de54à24

pour tous et pour personne

無へ落ちる casus in nihilo

長いこと体調や情緒の安定に欠いた生活をしていると、もうそれだけで忙しく、他のことにはなかなか手が回らないものである。まるで言うことを聞かない小さなこどもを何人も抱えながら、食べることや眠ることも十分にできない母親のような状況とでも言えるかもしれない。おもしろいらしいテレビ番組で笑うこともままならず、仕事をする体力がいつ途絶えるかもしれない不安は、それが現実となるときまで続く。人の心身を雁字搦めにするそういう状況は、通常人々が年相応に身につけていくであろう早さの数十倍、数百倍のペースで、偉大なる無関心を生む。

 

かつてこの無関心を持て余しては右往左往していたこともあったが──私はまだ若く世界の内外の様々なものに艶やかな関心を寄せたかった──、いつの日からかそれもまたどうでもよくなった。他の人のこと(つまり「自分」のこと)や、他の事情のこと(つまり「私」の事情のこと)など、気になる理由も、気にしなくてはならない理由も絶無のように感じられた。なぜそんな冷徹な感性をもつことになったのか、その経緯はあまりにも重層化され石状奇胎と化しているため、説明を試みることさえ無益である。それでもあえて言うならば、私はかつてよりイマニュエル・カントの批判哲学*1を読むことを自分へ課してきたため、その限界付けの技法が生む自由に可能性を見いだしていたのかもしれない。自分の限界を潔く、あるいは論理的に認めること、自由はそこからしか始まらない。

  

 統制的原理[意味のあるものを無意味なものから区別する原理。換言すれば、人間に思考を打ち切らせる原理であり、なぜ思考を打ち切らねばならないかを知らしめる原理である]がなければ、或る表象に関して人間はもっぱら構成的原理の下、カテゴリーを駆使して普遍者の如くに振る舞いながら取ろうのうちに疲弊し、しかも何の得る所もなく終わる。特殊的存在[統制的原理を持つ人間]が普遍者[神]の振をしたことへの、無残な代償である。誇るべき思考のの力とそれを実践するという自由が却って人間を苦しめ、人間を矛盾に陥れる結果になってしまったのである。(米澤有恒『カントの凾』萌書房, 2009, p. 195)*2

 

井の中の蛙や池の中の鯉が自由ではないなど、誰が決められるというのか。ましてや、その蛙や鯉が罪深き歴史の果ての人間であるならばなお。自由は有限のものたちのみに存在する。

 

自由に関わる統制的原理は実践理性のものである。構成的原理の管轄下、悟性の思考においては、「理念」を「無限の外延を有する概念」という風に捉えるよりないのだが、かかる概念は概念としては矛盾である。(…)そこであらためて、かかる概念を「悟性の概念」ではなく「理性の概念」、すなわち「理念」と考えねばならない。人間の諸能力の中で、無限なものに胎児できるのは理性だけである。その理性でさえ、無限を「構成しうる」といった夢を見て自己喪失にならないように、統制的に自己規制を加える必要がある。さもないと、人間が人間でなくなってしまうからである。人間が人間でなくなる、神になれない以上、それは残酷な「無」でしかない。 (Ibid, pp. 195-196)

 

残酷な「無」──これは、おそらく、現代の多くの精神的病に通底するものと言い換えて構わないであろう。「「無へ落ちる casus in nihilo」、畢竟ニヒリズム。しかしこれはやがて来る、新しい人間の苦悩の姿だったのかもしれない。ドストエフスキーが夙に予感していたように」(Ibid, p. 196)。

 

病になんらかの意味があると考えるのはあまりにも浅はかであるし、別に声や文字にするようなことではまったくないのだが、私は以上の意味において、精神を病んだ者たちは人文学や哲学や文学といった分野における考究についての限定的な、しかし非常に重要な特権を与えられた者であると考えるのである。病は決して可能性の中断ではない。それは、さらに意義深い可能性の開始なのである。

 

そしてまた、この偉大なる無関心も、その可能性に与するものであるように感じている。世の中に存在する膨大な書物とそのページに記されたテクストに、感情的なバイアスから逃れて向き合うことのできるということは、ここにある現実を静かに見つめようとするときに最大の技倆となるのだから。

 

 

*1:とくにその第三批判とよばれる美学についてのカントの態度は、精神医療の臨床にとって示唆的であると考える。そこでカントは、「思考不能だが経験可能なもの」として美を想定しているのだが、その美については次のように述べている。すなわち、「美の学が存在するのではなく、美の批判が存在するだけである」(KdU, §44)。われわれは思考不可能なものについて、それ以上考えることはできない。それでもなお考え続けようする試みは、おそらく「無限進行」に陥り、辞めることもできない終わりなき思考のなかに疲弊し、あらゆる希望すら手放すことになるだろうと、米澤有恒は述べている(米澤有恒『カントの凾』萌書房, 2009, p. 195)。だからこそ、われわれは批判による有限性の外延を見いださねばならないのだ。

*2:[]内は引用者による。