de54à24

pour tous et pour personne

夢は短し磨けよ[無]知を

年末年始の来客と猫が帰って行った。どうやら人の身体が環境に馴染むには4日もあれば十分のようで、特に来客のあった日と来客の去った日は同様のおちつかなさを感じている。どうしたらいいのか分からず自分を持て余しながら部屋を行ったり来たりしていたが、迷った挙げ句、年末に箱いっぱいに届いた新鮮な林檎を丸囓りした。神経の疲労のためであろう、突発的な38度の熱を持った身体が冷えた林檎の果汁に悦予する。人といることに安心や愉しさを覚えることができたなら、もっといろんなものを見聞きし知ることができるだろうに──もう幾度思ったか知れぬことをまた真新しく考えながら、しかし誰といてもいつもひとりになれる瞬間を待ちわび、ひとりの空間のことばかりを願っている自分がこの林檎から滲み出る水滴を冷たく感じていることをぼんやりと思っていた。

 

しかし、身の回りに人がいると頭や感情の中に文章が沸き上がってこないのは不思議なものである。だれかがなにかをしゃべる声や、なにかについて他人に伝えるように自分が考えている心的なことばが飛び交っていると、思索や論理のことばのための場所が使い尽くされてしまうかのようである。そういえば、母は昔よく私に病患の理由について、なにを考えているのか、どう感じているのか、どうして私が具合が悪いのか、とにかくしゃべらせようとしていた時があった。言われるがまま、訪ねられるがままにできるかぎり真率に話をしようと努めていた。しかし、何年か経っても状況も大きく変わったようにも思えず、それでも具合が悪くなる度に「どうしたの?」「なにがいやだった?」と語りかける母をみて、この世の中の万物に共通の因果関係があると考えることの愚かさを想うほかになかったのだった。私の病に理由などない──あるのはただ、私が今、具合が悪いということだけだ。


(この話と同種のものとして、例えば精神分析による無意識の発掘的解明がある。しかしながら、このような理解は精神分析のもっとも重要な点を取り逃がしたものである。すなわち、精神分析による病(病因)の解釈とは、無意識や人間の深層に埋もれたものを分析という特殊な方法によって白日のもとに曝すことではない。そうではなくて、精神分析による探究はむしろ常により創造的な性質を帯びているものであると考えるべきであり、つまりそこでの(追求すべき)真実とは、分析家と被分析者の接触が生む、あるいはその接触によって立ち現れてくるようなものである。)


現象と真理の間に安易な因果や相関の関係を早急に求めるべきではない。気休めに過ぎぬ似非真理を乞うことは、本当に辿り着きたい真理からさらに遠退くことに等しい。それならば無知(ignorance)にこそ身を委ねたいと願うこともひとつの道なのではないか。ラカンは、「無知(ignorance)をあらわにして見せる積極的なみのりは無=知(non-savoir)であり、これは知(savoir)の否定ではなくて、もっとも磨き上げられた知(savoir)の形態である」(ジャック・ラカン『エクリ II』佐々木孝次/三好暁光/早水洋太郎訳, 弘文堂, 1977, pp. 45-46)と述べている。これは単に「無知の知」という古の警句の焼き直しではなく、精神分析が「無=知(non-savoir)の内で本質的な歩みを続けながら、学問の歴史として、アリストテレス的決定以前の状態に、弁証法とよばれる状態にしっかりと足をすえている」(Op.cit., p. 48)ことの証なのである。時に、知(savoir)よりも無知(ignorance)にこそ歴史の上では可能性を賭けられてきたものである──しかしながら、祗管打坐のつもりでバタイユの影を追い求めることばかりに埋没するのもまた咎責を逃れえず、ならばイニョランスを再思三考して撰する道を進みたい。

 

例えば、ラカンに tuché (テュケー)*1ということばがあるが、ディディ=ユベルマンはそれについて「出会いという概念と関連づけられた現実的なもの〔現実界〕」(ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージの前で──美術史の目的への問い』江澤健一郎訳 , 法政大学出版局, 2012, p. 241)と定義付け、次のように叙説している。

 

見ようと、あるいはむしろ見つめようとする者は、閉じた世界の統一性を失い、感覚のあらゆる風向きに身を任せ、もはや不動的となった世界の不快な開放のなかに陥る。まさにここで、総合は崩壊にいたるまで弱体化する。そしてまさにここで、見ることの対象は、場合によっては現実的なものの先端[tuché]によって接触されて、単なる理性を何か裂け目のようなものに委ねて知の主体を解体するのだ。(Op.cit., pp. 240-241. 太字と[   ]内は引用者による)

 

ディディ=ユベルマンの才気に富む雄弁さはわれわれに多くの示唆を与え続けているが、その宛転たる巧知故のロジックの膠着は、往々にしてその饒舌の直後である。すなわちここでの争点は、もちろん<知の主体の解体>に他ならない。<見ること>とその<対象>の関係について、常に流動的な二者を想定したまではディディ=ユベルマンらしい軽快さなのだが、その次に「見ることの対象」が tuché 的なるものによって触れられたとき(すなわち、我々の視線は常に tuché 的な潜在力なのである)「知の主体」という今日までのほとんど全ての学問が根ざし、また多くの学問が抵抗を試みてきたものが、「解体」されるというのである。果たしてこの根拠とはなにか──ディディ=ユベルマン重厚長大なる数々の書帙は<知の主体の解体>の後に編まれたということなのか。

 

論理を通すことと、理論を体現することは、全ての書物に課せられた責務であり、この上ない悦びである。ここにおいて、ディディ=ユベルマンは前者については無論至妙にやり通しているが、後者については未だ願望と仮説の域に留まっているのは明らかである。そしてまた、このことに関する批判の多くもそれとまったく同様の域に留まる他にない。われわれはもしかすると、いかにして「知の主体」を解体するのかと問うのではなく、「知の主体」そのものを自明としている論理についてこそ再度検討の理論を求めるべきなのかもしれない。

 

精神分析は一見したところ我々を一種の観念論へと導くものであることを強調しておこうと思います。/たしかに、精神分析は観念論であると非難されています。つまり、経験は本来、戦争、争い、さらには人間による人間の搾取などといった無情なことの中に我われの失調の原因を見出すように促しているのに、その経験を精神分析は矮小化している、と言う人々がいます。/しかし精神分析経験の第一歩の歩みを見るならば、精神分析は決して我われに「人生は幻である」という格言を信じ込ませるようなものでないことは明らかです。分析ほどに経験の確信において現実界の核へと向かう実践はありません。(ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』ジャック=アラン・ミレール編, 小出浩之/鈴木国文/新宮一成/小川豊昭訳, 岩波書店, 2000, p. 71)

 

                 * * *

 

と、なんだか突然人文学的議論が始まってしまったのだが、私が今日綴るつもりだった話は、ほかでもない、初夢についてであった(精神分析がでてきたのもそのためなのだが、ここまで書いて初夢の話題にまだ辿り着きそうになかったので、急停止方向転換)。

 

眠りの浅さ故、夢をみるのは日常──ならぬ夜常──なのだが、昨晩みた「初夢」は、よりによって自分が死ぬ(正確には殺される)夢であった。しかも、その死ぬまでの流れがすべてあるスクリプトに沿っているものであるということを、その夢の登場人物たちは皆「知っている」のである。さらに言えば、その登場人物たちがそのことを「知っている」ということを、死にゆく私をみている(夢をみている)私がちゃんと「知っている」のだ。いわゆる明晰夢というものの一種であろう。しかし、一向に狼狽えたりもしない「私」は、一体だれなのだろう──どこにいるのだろう。そして、なにを「知っている」からそんなに落ち着いていられたのだろう。ここにいる私は結局、肝心なことを知らないままに、それを糧にして考えるほかないようだ。

そして起きてから、一富士二鷹三茄子どころではない小難しい初夢に、さっそく今年一年の行く先を感じ入ったのであった。

 

 

 

 

*1:ラカンのtuché論は例えば、ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』ジャック=アラン・ミレール編, 小出浩之/鈴木国文/新宮一成/小川豊昭訳, 岩波書店, 2000, pp. 71-86 を参照。「まず、「テュケー tuché」です。これは(…)、原因について探求したアリストテレスの用語から借りたものであります。我われはこれを「現実界との出会い」と訳しました。現実界は、「オートマトン automaton」の彼岸にあります。「オートマトン」とは記号の回帰、再帰、執拗さであり、そこでは快感原則が支配しています。現実界とはつねにこの「オートマトン」の背後にあるものであり、フロイトの探求のすべてにおいて、それこそが彼の関心の中心であったことは明らかです」(Op.cit., p. 72)。また、「認識は、理論的な分析文献の中で実にしばしば個体発生と系統発生との関係と同じようなものと考えられてきましたが、それはある混同のためです。(…)分析の独創性のすべては心理学上の個体発生をいわゆる「さまざまな段階」を中心にして考えない、ということにあるのです。「段階」などというものは、生物学的に観察できる発達の中にいかなる根拠を見出すこともできません。この発達全体は偶発事によって、つまり「テュケー」という躓きによって動いているのであって、ソクラテス以前の哲学が世界そのものの動因として求めたものと同じ点へと「テュケー」は我われを連れ戻してくれます」(Op.cit., p. 84)。