和太多的太陽花, 這是一場盛大的戰事
日本では桜が街角や公園からテレビのニュース、そしてウェブサイトまで、あちこちで美しい花を見せているが、ここしばらくfacebookをひらくと日本の桜に混ざって台湾のヒマワリとカーネーションが花を咲かせている。
2013年6月に台湾中国間で調印された「サービス貿易協定」に反対する学生を中心としたデモ隊が、先月23日に日本の国会に当たる立法院の議場を占拠、さらには日本の内閣に相当する行政院にまで突入する事態となった。このデモは今もまだ続いており、そして周知の通り、中国(Main China)と台湾の微妙な関係性もまた、何十年にも渡って続いている。その一方で、われわれ日本人にとっては気候も人々も暖かい観光地として、また震災の復興を支えてくれる力強い隣国として、ここ数年は特に馴染み深い台湾だが、そこに暮らす人々が中国、そして日本を含む近隣のアジア諸国に対して如何なる歴史観政治観を持っているのかを知る機会は驚くほど少ない。今回のデモ活動は日頃ヴェールに隠されていた台湾の人々のナショナリズムや対外的な危機感の実体を世界に向けて躊躇なく顕す機会となっている。
私のfacebookの「フレンド」のおおよそ半数、実際の友人の数でも大体三分の一は台湾人、あるいは外国籍を持つ台湾在住者である。なかでも、10年来の友人である二人の友人が、このヒマワリ学生運動について地べたからのレポートやニュース、日々の日記をfacebookなどを通じてリリースしている。そのうちの一人は、シカゴ大学から研究員として派遣され台湾の歴史学的調査を行っているアメリカ人研究者であり、もう一人は春休みを利用して台湾に帰省している東京大学在学中の情報科学系の大学院生である。両者ともに私の高校時代のクラスメイトであり、その当時から大変聡明で愛される個性を持った魅力的な女性であった。
両者ともに英語と中国語に堪能であるため(加えて前者の彼女は台湾の専門家でもある)、方々のニュースに目を通しながらもどかしさを超えた怒りとともに度々 "English translations are behind the Chinese news, unsurprisingly" と attention を投げかけている。特にアメリカ人の彼女は、連日、仕事の傍らで米英のニュースが伝えない中国語で書かれた台湾のニュースのいくつかを英語に翻訳し続けている。(それをみていると伝えるべきことをどれだけ伝えているのかということの関しては、恐らく日本の新聞もこの場合BBCやCNNと大差ない。そしてもちろん、福島の原発事故が世界にどのように報道されているのかを想像せずにはいられない。)最新のものをふたつほど、以下に転載する。
Status update from C[名前は省略], one of the coordinators inside the Legislative Yuan.
"In the Legislative Yuan for two weeks now, I haven't really had a chance to use a computer and have little time to write anything. On the rare occasions when I have a chance to write something, I often get bogged down in a long stretch of writer's block.
These days, every day we facing an explosive volume of messages, and spend them taking care of things that come up suddenly - the overt and covert offenses Ma and Jin take, managing affairs inside and outside of our organization. Feeling all kinds of powerlessness and like we're being dragged around.
Here, we feel faint-hearted when facing mechanisms of the state, shame when facing our compatriots, weakness when facing our responsibilities, dread when facing power, and unease when facing the system of policy making.
Even so, with all these difficult problems wrapped up together, when we wake up, we still need to continue moving forward.
This is the site of a grand battle. Not only regarding the economy and our nation. Even more importantly, it is a harsh refining process that tempers us to understand how, in the midst of it all, we hold on to the essentials of being a "person."
The sky is light again, my friends.
No matter what, despite bearing these wounds, I look forward to us standing together side by side at the finish line."
Translation errors all my own.*(以下、原文)在立院兩個禮拜,沒什麼機會用電腦,能寫東西的時間很少。難得有機會寫點東西,也往往陷入漫長的失語。 這些日子,每天都在面對各種爆炸的資訊量,和大家一起處理各種突如其來、馬金或明或暗的攻勢,梳理團體內外的關係。感到各種無力 和拉扯。
這裡有面對國家機器的怯懦、對同志的愧歉、對責任的軟弱、對權力的畏懼、對決策機制的不安。
然而所有這些無解的難題攢在一起,醒來還是必須向前。
這是一場盛大的戰事。不僅面向資本與國家。更重要的,是對我們如何在其中守住作為一個「人」的根本底線的嚴苛試煉。
天又亮了,我所有的夥伴。
無論如何,儘管帶著傷口,期待我們還能在終點並肩。
彼女が度々紹介する、TaiwaneseAmerican.org | Highlighting Taiwanese America というサイトはこの件に関しても頻度の高い更新でレポートを続けている(参照:[UPDATED] Taiwan’s Sunflower Student Movement)。興味のある方は以下も参照;
* A Poem for #CongressOccupied Protesters in Taiwan · Global Voices
* China Policy Institute Blog » Debunking the Myths About Taiwan’s Sunflower Movement
読むともなくクリックしながらサイト間を移行していると、立法院に座り込む若い人々の顔が現れた。写真論で教え込まれた手法に則って何枚かの写真を眺めた。そうして、いまヒマワリを持って台湾の土地で学生運動をしている彼らは「だれ/どんなひと」であって、如何なる危機を前にしているのかを、私がかつてすれ違ってきた友人知人たちの境遇と照らし合わせたりしながら、思っていた。今日でもfacobookで通じ合う台湾の友人は、皆欧米のパスポートを持っている。そしてそのほとんどの場合、ヒマワリ学生運動への関心がアメリカやヨーロッパでの自身の生活──週末の予定、結婚、パーティー、引っ越し──についての関心を凌ぐことはない。同じ「台湾人」でも、台湾のパスポートを──台湾のパスポートしか──持っていない人々と、それ以外の信用のあるパスポートをもっている人々では、対峙しなければならない歴史も境遇も、そして将来も、きっとまったく違うのだろう。
深き瑞々しさを湛えた最良の部分
飼い猫を連れての一時帰国をしている両親から段ボール4つ分の届け物があった。一つは発泡スチロールの箱で、そこには冷凍の魚がいっぱいに詰め込まれていた。もう一つの箱にはが豚の角煮ときんぴらゴボウ、ふきの煮物、キャベツの甘酢漬けなどの私が好きな母の手料理とバナナやアボカド、伊予柑などの果物、そして残りの二箱には父からの届けもので、中央公論社の世界の文学が隙間なく詰め込まれていた。増税直前、宅配業者は大変な繁忙期であり、よくうちに届けてくれる顔なじみの若いお姉さんもいつもより少しだけ疲れている様子だった。それでも荷物の取り違えもなく、荷物の一つ一つを指定された場所と時間にしっかりと届けてくれるのは、さすが日本のお国柄といった感じである。
前回だったか、前々回だったか、両親が帰国をした際に、機内上映されていた映画『華麗なるギャツビー』(2013)を観たと母からメールがあった。映画自体が特におもしろかったわけではないが、映画を観たあとに書店で見かけた本の冒頭に目を通したら、中学生か高校生かの頃の私が思い起こされて仕方がなかったと、そのメールには書いてあった。「あの頃の〇〇ちゃんは、こういうことを考えていたのでしょうか」──と書く母はきっとその頃の私が毎日何を考え、何を感じているのか、日に日にわからなくなっていくと感じていたのだろうと、私は思った。今となっては脆弱な私の心身と海を隔てた距離の所為もあって互いに対立する余裕もないが、その昔──私が一番健康だった頃──、母と私はとても仲が悪かった。何をしても刺すような目でみてくる母を私は耐えられなかったし、母としても彼氏などをつくって週末はどこかで夜通し遊び歩いている私の素行を心配と嫌悪が入り交って相乗する思いで私をみていたのだろう。お陰で、私は一人暮らしを始めたとき、そんな重苦しい実家から解放されたことでまったくホームシック知らずの日々を送った。だが思えば、両親と暮らすことなどもしかするとこの先もう二度とないのかもしれない。
僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。
「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」
父はそれ以上の細かい説明をしてくれなかったけれど、僕と父のあいだにはいつも、多くを語らずとも何につけ人並み以上にわかりあえるところがあった。だから、そこにはきっと見かけよりずっと深い意味が込められているのだろうという察しはついた。おかげで僕は、何ごとによらずともものごとをすぐに決めつけないという傾向を身につけてしまった。そのような習性は僕のまわりに、一風変わった性格の人々を数多く招き寄せることになったし、また往々にして、僕を退屈きわまりない人々のかっこうの餌食にもした。このような資質があたりまえの人間に見受けられると、あたりまえとは言いがたい魂の持ち主はすかさずかぎつけて近寄ってくるのである。(スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』村上春樹訳, 中央公論新社, 2006, p. 9-10)
フィッツジェラルドの The Great Gatsby(Charles Scribner's Sons, 1925)は高校生の頃に原著で、二十歳前後に守屋陽一訳の『華麗なるギャツビー』(旺文社文庫,1978)を、そして学部在学中にでた新訳『グレート・ギャツビー』(村上春樹訳, 中央公論新社, 2006)を何となく読んだが、最後に読んだのが殆ど10年前のことで、しかも──母の映画に対する感想ではないが──過去3度も読んでいた割に、その度にこれと言った感銘も受けず、ほとんど記憶も感想もなく読み流していたようである。そしてどうやら、サリンジャーの The Catcher in the Rye(1951)の一部の場面が The Great Gatsby と混ざりあっているようで、ギャツビーの豪勢な自宅のプールを思い出しては、突如として「池のダックはどこにいっただろうか」などと考え始めた。同じニューヨークとはいえ、ギャツビー邸はロングアイランド、ホールデンがいたのはセントラルパークだったことを、ゆっくりと記憶の糸をほどくようにして思い出した。しかし、物語についての記憶がいくら混濁していようとも、かの有名な書き出しだけは、そのページを写真イメージのように思い出せるほどだった。母が読んだのも、おそらくこの冒頭の数ページだろう(ただし、母は村上春樹が嫌いなので、おそらく光文社の小川訳で読んだのではないだろうかと思う)。
そんなこんなで大学時代には、食えないやつだといういわれのない非難を浴びることになった。それというのも僕は、取り乱した(そしてろくに面識のない)人々から、切実な内緒話を再三にわたって打ち明けられたからだ。僕にしてみれば、そんな役回りを何も進んで求めたわけではない。そろそろ腹を割った打ち明け話が始まりそうだなという、いつもながらの徴候が、地平線にほの見えてきたときには、しばしば居眠りを装ったり、何かに没頭しているふりをしたり、あるいはからかい半分で相手につっかかっていったりしたものである。若者の告白などというものは、あるいは少なくともその手の表現に用いられる言語は、おおむねどこかからの借りものだし、明らかに抑圧によってゆがめられているものだからだ。判断を保留することは、無限に引き延ばされた希望を抱くことにほかならない。父が訳知り顔で述べ、僕がまた訳知り顔で受け売りしているように、人間の基本的な良識や品位は、生まれながらに公平に振り当てられるわけではない。そしてもしそのことを忘れたら、ひょっとしてひどく重要なものを見落としてしまうのではないかと、僕はいまだに心配になってしまう。
(Ibid., p. 10)
柔らかい雨が落ちるなか郵便物を出しに下におりると、雨天にもかかわらず向かいの花畑は沢山の花をひろげていた。雨粒はひとがいない日曜日に、緑化係に変わってプランターの花々に水を注いでいるようだった。音色が聞こえてきそうな花々の風景につられて近寄ってみると、初めて見る花があった。桜のようだが、ソメイヨシノよりの倍ほどはある薄紅の花びらが、文字通り満開となっている小さな木。もっと近づいてみると、根元に添えられた名札が「アーモンドの木」と名乗っていた。アーモンドの花がこんなに桜に似ているなんて、思いもよらなかった。アーモンドの和名は扁桃だから、この木はまさしく「桜桃」と呼ぶべきものなのだ。そんなふうに驚いてみせる私を、横からイチゴの見張り番のうさぎさんが笑っていた。
二冊あったはずの単行本の『スペインの宇宙食』が一冊しか見当たらず、気になりながらも、実家の書架から抜いてきた中原中也全集の半分を見つけ出し、小さな段ボールに詰めた。次回の両親の帰国は来月末と聞いたので、初旬にある母の誕生日のためのプレゼントを同じ箱に入れて送ることにした。数ヶ月前に母が喜びそうなちいさなピアスを見付けて買っておいたものだった。合わせて小さなメモを入れてからガムテープで封をして、近所のコンビニではなく、もう少し先のコンビニまで散歩がてら歩いたところで、実家宛に荷物を出した。その間、頭にあったのは十余年振りに帰国した飼い猫のことだった。私たち家族が海外移住した際、その少し前に妹によって拾われてきた二匹の猫のうち一匹は、日本の地を再び見ることなく約二年前に亡くなった。だから、今回の帰国は一匹だけの長旅だった。老体が長時間の空の旅に耐えられるか、誰もが心配せずにはいられなかったが、無事に生きて成田空港に降り立った。しかし猫にしてみれば、それこそ本当に「日本異国論」の気分だろう。
〈昼間からすっ裸のガールフレンドは、起きたばかりの僕の隣で「いいとも」を見ながら「ねえ? タモリも死ぬときがくんのかなあ? 来るよね? あたし、信じられない」と言った〉
(菊地成孔『歌舞伎町のミッドナイト・フットボール──世界の9年間と、新宿コマ劇場裏の6日間』小学館, 2004, p. 40)
菊地成孔の「すっ裸のガールフレンド」の科白を初めて読んだ数年前、それは『歌舞伎町ミッドナイト・フットボール』を通じてもっとも衝撃をうけた科白だった。あまりに印象的だったから、私はそのフレーズを度々思い出してきた。そしておそらくは思い出す度に、そのフレーズのある風景を私なりに脚色していたらしく、久しぶりに本を開いて、菊地成孔によって書き綴られたその「タモリ」の話を改めて読んでみると、私の記憶よりもずっと簡素なものだった。この科白を読む以前、私はタモリがいつか死んでしまうなんてことを考えたこともなかったから、〈いつか死ぬのかなあ?〉なんて言われたら、「いいとも」はその日からいったいどうなるのだろうか、「いいとも」をいつも何気なくみているひとはどうなってしまうだろう──そんなことを気づけば何度となく考えていたのだ。
だから「いいとも」の終わりは、ある意味で、私が想定していた最悪の事態を巧妙に免れる唯一の方法であるように思われた。そして、もしかするとタモリさんがここ何年も考えていたことの一つは、自分の死と番組の終わりを関係づけてはいけないという、エンターテイナーの美学だったかもしれないと思った。役者が舞台上で泉下の客となることは美学であるが、コメディアンの場合はそうではない。笑いの熟練工たちは、実のところ役者やアイドルよりも鮮血や生命の鼓動を鑑賞者にみせてはならない存在なのである。それは、他でもなく繊細な「笑い」の存在論と「笑い」という人間の社会的機能によって運命づけられた崇高な定めである。またその反面、笑いはその多くを「想像力」に因っていると言えるかもしれない。そういえば、松岡正剛もこんなことを言っていた。
僕が思うに、タモリはテレビ界の村上春樹。(…)春樹の文学っていうのはマスター文学です。つまり、マスターがカウンター越しに客と接するように、春樹文学の登場人物は互いに一定の距離を保ってコミュニケーションしている。 これはタモリが『いいとも』で見せていた司会のスタンスとよく似ています。さらに村上春樹は作家として、シーンの断片を通じて出来事を暗示させる能力が非常に高い。会話から入って、明確に言及しないのに何らかの出来事を読者にイメージさせる。タモリも『寿司将棋』のように、『二二玉』って言うだけで、そこに物自体がなくても将棋の全体が寿司を通じて見えてくる。互いに才能の本質が暗示力にあって、そのものずばりといった表現をしない人たちなんです。
(松岡正剛「INTERVIEW1 タモリとはナポリタンだ」, 『ケトル』太田出版, Dec. 2013, Vol.16, p. 18)
うさぎとヴェールに残酷で愛のこもったお別れを
書き物に無駄なものが多く混ざり過ぎていたのを感じてしばらく書くのをやめることにしてから、外の空気は随分と暖かくなった。相変わらずの日々が続いている私にも、この三寒四温のペースくらいには変化が起きていますようにと、言もなく静かに祈り続けている。日々、大きな変化は見えないけれど、いつの間にか寒さは忘れさられ、春風に揺れながら花々が街路を飾る。そういうふうに積もりゆく微細な変化は、根がしっかりとガイヤに結ばれた頼もしく揺るぎない現実となる。出世魚のごとくウサギ(Conejo)の名を脱ぎ捨てて、桜の花を咲かせるようにここのプロフィールを変えてみれば気分もいくらか開花の調べにそよいだ気がした。
かわいそうに、かわいそうに〔mon pauvre, mon pauvre〕、ヴェールと決着をつけることはつねにヴェールの動きそのものであったことになってしまうのだ。つまり、〈ヴェールを剝ぐ=非隠蔽化する〉、〈自己のヴェールを剝ぐ=自己を露わにする〉という〈ヴェールの剝奪=非隠蔽化〉において、ヴェールを再肯定してしまうということなのだ。ヴェールは〈ヴェールの剝奪=非隠蔽化〉において、自己自身と決着をつける。そして、自己の〈ヴェールの剝奪=非隠蔽化〉において決着をつけることをつねに目指しているのだ。ヴェールと決着をつけること、それは自己と決着をつけることだ。君はそのようなことを審判に期待しているのだろうか?(エレーヌ・シクスー「サヴォワール」,『ヴェール』郷原佳以訳, みすず書房, 2014, p. 40)
しかし私は少しも消尽してなどいない。私は、私自身は実に若いのだ。まるでまだ自己の名を口にしてさえいない復活の前夜であるかのように。あなたはまだ私を私の名で知ってはいない。私はただヴェールに飽きているのであって、ヴェールの方が私のために、私の代わりに〔à ma place: 私の位置で〕消尽しているのだ。ヴェールは私の名を盗んだのだ。(ジャック・デリダ「蚕」, ibid., pp. 67-68)
というのも彼女は信じられないような知らせを聞いたからだ。科学が打ち勝てないものに打ち勝ったという知らせを。それは十分で終わった。終わりなき女王の終わり。三年前にはまだ不可能だった可能性。(…)不可能なことはすべて可能になるだろう、ただ千年と待ちさえすれば。彼女は幸運にも、生きているうちにこのことを知った。彼女自身の星の逆転だ。この日まで彼女はたえず、宿命に従順に、自分の種の洞窟で生きてきた。彼女は生まれながらにして囚われの身であり、月の住人だった。他の人たちはみな自分の翼をもっていたのに。彼女には、自分の定めを変えられるなどということは一度として思い浮かんだことがなかった、いったん泥土の上へ流された血が、再び静脈をさかのぼることはない。誰もけっしてアイスキュロスに逆らわなかったことになるだろう。ところがほら、血はさかのぼったのだ。彼女は生まれ変わった。(エレーヌ・シクスー「サヴォワール」, ibid., p. 15)
桜桃
二週間ぶりの通院。ここのところ二回に一度はベッドから起き上がるのにも小一時間は掛かかってしまうほどに体調が優れず、やむなく病院の予約をぎりぎりになってキャンセルしている。先週もまた起床の時間になってもベッドのなかで身動きひとつとれず、病院にキャンセルの電話をいれるのもやっとであった。しかし、身体の調子も透明なほど健やかな朝には、病院までの散歩も心地よく路肩に季節が入れ替わるのをみつけては、自然と新しい季節にまつわる思い出に心を委ねる。幸せなことに、今週の通院日はそんな一日と重なった。
病院に到着すると、月末の診療時間終了間際ということもあって待合にもほかの患者がひとりもいなかった。そして必然的にほとんど到着と同時に診察室に呼び込まれた。こういう日はいつものように穏やかな主治医と通例の面談時間よりも幾分長く話をする。いつもはここ一週間の変化を報告したり、問題があればその対処法についての助言をもらったりするので診療時間を使い果たすのだが、隣り合う待合室に次の順番を待つ者がないときには、より巨視的な、あるいはより根本的な私の不安や問題についてゆっくりとことばを紡ぐ。たとえば、鬱状態のときが補完する躁病相の疲労をいかに減らすことができるかということや、けれども躁状態のときに活動を抑制するようなことはしたくないということ、それから家族メンバーとどのように付き合うかや来年度の具体的な予定についてなど、どれも主治医としか話し合うことのできないものであるから、診察室を出たあとはぐっと心身が軽くなる。
アキ・カウリスマキ監督『ル・アーヴルの靴みがき』(2011)を鑑賞。第一に、想像していたものとも、また鑑賞後に覗いたウィキペディアが謳う「コメディ・ドラマ映画」の文言とも、まったくかけ離れた作品だった。カウリスマキの作品を観たのはこれが初めてなので憶測にしか過ぎないが、例えば『ラ・ピラート』(1984)や『ポネット』(1996)のジャック・ドワイヨンや『汚れた血』(1986)や『ポンヌフの恋人』(1991)のレオス・カラックスなどが時にポスト・ヌーヴェルヴァーグと称されるとすれば、アキ・カウリスマキはヌーヴェルヴァーグ2.0といった印象だった。
手法的なことを言えば、トリュフォーの代名詞でありヌーヴェルヴァーグを象徴する技法のひとつでもあるストップモーションや(役者の)カメラ眼線が多用されていたり、あるいは小津安二郎的なクローズアップや切り返しショットなどからの影響も多分に認められる。したがって、おそらくはゴダールやトリュフォーを含め先行するヌーヴェルヴァーグや小津作品に馴染みのない鑑賞者にとってみれば、「不自然な」カメラワークや「わざとらしい」役者の演技によって必ずや作品に対する没入の拒絶を感じることだろう。先にヌーヴェルヴァーグ「2.0」と言ったのも、作品のなかでこのような手法が昇華されるどころか一層誇張されて用いられているようにみえたためである。
映画の終盤、ラストシーンと言っていいほどのところで、主人公の老夫婦が庭に植えられた桜の樹を見上げるショットがある。桜とは言え、例えばフランス随一の桜の名所ル・ノートルのソー公園(parc de Sceaux)に咲く八重桜やソメイヨシノのように立派なものではなく、むしろ葉桜になりかけた白い花をみる限り、やがてさくらんぼの実をつけるための花のようにすらみえる。ただ、寄り添って桜を見上げる老夫婦の姿は、特に生きていながらもあたかもすでに死んだような気配すら感じられる夫人の存在によってより一層に小津安二郎監督の『晩春』(1949)や『東京物語』(1953)、あるいは『秋刀魚の味』(1962)などを彷彿とさせる。そしていくつかのレヴューが、この作品に「日本的なもの」の影響をみているのにもまた納得がいく。
他にも、1930年代から積極的に移民の受け容れを行ってきたフランスならではの問題意識の表出として、アフリカからの移民の少年や難民キャンプがこの映画の中心的な──少なくとも表上の──関心となっている。しかし、ここでも先に述べた「わざとらしさ」のためか、政治色や切迫感がほとんどまったくと言っていいほどに感受されない。例えば警察から逃げ回る黒人の少年イヴェットは、なぜかいつまでたっても帽子やマスクの類いの変装をまったくせず、警察の目につくところにのんびりと登場してきたりして、まんじりともせずといった鑑賞者の思いを「不自然さ」によって裏切り続ける。ついでに「不自然さ」についてもうひとつ敷衍するなら、主人公マルセル・マルクス(アンドレ・ウィルム)の妻が不治の大病を患ってはフィルムのなかのほとんどの時間を病院で過ごすのだが、突如完治し帰宅する運びとなって以降はますます「わざとらしい」光景の連続となる──本当のところ妻は既に死んでしまって、この映像はマルセルの悲嘆が生んだ幻想なのではないか……観る者はそう疑わずにはいられない。
そんなことを考えながら、この映画はもう一度みなおさなくてはならないと思いなおし、数ヶ月前から苦戦している書物ふたたびに向かった。ハイデッガー用語が存分にその効力を発揮していると思われる各ページの晦渋さは相変わらずだった。しかし久しぶりに読み直すと、どういうわけか前回読んだときよりは幾分意味がとれるようになっていた。しかし、半年前に勉強会で他のM1の面々と読んだマルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』よりも明らかに読みにくく、また私自身の集中力と読解力も半年前より数段落ちているのも明らかで、やっぱり文字を追うので精一杯であることに関しては相変わらずであった。おそらくこの読みにくさは、ハイデッガー流の独特な語彙だけではなく、精神医学と芸術学の要素が絶妙に織り交ぜたところで書かれた論考であるせいもあるだろう。ドイツ語らしいこの独特な文章に慣れることもだが、さまざまな理解力と感受性をできるかぎり開口して挑まなくてはならないと改めて実感した。目だけで読んでいても入ってこないため、諦めて、書き込みのためにコンビニで300ページ余りをすべてコピーしてきた。自分の蔵書であっても、私は本に直接書き込むのが好きではないため、これまでも本腰を入れて読もうとする本はみなすべて複写してきた。そんなわけで、電子書籍には今のところまったく縁がない。