de54à24

pour tous et pour personne

ベランダの住人たち

 
Le 2 mai 2014
 
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  朝顔(渓流)           パクチー Le planteur A
 
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  スイートバジル Le planteur A  スイートバジル Le planteur B
 
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  レタスバジル           ローズマリールッコラ
 
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  スペアミント+ペパーミント    スペアミント+ペパーミント+
                   +レモンミント+キャンディミント
 
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  アップルミント+オレンジミント  ペパーミント+ホールズミント
  +パイナップルミント       +ブリティッシュミント+ラベンダーミント
 
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  プチトマト Le planteur A       Le ciel 
 
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  プチトマト Le planteur B     プチトマト Le planteur B
 
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  mon chat             アボカド 12個
 
 

ふと、そこにあった『花とアリス』(岩井俊二, 2004)を観た。ちゃんと観たのは過去に2度ほどだったと思う。この映画には「ありとあらゆる種類の」と形容したくなるほどの様々な有名人が登場するが、それが誰であったかは再度観てみないと確認できない。同様に、不思議なほどにこの映画のラストシーンもどのようなものだったかがいつまでたっても記憶されない。そして改めて映画はすごいなあ、と噛みしめる。なぜなら、何度も観た映画でも、必ず「知らないシーン」と出会うからだ。いくら一本の映画を観た!と思っても、人間にとって、二時間という時間のなかで同じ画面をずっと観続けることはほとんど不可能で、瞬きやそれより少し長い注意の断絶によって、必ずや観ていないシーンが生まれる。映画を何度観ても新しいシーンに出会うのは、このこぼれ落ちた時間を見つけるからに違いない。発見された未知なるシーンが思いのほか重要なカケラだったりすることもまた珍しくない。そしてなによりこの映画は、岩井俊二監督がカメラマン篠田昇と撮った最後のフィルムである。鑑賞者にとっての「観る」もそうだが、映画監督/映画作品にとってのカメラマンという眼がいかなる存在であるのかということを、花とアリスという可憐な少女たちの笑い声に見惚れながら、考えずにはいられなかった。




 

サバイバルに必要なのはナイフではない

 

今年で一番夏に近い日の朝に目を覚ますと、いつものように淹れたコーヒーに氷を三つ浮かべた。それからカップを持っていつものようにベランダに出て、よく晴れた青空になんとも言えぬ満足感を覚えながら、南側と西側の壁に沿って並べたプランターのなかの様子を眺めた。確実に、日毎に緑が濃くなっている。みれば、先週植えた朝顔の種のうち、七つが双葉を一生懸命土の中から引っ張り出している真っ只中だった。その様子は発芽というよりも、むしろ出産と呼ぶべき姿のような痛々しく生々しい、そしてなによりグロテスクな光景だった。その『エレファント・マン』(デヴィッド・リンチ監督, 1980)的なグロテスクさは、ほ乳類の出産とは違い、「産む痛み」と「産み落とされる痛み」が同一の芽の中に凝縮されているからだろうと思われた。切られるべき臍の緒が存在しないということだけで、誕生はかくも怪異なものとなる。母胎という grotta (洞窟)から生まれ出る者たちよ、この世界は、産み落とされる場所として、十分に美しい時空間であるだろうか。

 

学部生の頃のある夏、夏休みに帰省する場所も習慣もない私は、かなりまとまった量の映画を観た。私が学部時代に在籍していた大学では、突如山田洋次監督を客員教授として招聘して映像学部を設立する以前、映像や映画関係に委しい教官のほとんどが文学部で教鞭をとっていた。ヨーロッパ映画を専門とする者は多くなかったが、美術史や現代アート批評の専攻にある教官は誰でもそれなりのシネフィルで、場合によっては映画について語らせたら専門の美術史より饒舌であったりもした。また、特に北野圭介先生のようなハリウッド系の研究者は毎年いくつかの講義で広く映画史について講義をしていて、次から次へと紹介される映画(北野先生はその頃大好きなオードリー・ヘップバーンの魅力についてを語り尽くしていた)を観ながら──三時間ぶっ続けで映画を観る講義もめずらしくなかった──、初めて知る監督の名前や女優の顔に一々心を揺さぶられた。講義のあとで友人たちとどこのレンタルショップでどの映画のDVDが入手可能かなどという情報交換をしていたのは、いまでも懐かしく思う。その頃の私もまた、そんな環境に育てられては文学部の学生らしく当然のようにヌーヴェル・バーグやフィルムノワールなどにかぶれていった。

 

TSUTAYAなどのレンタルビデオショップのように新しいものを入れると同時に古いものから廃棄しているところとは異なり、大学からほど近いところにある店には古いものから新しいものまで、まさしく映画を観たい者向けのラインナップが揃っていた。TSUTAYA大学図書館の間を絶妙に埋めてくれるこの店によって映画を観る目を仕込まれた学生はきっとかなりの数になることだろう。現に、三年生から所属したゼミには実に多くの映画好きが集まっていた。必要なのは講義の出席回数ではなく図書館と映画館とレンタルショップだ、というのも言外で教官から学生に伝えられたメッセージであった。ただ、一日に三、四本観続けていると、作品同士が溶け合ってしまい、もはやなにを観たのかすら明確に思い出せなくなることもしばしばあった。それを防ぐためにも時折キャンパスに顔を出しては、同様の境遇にある友人たちと観たばかりの映画について他愛もないやりとりをした。そんななかでも特に印象的だった作品が両手に収まる程度あるのだが、そのうち特にふと頭を擡げるのが、そのうちのふたつがラリー・クラーク監督の『キッズ』(1995)とガス・ヴァン・サント監督による『エレファント』(2003)である。共にアメリカを舞台とした “キッズ” たちの映画で、特に前者はAIDSを題材とし、後者は1999年コロラド州コロンバイン高校銃乱射事件という事実に基づいた映画である。後者はいままで何度か観たのだが、前者『キッズ』はあの夏の夜に一度だけ観たきりで、それ以降観るチャンスに恵まれていない。しかしそれでも年に何度か、あのうら若きクロエ・セヴィニーの薄く涙を浮かべた不安そうな横顔と共に思い出されるのだった。

 

      


      

 

私は、邦画に関しては特によい鑑賞者ではないのだが、しかしながら、上記のような映画を観ると、日本には題材として作品化するべき事件がたくさんあるのにも関わらず、そういう映画がとても少ないように思う(少なくともレンタルショップで簡単に観られるものはとても限られている)。事件や事故を風化させないためにも、一時の麻疹のように湧いては消えるワイドショーの特集やニュース映像、あるいはメモリアル的に制作されるNHKのドキュメンタリーなどでは救いきれない細部や形式のためにも、想像と創造によって汲み取り、補い、いつでも取り出せる映画という形の歴史と記憶に残しておくことは、非常に重要だと思われる。そしてそのような映画は、言うなれば一篇の「映画」として撮られるべきではなく、むしろ現実の再構成、あるいは関わった人間達の記憶の想起として実現されるべきであるというのが個人的な指向であり願望である。例えば、本国において米国コロンバイン高校銃乱射事件に匹敵する重大な少年事件、秋葉原通り魔事件(2008年6月)を映画化した作品──大森立嗣監督『ぼっちゃん』──が昨年夏に公開されたのは記憶に新しい。

 

       

映画に関してはとくにフォーマリスティックな指向性を持っているため、やはり私は「なにを撮るか」ではなく「どう撮るか」ということが映画にとっては絶対的に重要だと思う。その点で──この映画を非難するつもりは毛頭ないが──『ぼっちゃん』では、偏頗な構成によりあの秋葉原無差別殺傷事件の最も記憶されておくべき部分のいくつかがまだムネモシュネの成立には足りないように感じられる。無論、その片手落ちの軽い感じが大森監督の感性であり個性であるということをある程度は理解した上で、それでもなおこの題材を選んだ限りにおいて「どう撮るか」ということに関しては、より多くの作家や監督が挑むべき課題であると考える。

 

先月半ば、雨宮処凛がBLOGOSに秋葉原無差別殺傷事件の犯人加藤智大の弟が自殺(享年28歳)したことについての記事を寄せていた(被害者遺族と加害者家族 〜秋葉原事件犯人の弟の自殺に思う〜 の巻 - 雨宮処凛(マガジン9) - BLOGOS)。雨宮処凛に関しては、最近のプレカリアート問題に関する仕事はもとより、若かりし頃の右翼活動時代から精神疾患、自殺者の問題についての関心まで、無鉄砲、あるいは特攻隊的とも思われるような体一つで問題にぶつかっていくようなその姿が実に印象的である。見ようによっては計算や思慮が欠けすぎているようにもみえる彼女のやり方だが、しかし特に理屈や技巧が通用せず、風化という時間との戦いでもある社会的問題に取り組もうとする際には、そんなやり方もある程度は有効なのかもしれない。思い出されるのは、以前彼女がずっと若い頃に北朝鮮へと渡った姿を映し出したドキュメンタリーである。静かに淡々と進む映像に反して、その記録は非常にショッキングなものであった。それは恐らく、そこに映っている彼女があまりにも生々しく個人の内面的な傷と弱き社会的存在としての痛みを一挙に感じ受けていたからではないかと、私は私の傷の痛みをもってそう解釈した ── あの映像に映っていた少女を終えてまだ間もない女性が、今日も自殺することなくきちんと大人になり、生き続けているというのはとても信じがたいことにすら思われてならない。

 

あらゆる事件の加害者家族の問題については、確かに事件そのもの、被害者とその家族、そして犯人についての報道や関心に追いやられるようにして、語られ鑑みられることがとても少ない。しかし、生きている現実という意味では加害者家族もまた、加害者、被害者、そして被害者家族と同等の希望のなさと逃げ場のなさに一生涯追い詰められ続けるに違いない。秋葉原事件の加害者の弟の自殺は、死へと向かったその意思や方法において、あるいはまた検視的にも生物学的にも無論自殺と認定されるものであるだろうが、その人間を死へと追いやったものについての動機的、観念的な死因を考えれば、そのほかすべての自殺という事態同様、「単なる自殺」ではないことは明らかだ。「単なる自殺」などはこの世のどこにも存在しない。多くの思惟や思考は、秋葉原通り魔事件、あるいは加藤智大そのひとが、自らの弟を死に追いやったのてであるという説明や納得に帰着するのかもしれない。しかし、そのような然もありなんなことを思い浮かべると、私はそこにある圧倒的と言ってもまだ絶対的に足りないほどに深淵な【思考停止】を感じずにはいられない。私は、そのような結論めいた答えに納得するのではなく、ただそれ以上の思考も想像もまったく持ち合わせていないということにただただ強直してしまっているのかもしれない。

 

その【思考停止】は、悉皆奈落の底のようである ── 奈落の底として目に映る漆黒の闇は、絶対的な深みという空間概念なのであり、物理的な底面ではない。加藤智大というあの通り魔殺人鬼が秋葉原という特殊な加工を施されたかのような街に誕生する数日、あるいは数時間前、その頭のなかに見ていたものもまた、この奈落の底のような永遠の闇、ただそれだけだったのかもしれない。そして、映画というスクリーンの上の光は、この思考停止という漆黒の闇へ放たれる光となることを望むべきなのだ……。

そんなことを、菊地成孔のジェントルで嘘っぽく、それでいて甘やかな声が呼び込むジャズサウンドに身を委ねながら思っていた。金曜の真夜中に赤坂から粋な夜電波に乗って届けられる耽美的な時間には、一週間のなかでもっとも重厚な優しさと芳醇な自由が詰め込まれていた

 

 (…)犯人にとってアキバのホコテンは、呪いの詰まった、汚すべき場所という側面(タクマに於ける小学校の校庭や、アメリカで頻発するライフル乱射事件に於ける高校の大食堂のような)もあったかも知れませんが、同時に「アキバのホコテンなら、解ってくれる(乃至、喜んでくれる/面白がってくれる/怖がってくれるetc)という、「許してくれる場」であったことが想像出来、これがこの事件の第二のネクストレヴェル性であって、つまり事はアキバだけではなく、現代性の推進は幼児性の進行に他ならないという、面白くも何ともない、在り来たりな結論です。 (…)

➡Read ALL  菊地成孔『PELISSE』「速報」2008. 6. 13 更新分 

 

ドラッグを極めて大雑把に定義するならば「現実感を無くし、万能感を得られるので日常の憂さが晴れるし、脳の働きが非日常的になるので何かが解った(悟った)気などもするのだが、実際は何も無い。また、中毒や依存した場合の代償として被害妄想と無能感とあらゆる痛みに苛まれ、廃人に至る」ものであって、携帯/ネット/アニメ/ゲームは現代を代表するドラッグです。安価で高性能なのが手に入りますし、何せ国家にドラッグだと思われていません。ほとんどのハードドラッグが、発明され、流通され始めた当初はドラッグだとは思われていなかった。(…)我が国はマリファナひとつ解禁出来ず、パソコンとネットは大盤振る舞いである社会ですが、一方でこれも実に日本っぽい話なのですが、「やばいとなったら手のひらを返した様に徹底的に取り締まる」というのも我が国の姿ですから、携帯(以下略)がドラッグだという事の確認/立証/看做があったら規制されると思うのですが、認識されない限り規制はありません(在刑法定主義が云々、といった司法の議論は何の役にも立ちません。それがドラッグだと認識されるかどうかだけが総てです)。(…)現代人は、極めて大雑把に「労働」という1セット制から「労働/趣味」という2セット性を経て、現在「労働/趣味/ネット世界に接続」という3セット性に生活時間の区分を進化させていますが、そのうちのひとつがドラッグなのだという事について、一般的な認識が無さ過ぎると思います(たとえ話で「ネット中毒」とか「アニメはドラッグ」とか言っても、それは認識からむしろ遠くなります。普通にトルエンやコケインやアンフェタミンの様にドラッグなのだ。と知るべきです。 

(…)
恋の悩みに関しては専門外ですので、いささか無責任な事を言いますが、告白すべきだと思います。告白して上手く行っても、断られても、同じ事です。告白するかどうかは、結果の如何ではなく、告白するかしないかのみが問題であって、告白しない理由というのは「振られたら傷つくから」以外に想像がつきません。傷つくのがイヤという理由だけで告白が出来ないのであれば、それは生きていないのとほぼ同じです。傷ついて初めて時間と空間は生じます。傷つくのを回避する人からは時空間が消え、自殺以外やる事が無くなる訳です。勝ち負けが世界を支配していると言うのは間違いではありません。問題は、勝利がどこにあるか、敗北がどこにあるか深く知る事です。

➡Read ALL 菊地成孔『PELISSE』「速報」, 2008. 6. 17 更新分

   

 

かつて、オールナイトでアート系クラブイベントを主催するにあたり、会場や出演するDJなどを探していたときに、ふと袖振り合うも多生の縁とばかりに出会った人がいる。私よりひとつ若い彼は同じ大学の出身で、当時はバーテンのバイトなどをしながらクラブに出入りすし、DJ名を名乗る夜の街の青年だった。別な知り合いから、この街のクラブシーンのことなら彼に訊けばいいと、彼の名前を教えられて手許にあった紙片にメモをとった。それだけを頼りにクラブオーナーやDJやミュージシャンたちに訊ねてまわりながらとあるバーで働いていた彼の姿を見つけた。その当時もゆっくり話をしたわけではなかったが、それでも彼がシャイな人間が多いDJという人種にしてはめずらしく初見でも大変人当たりがよく、そして話をしていればすぐに分かるとびぬけた知性の持ち主であった。そんな彼は、数年前に上京して介護関係の職につき、結婚し、こどもを持ち、そんなわけで今は家族三人、小さくも真正な幸福に包まれた家庭を生きている。私は、彼ほど上手にお酒が飲めるひとをまだ他に知らないし、彼ほどその愛息の人生に責任を持つという意味を理解し体現している男性をまだ他に知らない。彼の撮した写真に写された絵に描いたようなつぶらな瞳の小さな男の子は、お父さんに教えてもらうこの世界とこの人生を生きるたくさんの方法に護られた犀利さとしなやかさを湛える笑顔を浮かべていた。

 

今日の夕方にふと大学の図書館に行きたくなってキャンパスのある東の方を見たら、深緑の山が連なっているとばかり思い込んでいたところに、黄色くくすんだ斑模様をした一連の山が見えた。あの黄色く見える樹はなんだろう? 視線を下ろすと、対面の学校の校庭の真ん中に一本すっと立った銀杏が、若い緑の葉を豊かに茂らせていた。それを眺め見ながら『愛雪』という美しい名を持つ書物が頭を過ぎった。それは、父となったあの知的で誠実な青年が「偉大なる先達」と呼ぶ新田勲さんの著書だった。クラブの喧騒ではなく、いまは『愛雪』を読みながら夜を過ごす彼は、こんなことを言っていた ──「あらためて介助ってのはいい仕事だ。無限の可能性を秘めていて、どこからはめても綺麗な絵が出来ていくパズルのようだと思う。そして底がどこまでも深い。単純な介護技術だけではなく、選択できる無数のアプローチがあって、はじめて介助者になってきたなと思う。介助を労働という位置まで持ってきてくれた先達には頭があがらないし、介助を続けさせてくれている皆々様に感謝しながら一杯飲んで寝ます」。

 

 おやすみ、この途方もない世界。

 

 

 

 

この朝に何度「おはよう」と言っただろう

 

先週の通院日は、約3年に渡って私の主治医を務めてくださっていた先生による最後の診察日だった。2011年の初夏に入院したときに出会ってから、休学中だった大学へ復学し、卒業論文を書き、無事に卒業を迎え、それと同時に外部の大学院に進学するに至るまで、すべてのステップに寄り添っていてくれた主治医が、これまで、そしてこれ以降の私の人生へ寄せてくれた貢献は計り知れないものである。そして、現在の病院にたどり着くまでもすでに7人の精神科医の診察を受けてきたが、病院とはいえ、人間関係が根本的に試されるような精神科において、理屈を超えて直観的に信頼を寄せることができる医師に逢えるのは極めて希なことであると改めて考えていた。大変頼りにしてきた主治医を失うということは、それだけで生活全体が不安定になり得ることではあるが、それでもある意味では「卒業」とも呼べるこの別れとともに、私はまたひとつ成長するだろう。病院からの帰り道、見上げると、街路の花々に飾られた初夏の気配を感じる青く広大な空は、この船出にたいへん相応しいものであった。

 

 

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帰宅後、うちにあるプランターのすべてに土を入れ、苗や種を植えてもなお余っていた朝顔の種を18粒、最後に残ったプランター植えた。このタキイ種苗の青と白のマーブル模様の朝顔の成長は、主治医との別れの日からの始まる。この青の朝顔が大きくなればなるほどに、きっと私も新しい生活に自信を持つようになるだろう。目に見える指標があるというのは、それだけで心強いものである。みれば、少し前に蒔いたパクチーやバジル、ミントの種が土のなかからラッキーグリーンやエメラルドグリーンの小さく愛らしい芽を出していた。アイコやココと名のつくミニトマトの苗も、黄色い小花を飾りながらみるみるうちに大きく頑丈になってきていた。

 

そんな別れを惜しむ間もなく、定期的にやってくる妹の手伝い要請にその夜から寝る間も惜しんでまる5日を費やした。あまりここには登場しない妹だが、なにも仲が悪いわけではない。離れて暮らしていても、総じて週の半分はLINEやメールなどで連絡をとっている。三つ年下の妹は、簡単に言えば物心ついた頃から明らかにシスコンを絵に描いたような人間で、自分と私を比べてはフラストレーションを抱き、しかし自分にできないことができる私に羨望とも憧れともつかない感情を抱く結果、文章作成に関しては信用がおけると判断したのであろう私を何かにつけてゴーストライターとして採用するという末娘らしい世渡り上手の術を毎度毎度開陳している。大きな声では言えないが、今まで自分のものも書いたことがない修士論文から履歴書に至るまでの彼女の文章(どれも科学論文とは異なり、明記された執筆者だけで書く義務がないものであるのをよいことに)を私は毎回、怒鳴り散らしながら添削以上の執筆を行ってきた。日本語に堪能ではない外国人が書く日本語のような文章を書く妹に、文章の構造やことばの意味を逐一教えながら文章を完成させるのは、自分で書くよりも10倍以上の時間と労力を要する。修士論文のときには、何度提出先である東京藝大某学科の低レベルな論文作成に関する陶冶および指導に文句を言いに行こうと思ったか知れない。そして今回は、英語圏の企業へのエントリーに必要な履歴書に添付する cover letter の執筆を手伝った。日本語と英語の両方で書かせたせいもあるが、たかだがA4一枚の文書にまる5日を費やしたのだった──先方には是が非でも採用して頂かなければなるまい。

 

特に英語教育が盛んに行われるようになって以降、国語や英語以外の語学に対する教育について日本は随分と意識が低いように思われる。英語教育に励むのも構わないが、国語を十分に母国語として体得できていないうちに外国語に取り掛かっても、二兎追うものは一兎も得ずとなるリスクがあることを知っておかなくてはならない。高校時代にアメリカンスクールで出会った少なくない台湾のこどもたちは、英語も中国語も日常生活に必要な程度には使いこなしていたが、どちらも母国語とは言えない程度であり、つまりは読み書きが共に不十分だった。母国語を持っているということは決して当然なことではない。そして、ある特定の言語を十分堪能に使えないということは、国際社会におけるアイデンティティの不在にもつながり、また、当然ながらものを理解したり考たりする能力を身につけられないことを意味する。さらにはたとえば、社会において爆発的に増加する精神科の必要性は、医師の触診のない診察であることを忘れてはならないだろう。精神科医やカウンセラーといったセラピストととの対話が、すべての精神科的治療のはじまりである。必ずしも堪能にしゃべる必要はないが、自分の不安や心の状態を的確に言明できないというのは、患者と治療者の双方にとって随分もどかしいものとなるだろう──そして必然的に、そこでは患者が発する語彙のみならず沈黙の意味を特定することもまたずっと難しくなるに違いない。クレオールの豊かさを知ってもなお、言語教育の欠如や不足にまつわるリスクは、非常に深刻なものであると思う。

 

  この療法にはひとつ鍵となることがあった――これは河合や中井の診療法の全体にもかかわることで、本書の最大のテーマでもある。セラピストがいかに黙るか、ということである。セラピストの沈黙は、それまでの「善導」とは対極にある姿勢だった。診療する側はあくまで患者の言葉が出てくるのを待ち、無理強いしたり、介入したり、やたらと解釈を加えたりはしない。大事なのは、表に出されたものを共有すること。 こうまとめると、現代人の多くは「それはすばらしい」と安易に賛成するかもしれない。「他者の声に耳をすませる」といったフレーズは今、とても耳に心地良く響く。しかし、ことはそう単純ではない。一口に沈黙と言っても、ただ黙っているというのとはちょっと違う。上手に黙るのである。しかも簡単で明快なマニュアルがあるわけではない。だから実際の診療は、それぞれのセラピストのやり方におおいに依存することになる。黙る、待つ、という方法論にはじめは納得した人も、診療の現場で不安に思ったり、疑念をいだくこともあるだろう。そして、ときにはそんな疑念があたっていることもある。また、「箱庭療法」はとくに統合失調症の患者には、たいへん危険な作用をおよぼすことがあるという。使い方によっては、人の秘密をのぞくことにもつながるし、さまざまな負の側面も想定されるのである。
阿部公彦「最相葉月『セラピスト』書評」, 紀伊國屋書店 書評空間

 

 

 ここのところ、そういうわけで自分の読書や勉強がまったく捗らなかったのだが、その間、父親から中央公論社の世界の文学が全巻約100冊揃で届いた。私が大学進学のため実家を出る際、好きなところだけ数冊引っこ抜いてきたのに気がついた父が、どうせなら全部手元に置いておけと言って、足らなかった50巻ほどのタイトルを買いたして全集をすべて揃えて送ってくれたのだった。いまどきどこの出版社も世界全集など編まないだろうが、哲学書を教科書としている分野の学生たちにとってみれば、そこで引かれる文学作品がすぐに読める環境があるというのは大変ありがたいものである。それに、自分の好みで本を選んで買い揃えるのとは異なり、全集が揃っているとそれだけで知らない作品に触れる機会となる。この意味でも全集の類は、豊かな価値をもつものだと思う。唯一問題があるとすれば、ウサギ小屋然の日本の家屋ではこの量の書物を一挙に保管しておくのは容易ではないということくらいだろうか。

 

時折、自分がこの部屋に存在する膨大な量のことばと取り結んでいる関係について考えると、自分がまるでどこかの本の片隅に文字によって刻み込まれている存在のような気がしてならない。すべての本の主人公は、ことばこそがその存在の基底であり、すべてなのだ。

 

 

 

 

 

 

いくつかの理解にミントを添えて

 

12日の土曜日に、連絡がうまくいっていなかったために急ぎの手続きの必要が生じた件で郵便局へ行った。週末でも営業している郵便局は二箇所あるが、どちらも行くには同じくらいの時間がかかりそうだった。そのため、普段はあまり行かないほうで書留郵便を出すことにした。同じ散歩でも、元気なときはより知らないことが多い道を行きたくなる。一通り用事を済ませると、しかしながら、やはり抱えきれないほどの疲れを感じた。本当ならば、帰路にもいくつかある行き慣れたカフェで本の数ページでも読んでみたかったが、週末の混雑と緊張からくる疲弊が一刻も早い帰宅をせがんだので、週末の開放感を漂わせた人々の間を縫って家路へと急いだ。

 

ここのところのSTAP細胞関連の加熱した報道を前に、果たしてこれだけの時間と喧噪をこの研究に割く意義はあるのだろうかと改めて考えていた。あれやこれやの会見は一体どこに向けて開かれていて、だれが必要としていたのだろうか。そしておそらくは、半ば以上がこれといったネタがない平和で愚鈍なマスコミに焚きつけられた結果だろうと思われた。真の謝罪や究明弁明が必要な各所には、マスコミなど挟まずに対話を行うべきだし──そして、実際関係者は既にそうしているだろう──、科学的に込み入った話を聴き通すだけの忍耐のない人間たちが持ついたずらな関心が一連の騒ぎを構成している大部分であることは、先刻の二件の会見(とそれを報じる諸テレビ番組)からも明らかであった。

 

そこでひっきりなしに思い出されたのは、「難しいことは難しくしか言えない」という小泉義之先生の言葉だった。本当に難しい事実は、かみ砕いたりより分かりやすく平易な言葉に置き換えることは決して出来ない。換言や説明によって事実そのものがねじ曲げられる恐れがあることを忘れてはならない。だからこそ、われわれは一冊でも多くの本を読み、勉強する必要があるのだ。

 

私にとってもはやSTAP細胞はここしばらく──少なくとも今年中は──どうでもよい話であったし、加えて先頃別件で電話を寄越した母が、STAP細胞の話を振った途端に「論文をちゃんと書けない人の研究だもん、なんかどうでもよくなっちゃった」と吐き捨てていたので、それもまた真っ当な一般社会の意見だろうと思われた──そしてもちろん、なるほど血は争えないとはこういうことかと思ったのだった。私の関心の中心は寧ろ、人々の間に蔓延る「理解」というものの存在であった。小泉先生の言うように、難しいことは難しくしか言えないのならば、一般社会に向けられた専門家による会見など、そもそもお茶を濁すためか、さもなければフロイト的欲望を云々してみせる他にはその意義はない。ソーカル事件を心のどこかで思い出しながらもなお、優れて高度な科学技術を取り巻く事情を、「わかりやすく」など言表できるわけがないと私もまたその意見に強く賛同した。

 

ある科学(技術)的な現象を「わからない」という者があるとしても、その場合他でもなくその無知にこそ不勉強の誹りが向けられて当然である。取りも直さず、「われわれの話がわかるようになってから、また話をききにきなさい」──こういったある種の圧倒的外圧によってのみ私たち(文系学徒)は導かれているようなものなのだ。

 

「理解」ということは、それだけで半期の講義が成立しそうなほど、それこそ種々様々な方面で研究が続けられている。日々の生活からかけ離れた研究だけではなく、おそらくは外交問題から人々の日常生活に根差す対人関係の悩みに至るまで、この「理解」というものが司っている範疇は広大である。私が件の会見を見聞き(流し)ながらとめどなく「理解」について思いを馳せていたのは、私自身がそれ以前に「理解」を巡るいくつかの事象に心を砕いていたからに違いなかった。つまり、私が持病に関して、他者へ求めるべき「理解」とはどれだけの大きさで、どのような質をもったものであるべきか──あるいは、ありえるか。

 

とはいえ、この間主観的な「理解」という事象によって生じる自他間のネゴシエーションが、私と相手を含む環境をいかに変えるのかという問題は、今よりもずっと無明な十代の時分のほうが私にとって枢要なものであったように思う。それは、私が誰か他の人々に対して今よりずっと多くの期待や望みを見ていたからであり、また理解を求めることによる摩耗が生んだ無関心という自衛と全く無縁であったためだろう。十余年前の自己など、眼前の他人よりもずっと得体の知れぬものであるのだが、このような説明──あるいは、「理解」──は、大きく的を外してはいないように感じられる。

 

病や障害を持って生きるということは、なにも特別なことではない。しかし同時に、病や障害が原因となってなにかができないということは、広い意味で潤滑な社会的な営みが阻害されることを意味する。なにかができないということが、どれほどの重圧となるかは、難しいことは難しくしか語れないのと同じように、その状況を生きてみない限り完全には分からない。そして、経験主義を叫ぶつもりは毛頭ないが、それでもなお想像力──そして、「理解」──の非力さの実感を認めないわけにはいかない。(想像力に対するこの歯がゆさこそ、まぎれもなく人文科学の糧でもある。)

 

ある人間の人生は、どのような形にせよ他者に対して意味を持つ。したがって、ある人間の人生の中から、他者との連関をまったく欠いた、それだけで自足しているような意味をみつけようとする試みは、徒労に終わるほかない。(ノベルト・エリアス『死にゆく者の孤独』)

 

 

久しぶりに登校した小学生、そして中学生の私は、学校の教室に張り巡らされたコード──日々を教室で過ごしている学友たちには不可視的なコード──に戦々恐々とした。2限目の授業はなにを提出しなくてはならないのか、休み時間はどこへ居るべきなのか、給食はどのように配膳され片付けられるのか、掃除の時間はどのように床を拭くのか、云々。毎日のことならば考えるまでもなく右から左へ片付けるようなことが、「毎日のこと」ではない者にとっては、当然そうではない。いわば「よそ者」は、大多数が無意識に取り仕切る動作によって創り出されているルールを必死で見極めなければならない。この社会からこれ以上疎外されることがないように極めてさり気なくその場を構成するルールやコードを見つけ出し、真似をしてみせることを強要されている。この強要はすなわち、「私はあなたがたにとって脅威や危険ではないですよ」ということの表明の強要である。

 

多くの人々とは「違う」身ぶりや行動で、バスや電車に乗っているひとを思い出してみればいい。その時、あなたはなにを思うだろうか?その一瞬の思いが、誰かを疎外する力になっていることを、想像したことがあるだろうか?──おそらく「理解」ということを考えるときに、最も重要な項目が、この排除しようとする力と組み込まれようとする力の間に働く政治的駆け引きなのだ。そして、難しいことは難しくしか語れないというのは、組み込まれる方が持つ微量な力を最大限に擁護しようとする意思である。

 

卒業間近となった中学三年生のころ、まったくの不登校児であった私は誰に言うこともなく、少しずつ教室で過ごす時間を増やすために、「普通の中学生」へと復帰しようと吐き気や震えを汗ばむ冷たい手でそっと握りつぶしながら3年6組が存在する場所へ足を運んだ。初めは国語の時間だけ、少ししたら英語の時間も、慣れてきたら今度は社会の時間も加えて、といったふうに、やがて朝の会から帰りの会まで時間をここで見慣れない学友たちと過ごすのだと──そしてそれが、次の高校での生活を開くのだと──いつも心に思っていた。私が教室に行くと暖かく迎えてくれる仲のよい数人の女の子たちは、宿題や配布物についてから、最近教室であったおもしろい話まで、なにかと私のために手を焼いてくれていた。しかしおそらくは中学生という年頃は、女性たちの生涯のなかでもっともシビアな社会が形成されている時代であり、彼女たちもまたそのみずみずしい笑顔によって過酷な攻防戦を毎日繰り広げていた。そして当然、私のような不慣れな他者への手助けは、その戦いの合間にのみ許されるものだった。それに気づいた最初の頃こそショックだったけれども、数日もしないうちに、私には理解できない彼女たちの厳しい現実を思っては、自分には関係ないこととはいえ幾許かの愁いを抱いた。

 

誰にも言わずに、卒業式が望める場所から少しずつ「中学生」になろうとしていた私は、年も明けてしばらくした頃にようやく念願の、登下校を時間割通りにすることができた。この喜びは、私の姿を毎日確かめている両親にだけ報告すべきものだった。きっと私よりもずっと喜んでくれるだろうと、夕方の教室を掃除しながら思っていた。すると、当時授業のボイコットや先生たちとの喧嘩を巻き起こす中心にいたある男の子が、箒を持ってつっ立っていた私を呼んで、「一日、学校にいられたね、がんばったね!おめでとう!」と言ったのだった。

 

誰も知らないと思っていた。実際、いつも一緒にいた彼女たちも知らなかった。この不良少年は、住む世界の違う誰かをどうしてちゃんと見ていられたのだろうか。私は「理解をしてもらおうとする能動性」によって、友人たちに繋がろうとしていた。しかし私が「理解」というこのと事態を思い知ったのは、おそらくはほとんど成功しなかった私の受け身の能動性を叩き割って、「理解」してもらおうとすら思ってもいなかったあの少年が持っていた「理解をしようという能動性」を通じてだった。私は、今の今まで、あのときの彼が無邪気にみせた「理解」というものの姿をこの上なく大切にしている。

 

天気のよい週末に四種類のミントの苗を植えた。他にも、残っていたパクチークレソン、パセリ、レモンバームスペアミントとペパーミントの種を蒔いた。夜はまだ幾分冷え込むが、天気予報によれば今冬に使った衣類はもう片付けてしまって構わないと言っていたのを思い出し、4月分の種まきを決行した。週が明けてもなお春のうららかな陽気は続いていた。午前中に普通の洗濯を一度、その後すぐにおしゃれ着を洗うためにもう一度洗濯機をまわした。すべて物干しに干してしまうと、ベランダに引くために用意したホースの部品が足らないことが気になったので、簡単に日焼け止めとメイクを施して、近所のホームセンターに向かった。ここに来るのは多分、3年振りではないだろうか。いかにも田舎のホームセンターといったような薄暗い照明のもとに、平日の午前中に予定のない人々──観察するでもなく見ていると、広い店内を当て所もなく漂うような人々の身元のわからなさが、是非とも彼らを登場人物とした小説を書かなければならないような気にさせた──がフロアを浮遊する姿は間もなくそこを非現実的な空間と変えていく。勿論、私もそれに荷担する一役を担っているのだが、それが輪を掛けてどこかの現代演劇的効果をもたらしていた。

 

必要があったホースを少し余分に10mほど買って、それから赤と黄と橙のミニトマトの苗を全部で8株、ローズマリーを2種、ミントを7種、それから朝顔の種を一袋購入した。多年草のものは、水の管理さえうまくできれば冬を越える。私の場合、水の管理ができるということは、自分の体調を最低限良好に保たねばならないことを意味する。そのためにも、家のなかに自分以外の生物があるというのは望ましいように思われた。上を見上げたまま足下の道を見失うことがないようにするためには、「他者」の存在ほど有効なものはない──上記で想定していなかった「自己の理解」というものについては、きっとここに鍵がある。

 

しかるに人間は、ふだんは自然をたんに感官をつうじてのみ知るのだが、自己自身についてはたんなる統覚をつうじても認識するのである。しかも〔統覚の〕諸作用と内的な諸規定において認識するのであり、それらは感官の印象に数えられるわけにはいかない。そして、人間は一面では自己自身に対して現象であるのだが、しかし他面では、すなわちある種の能力に関しては、たんに叡智的である対象であって、それというのもその作用は感性の受容性にはまったく数え入れられないからである。(イマニュエル・カント『純粋理性批判』)

 

 

ホールズミント、キャンディミント、ラベンダーミント、レモンミント、イングリッシュミント、スペアミント、まだ小さい葉っぱだが霧のようにやさしい薄荷の匂いが鼻先をかすめた。

いまから10年くらい前、ちょうどこのような気候のころ、大人になった私は同じく大人になったあの不良少年と庭にハーブや花、野菜を植えた。体調が思わしくない私が、ひとりなにをするでもなく家で過ごしていても、彼はやっぱりなにも言わずに他愛もない話をしながら笑っていた。ミントに水を撒きながらふと、彼の声がききたいと思った。そして会いたいと思った。

 

 

 

 

詩人の想像力としての ¬

 
「私の感覚に現出する非感覚的なものの意味深さは、それゆえ私の感覚を震撼させる。このことについてたいそう意味深い苦情を呈する」。たまたま読んでいた書物の一隅に引用されていたミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』からの一節である。音楽や絵画、詩や小説、映画に至るまで、なぜ作品は時に「感傷的」「情感的」と批判されるのか──それには批評者の「生理的な嫌悪感」以上に真っ当な理由があるのだろうか。そんなことを何年にも渡って考えるともなく思っていた私にとって、セルバンテスの慧眼を示すこの一節は、なにかとても重要な意味を持っているように聞こえた。
 
 
その一節を何度も頭のなかで反復しながら、なかなか脱することができない鬱状態とそれに起因する体調不良に牛耳られた日々を今日までもなお漂っている。鬱状態や体調不良には、未だ己に降りかかっているその現象を対象として思考することもままならない状況であることが含意されている。しかしながら、健康と病というものの区別を客観的に捉えようとするならば、それは如何なる形で可能なのか。肉体の病や怪我などは、文字通り客観的に観察可能であり──生物学的に確認することができ──そのために異常のある局部に直接的、間接的に手を施して改善を促すことができる。一方で、神経や精神といったほとんど視覚的には対象化し得ない部分に生じた病の場合はどうか。この場合、症状をもとに生物学的=客観的な判断──病か健康か──をしてみても、なにもでてこない。なぜならば、「健康なものと病的なものとはけっして純粋に生物学的に確認されるものではなく、生物学的な価値判断を表している」(ビンスワンガー「わざとらしさ」, 『ひねくれ 思い上がり わざとらしさ──失敗した現存在の三形態』宮本忠雄/関忠盛訳, みすず書房, p. 174)現象であるためである。
 
 
われわれが見ているのは「症状」ではなく、そこから症状が生じる現存在形式の方である。(…)精神病理学においてはわれわれは、植物学や動物学あるいは生理学におけるように属や種の特殊な諸標識や機能連関の既述では満足できない。そうではなくて、そこから確認可能な個々の標識、つまり「症状」が理解される現存在形式へとそのつど立ち戻らなければならない。(L. ビンスワンガー, ibid., p. 225)
 
 
 
ビンスワンガーは、そもそも健康なものと病的なものを区別するということ自体、「一人の「個人」および個人に従属する生物学的−心理学的有機体に対する人間の投企(Entwurf)」(Ibid., p. 174)から生じているのであると述べている。健康や病の判断の根本が、人間存在とはいかなるものであるかというわれわれの認識──判断──だとすれば、病を直接考えることではなく、われわれがこの「精神の宿る肉体」を人間とみなす際に、いかなる価値判断に基づいて「健康な=病んでいない」人間をイメージしているのかを──極めて専門的な方法とともに──慎重に考えてみる価値はあるだろう。
 
精神病理学の救いは現存在分析的または「人間的」考察と、論証的理論的研究との相互浸透にしか見いだされない(…)。精神病理学が、人間的世界内存在という意味での「人間」を考慮しないなら、それの諸理論構築は宙に浮いてしまうだろう。というのも、精神病理学はその際、われわれが繰り返し見てきたように、単なる言葉のレッテルで満足しているに違いないし、真に説明に値するものが何かを見もしなければ知りもしないのである。他方、これとは反対に、精神病理学が純粋に現存在分析的思考および研究に甘んじるならば、それは、それのもっとも固有の了解の投企(Verstehensentwurf)から現われてくるのであるが、この投企とは一人の「個人」および個人に従属する生物学的−心理学的有機体に対する人間の投企(Entwurf)であって、この投企からのみ健康なものと病的なものを区別する可能性が生じるのである。(L. ビンスワンガー, ibid., pp. 173-174)
 
 
 
今日は通院日のため、なかなか起き上がらない身体を引きずるように駅の方まで足を伸ばした。先週の診察日は体調が優れず、キャンセルしてしまったので随分久しぶりの通院のように感じた。自宅の周りはまだ桜が満開を少し過ぎたところといった感じだが、通りを一本南下するごとに花びらは落ち、小さな青葉が芽吹いていた。桜の季節が終われば、夏まではあっという間だ。そして、足早に過ぎる季節を捉えようとするかのように、葵祭から祇園祭まで、この街では様々な祭が催される。そういえば、昨晩もどこからかお囃子が聴こえていた。
 
 
診察が終わり、薬局で薬をもらってから、花粉症用の薬を買いにドラッグストアへ寄った。たまたま薬剤師が昼食のために出ていて、30分以降にしか戻らないとのことだったので、当てもなく周辺を歩くことにした。とは言え、体調もあまりよくないし、なにか見たり買ったりする意欲も尽き果てている。結果的に、日頃の運動不足を解消するためにだけただただ歩き回って、時間が経つのを待った。歩きながら考えていたのは、今年もまたベランダ菜園でバジルとミント、プチトマトとパクチーを沢山育てようということと、プランター10個分の水やりをジョウロだけでやるのはなかなか大変だったから策を練らねばということだった。
 
 
そして私がこんなにもくだらなく健やかなことについて思いを馳せている最中に、「小保方氏、13時から会見」という速報がいくつかのニュースサイトや新聞社から立て続けにメールで届いた。会見の様子は各方面へ、さまざまな経路を通して生中継されていたようだったが、見なくても大体の顛末は想像がついた。タモリさんではないが、こういう会見には「やる気のあるやつ」が必ずやある一定数紛れ込んでいて、マイクを握った途端にご披露し始める無行儀な鬱陶しさと身勝手な正義感を振りかざす。槍玉にあげられた人間が廃忘怪顛するのを喜ぶかのようなその言動をみて、ヤル気というのは、攻撃と正義の分別すら付かなくさせる背理を持つ脳内麻薬であることを改めて確かめるのだった。会見などによって明らかになるものなど、そもそも明らかになる必要もないものだとすら思いたくなる。(新入生、新社会人の皆々様、やる気などという胡散臭い代物などさっさと棄てて、ぜひとも真に成すべきと思うこと見極めてください──「やる気のなさ」は実に多様であります。)
 
 
 
 
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薬剤師が帰ってくるころを見計らって再びドラッグストアを訪れると、小さなおじさんがレジの奥に立っていた。ほとんどの店員が若い女性や小綺麗にメイクをした妙齢の女性なので、視界のなかでどことなく浮いた印象を与えたそのおじさん店員に薬がほしい旨を伝えると、すぐに表情を変え、別な店員から私が第一類医薬品を購入するために待っていたことを伝えられていたのであろう対応をしてくれた。簡単に薬の説明を聞いてから代金をレジの横に置いた。しかし私が代金を聞き間違えたのか、実際に払うべきより3円足りなかったので、再度財布を開いてみたが、一円玉はもう残っていなかった。その様子に気づいたおじさんは、ポケットからさっき食べた昼食代のおつりだろうか、一円玉を三枚取り出して、笑顔で目配せをしながら不足分を補ってくれた。そしてちょうど500円になったお釣りをもらいながら私が恐縮していると、「随分長らくお待たせしてしまって・・・」とおじさんも恐縮したような笑顔で言って、背面にあるひきだしから今し方購入した薬の試供品を束で手渡してくれた。こんなに沢山いいのですか?と言う私に、おじさんは「ちょっと待っててな」とさらに別の試供品を取り出して、「これ、元気になるからね」と錠剤タイプのビタミン剤を手渡してくれた。店の前でぼーっと立っていた私は、随分疲れて見えたのだろうか。「ありがとうございます」と何度か頭をさげて店をでた。
 
 
帰り道、花屋が目に入ったので立ち寄った。小さな店内には、入荷したばかりなのであろう立派なクリスマスローズの束がおかれていた。手持ちの花器を一つずつ思い返しながら、この花が十分に美しく生けられる器が拙宅にあっただろうかと考えたが、こんなに豪勢なクリスマスローズに似合うものはやはりなさそうだった。代わりにいつも使っている小さなシルバーの花器がよく合いそうな黄色いガーベラを二輪と、今年の夏のためのミントを四種類──スペアミント、アップルミント、オレンジミント、パイナップルミント──購入した。去年もこの花屋でミントの苗を買って、大層大きく育ったのだ。今年もきっとベランダの窓辺に置いたプランターから爽やかな風を部屋のなかへ吹かせてくれるだろう。そしてふと、カラーを美しく生けるための花器があればいいなと思いながら、両手に荷物をたくさん下げて家まで歩いた