続いたのにもったいない」とか「ご先祖さまに申し訳ない」とか「じーちゃんがなんと思うか」とか、ほとんどただ感情的な反応をするだけである。父としては、おそらく、揉めにもめた祖父の弟妹たちとの関係を今後一切(私たち以降の世代に)残したくないというのが真意であるように私は思う。その思いは十分に理解した上で、けれども、絶家について意志的な(それも父というたったひとりの意志的な)選択というのは認められるのだろうか。そもそもそのような選択肢を父は持っているのだろうか。私も、そして恐らく父も、死後の生などというものは信じていないし、例えば、自分の骨が入った墓が無縁墓地のようになったところで、「だからなんだ、それがどうした」という気持ちであるというのはわからなくもない。しかしそれと同時に、ご先祖さまたちを気にする母の視点というのもまったく意味がないとも思えない。要するに、家や墓や、あるいは代々つながるこの身体(遺伝)について、完全な決定権は私にはないと感じているのだろう。けれども、もし私が感じているように後代の人々についての決定権が私には思うほどはないとするならば、自分のこどもについて、「天に任せて授かるのを待つ」といった若干ならずとも時代錯誤な感覚や態度が正しいのか。そんなことはない。それは決定権がないということではなく、決定権を自ら放棄していることであり、それは私が意図するものとまったく対局にあるものである。

 

決定権がないということとは別に、決めなくてはならないことも当然あるだろう。そして、決定権を持つということとは明らかに異なる「考える」ということを遂行し続けたところで、必ず正しい答えを見いだせるわけでもない。それでもなお、まだ妊娠出産の手前にいるという事実を最大限に利用するためには、やはり考えるということをしないわけにはいかない。こうして書きながら、どの視点で何を考えるのか、というのがやはり重要な問題だと感じる。これはジェンダーの問題から考えるべきものでもなく、また社会学や心理学的な視点に委ねるべき問題でもないだろう。あり得るとすれば、生物学と遺伝子工学、そしてポストヒューマン的倫理思想を舞台にするべきかもしれない。「どうして私を生んだの?」というひとつの根本的な質問に、いくつの回答を与えることができるだろうか。

 

 

 

 

*1:リーマスなどの炭酸リチウム。中毒が起こりやすいため、服用時は定期的な血液検査を要する。

*2:例えば、デパケンなどのバルプロ酸ナトリウムは炭酸リチウムよりも妊娠時の胎児への影響が少ないと言われることがある。しかし、最近の研究では、リチウムよりも心臓奇形などの発生率が高いということが指摘されてもいる。それにしても薬学を学んだことがない者にとっては、なぜミネラル分であるリチウムが胎児に影響を及ばせたり、それにも関わらず成人が何十年にも渡って服用しても問題がないのかその理屈がわからず、まったくもって不思議である。

*3:しかし、埴谷雄高に関して言えば、その思想的態度故に、授かったこどもを何度も堕胎させたということ事態については、また別の側面から論じられなくてはならないであろう。