de54à24

pour tous et pour personne

恋愛のディスクール

AFFIRMATION 肯定

一切に抗じて主体は、愛を価値として肯定する。

ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』三好郁朗訳, みすず書房, 1980, p. 36)

 

独りっきりだ──

愛されてないし、愛する相手もいない。世界中で私がいちばん怖れてきたことだ

でも、まだ生きている

スーザン・ソンタグ『こころは体につられて』(上)デイヴィッド・リーフ編/木幡一枝訳, 河出書房新社, 2013, 帯より)

 

あらゆる関心を失うという傾向のある病気の性質も手伝って、私は基本的にほとんどのことに対して興味がない。熱中することもなければ夢中になることも、ほとんどない。とにかく集中力がブツ切れなので、同じ事を続けていられない。生活のなかで一番長く継続してできるものはもちろん5、6時間の睡眠であるが、その次は多分小一時間のバス移動だと思う。

 

そんな状態なので、他人に対してもきわめて感情や執着が薄い──あるいは、無い。私は常々不思議に思っていることがある。あまり耳にしないけれど、うつ病とか双極性障害とか統合失調症とか、そういう理性や感性、あるいは思考や感情に及ぶ病気のなかに生きているひとたちは、個人差はあれ私のような無感情や無関心にのみ込まれているように思うのだが、それでもなお、だれか他の人を好きになったりするのだろうか。病気の諸症状への対応で、恋愛なんてそんな余裕などないというのもあるだろう。けれど、病気が長引いたり、あるいは病気になる前から伴侶や恋人がいる場合、罹患後も相手にときめきや執着を覚えたりするのだろうか。人間の三大欲求と言われる食欲、睡眠欲、性欲のうち前者二つが明らかに著しく削がれている状況になれば、当然性欲だってなくなっているはずである(いわゆる躁病を除く)。欲望が薄れきったそのような状況でも、それでもまだだれかを好きになるのだろうか。

 

(恋愛の起源についても、また性欲の生物学的意義についても、それぞれ文学的および人文学的、そして生物学的および心理学的研究が非常に多くなされているので、そのような議論はそちらに譲りたい。つまり、ここではあくまでも、精神疾患による感情=恋愛と欲望=性欲に対する影響の何如を経験に基づいて精査し、私見を整理することを目的としている。)


感性が緩慢になりがちなのとは反対に、私は薬を飲みながらでも調子が悪いとき以外は勉強や研究を続けていられる程度には理性や思考が働くため、外的なことを理知的に捉えることにはさほど困難を感じていない。そのため、昔からの知り合いから今年一年に出会った人まで、いわゆる「憧れ」や「尊敬」、あるいは「感謝」といったその感情の理由が明確に述べられる他者への想いというものは自然に抱いている。しかし、突き詰めれば理由のない恋、あるいは恋情というものは、少なくともカルテにうつ病と書かれたころからは抱いたことがないよう思うのである。(もともと、どちらかと言えば理由のない感情なんて不安定なものは信用できないと考える節はあったのだが、それでも恋はしていたと思う。)ここしばらくは恋愛小説や漫画も読まないし、最近観ておもしろかった映画も「ファイトクラブ」や「ソーシャルネットワーク」、「メランコリア」といった類であるから、恋愛感情をどこかに置き去りにしてきたのに加えて恋愛という事態にも興味がないようである。

 

無論、はじまりからそうだったわけではない。十代後半のとき初めて付き合った彼から始まり、その後数年にわたって数人と付き合った。国や言語、時間を超えて、その時その時でそれなりに恋もしていたと思う。いい付き合いができていたからかそれともその反対かよくわからないが、別れてからも以前付き合っていた人たちとは皆、今でも時折連絡をとったり会ったりもする。辛いときもあっただろうが、結果的には穏やかないい人間関係が築けていると思う。男性を恐怖したりひどく嫌悪する理由も、今の私にはない。だから、私はいつもうつ病とひきかえに恋愛をやめたような気がしているのである。

 

それでも特に困ることもないから、今のところそのようなことについては時折思いつく程度にしか考えていないのだが、それにしても今年一年は元クラスメイトたちがびっくりするくらい雪崩のように結婚していったので、おおよそ隔週に一度は届く結婚の報告の度に、腹の底からこの人だちは一体どういう流れでこうなったのだろうと不思議に思い、そして恋愛や結婚といった通過儀礼について頻繁に考えずにはいられなかった。またそれと同時に、大学に行けば研究室でも私と年の同じ頃の男の先輩たちを中心に「結婚」というものがかつてなく現実味を帯びて膾炙しており、研究者という職業に従事しようとしている若者たちが結婚という文化的法的、そしておそらく感情的な手続きを前にどのような困難と向き合わねばならないのかをなるほど、なるほど、と聞いていた(もちろん研究室には既婚者もある)。

 

結婚ということだけを考えれば、私としては恋愛がない結婚であったっていいと考えている。というか、結婚という制度の歴史を振り返れば、その土台に当然のように恋愛があるという感覚事態がむしろ限定的なものであるというのは明らかである。私の祖父母もまた当然お見合い結婚である(どうやら母方のほうはそうではなかったらしいが)。だから、私が恋愛について考えてしまうときは、結婚のことを案じているのではない。では何が気に掛かって恋愛という私にとってはもはや空虚以外のなにものでもないことばの周りをうろうろしているのかと言えば、つまりは他人と同じ空間を共有することがとてつもなく苦痛であるということを懸念し憂慮しているのである。

 

私はこの何年かほとんどの時間をひとりで過ごしてきた。十年を超えた一人暮らしの生活のなかで、病にかかり、治療を続けた。その間実家に帰ったのも数えるほどしかない──年末年始もお盆もその他長期休みもいつもここで過ごしてきた。ごく稀に帰省しても、休みが明ける少し前に帰宅し、いつもぐったりと疲れ果て、最大級の希死念慮と闘うのが常であった。特に調子が悪いときは神経が非常に過敏になるため、となりの部屋で誰かの足音が小さく響くのも耐えられない。悪くなくても、夕飯のあとに家族などと少し談笑したり、あるいはテレビから流れる音を聞き続けたりすると、翌日は決まって寝込んでしまう。だから、私はこの一人で過ごす静かな部屋を、自分が唯一呼吸ができる命綱のような場所であると感じていて、どうしてもここには誰か他のひとをいれたくないのである。

 

恋人であれば、一緒に生活してもそこまでの苦痛に耐えなくても過ごしていけるのだろうか。あるいは、病気がよくなれば状況も変わるだろうか。そんなことも思うが、そう思うよりは先のことは考えすぎないようになる方がずっと現実的かつおそらくこの場合正しい方法なので、結局いまはただ考えるのをやめる技術を体得することに専念している──つまり、恋人ができればとか、病気がよくなるとかならないとか、問題はそういうところにあるのではないのだ。

 

「人はひとりでは生きられない」と、人は時折なにかに感じ入ったように言う。しかし、そのことばの重みを、そのひとはきっと知らない──知っていたならば、そんなことばをわざわざ口にはしない。「人はひとりでは生きられない」というのは、単に人は皆助け合って生きているという意味以上に、助け合うことができない人をどうするかという社会的福祉的問題も含意している。助け合いの社会の和の外にある存在を、それでも対価なしに助けましょうなどというきれいごとでは済まされない。お金や労力だけではなく、もしその和の外部にいるひとが助けられることをすら望んでいなかったら、それはどうなるのかという人間の意志と尊厳に触れる問題でもあるだろう──社会の外を思うとは、もちろん、今自死をはかろうとしているひとがあるということを本気で考えるということでもある。

 

「人はひとりでは生きられない」ということばの裏が「ひとりの人は生きられない(生きる権利がない)」でないように、私たちは真剣に考えなくてはならないと思う。私は、果たして老後というところまで生きてゆくだろうか。

 

世間はあらゆる企てを一種の二者択一に委ねる。たとえば、成功か失敗か、勝利か敗北かといった二者択一に。わたしは異なった論理によって抗議する。このわたしは、同時に矛盾して、しあわせであり、しかも不幸であるのだ*1。「成功」も「失敗」も、わたしにとっては偶然かつ一時的な意味しかもたない(だからといって、失敗の苦痛と成功への欲望の切実さが弱まるわけではないのだが)。このわたしをひそかに執拗につき動かしているものは、けっして戦術ではないのだ。真と偽の埒外で 、成功と失敗の埒外で、わたしはすべてを受け容れ肯定する。いかなる目的からも身を遠ざける。偶然に身を委ねて生きている(その証拠にわたしのディスクールを構成するフィギュールは、すべて、まるでさいころを振るようにして出発するのだ)。冒険(この身に起こること)に立ち向かうわたしは、勝利者でも敗北者でもなく終る。私は悲劇的なのだ*2。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』Ibid., p. 37)

 

(恋愛話に興味がない人間が恋愛話を無理矢理始めると大体こういうところに不時着するのである。) 

 

 

*1:ペアレス「どうしたのです、しあわせとは見えませんが──いえいえ、しあわせなのです、でも悲しいのです。」

*2:シェリング「悲劇の本質は、主体における自由と客観的必然との間の現実的葛藤である。この葛藤はいずれか一方の敗北で終るのではなく、両者のいずれもが、同時に商社として敗北者として、完全な無関心の中にあらわれるからこそ終りを告げるのである」(ゾンディ『詩と詩学』の引用による)。