de54à24

pour tous et pour personne

いくつかの理解にミントを添えて

 

12日の土曜日に、連絡がうまくいっていなかったために急ぎの手続きの必要が生じた件で郵便局へ行った。週末でも営業している郵便局は二箇所あるが、どちらも行くには同じくらいの時間がかかりそうだった。そのため、普段はあまり行かないほうで書留郵便を出すことにした。同じ散歩でも、元気なときはより知らないことが多い道を行きたくなる。一通り用事を済ませると、しかしながら、やはり抱えきれないほどの疲れを感じた。本当ならば、帰路にもいくつかある行き慣れたカフェで本の数ページでも読んでみたかったが、週末の混雑と緊張からくる疲弊が一刻も早い帰宅をせがんだので、週末の開放感を漂わせた人々の間を縫って家路へと急いだ。

 

ここのところのSTAP細胞関連の加熱した報道を前に、果たしてこれだけの時間と喧噪をこの研究に割く意義はあるのだろうかと改めて考えていた。あれやこれやの会見は一体どこに向けて開かれていて、だれが必要としていたのだろうか。そしておそらくは、半ば以上がこれといったネタがない平和で愚鈍なマスコミに焚きつけられた結果だろうと思われた。真の謝罪や究明弁明が必要な各所には、マスコミなど挟まずに対話を行うべきだし──そして、実際関係者は既にそうしているだろう──、科学的に込み入った話を聴き通すだけの忍耐のない人間たちが持ついたずらな関心が一連の騒ぎを構成している大部分であることは、先刻の二件の会見(とそれを報じる諸テレビ番組)からも明らかであった。

 

そこでひっきりなしに思い出されたのは、「難しいことは難しくしか言えない」という小泉義之先生の言葉だった。本当に難しい事実は、かみ砕いたりより分かりやすく平易な言葉に置き換えることは決して出来ない。換言や説明によって事実そのものがねじ曲げられる恐れがあることを忘れてはならない。だからこそ、われわれは一冊でも多くの本を読み、勉強する必要があるのだ。

 

私にとってもはやSTAP細胞はここしばらく──少なくとも今年中は──どうでもよい話であったし、加えて先頃別件で電話を寄越した母が、STAP細胞の話を振った途端に「論文をちゃんと書けない人の研究だもん、なんかどうでもよくなっちゃった」と吐き捨てていたので、それもまた真っ当な一般社会の意見だろうと思われた──そしてもちろん、なるほど血は争えないとはこういうことかと思ったのだった。私の関心の中心は寧ろ、人々の間に蔓延る「理解」というものの存在であった。小泉先生の言うように、難しいことは難しくしか言えないのならば、一般社会に向けられた専門家による会見など、そもそもお茶を濁すためか、さもなければフロイト的欲望を云々してみせる他にはその意義はない。ソーカル事件を心のどこかで思い出しながらもなお、優れて高度な科学技術を取り巻く事情を、「わかりやすく」など言表できるわけがないと私もまたその意見に強く賛同した。

 

ある科学(技術)的な現象を「わからない」という者があるとしても、その場合他でもなくその無知にこそ不勉強の誹りが向けられて当然である。取りも直さず、「われわれの話がわかるようになってから、また話をききにきなさい」──こういったある種の圧倒的外圧によってのみ私たち(文系学徒)は導かれているようなものなのだ。

 

「理解」ということは、それだけで半期の講義が成立しそうなほど、それこそ種々様々な方面で研究が続けられている。日々の生活からかけ離れた研究だけではなく、おそらくは外交問題から人々の日常生活に根差す対人関係の悩みに至るまで、この「理解」というものが司っている範疇は広大である。私が件の会見を見聞き(流し)ながらとめどなく「理解」について思いを馳せていたのは、私自身がそれ以前に「理解」を巡るいくつかの事象に心を砕いていたからに違いなかった。つまり、私が持病に関して、他者へ求めるべき「理解」とはどれだけの大きさで、どのような質をもったものであるべきか──あるいは、ありえるか。

 

とはいえ、この間主観的な「理解」という事象によって生じる自他間のネゴシエーションが、私と相手を含む環境をいかに変えるのかという問題は、今よりもずっと無明な十代の時分のほうが私にとって枢要なものであったように思う。それは、私が誰か他の人々に対して今よりずっと多くの期待や望みを見ていたからであり、また理解を求めることによる摩耗が生んだ無関心という自衛と全く無縁であったためだろう。十余年前の自己など、眼前の他人よりもずっと得体の知れぬものであるのだが、このような説明──あるいは、「理解」──は、大きく的を外してはいないように感じられる。

 

病や障害を持って生きるということは、なにも特別なことではない。しかし同時に、病や障害が原因となってなにかができないということは、広い意味で潤滑な社会的な営みが阻害されることを意味する。なにかができないということが、どれほどの重圧となるかは、難しいことは難しくしか語れないのと同じように、その状況を生きてみない限り完全には分からない。そして、経験主義を叫ぶつもりは毛頭ないが、それでもなお想像力──そして、「理解」──の非力さの実感を認めないわけにはいかない。(想像力に対するこの歯がゆさこそ、まぎれもなく人文科学の糧でもある。)

 

ある人間の人生は、どのような形にせよ他者に対して意味を持つ。したがって、ある人間の人生の中から、他者との連関をまったく欠いた、それだけで自足しているような意味をみつけようとする試みは、徒労に終わるほかない。(ノベルト・エリアス『死にゆく者の孤独』)

 

 

久しぶりに登校した小学生、そして中学生の私は、学校の教室に張り巡らされたコード──日々を教室で過ごしている学友たちには不可視的なコード──に戦々恐々とした。2限目の授業はなにを提出しなくてはならないのか、休み時間はどこへ居るべきなのか、給食はどのように配膳され片付けられるのか、掃除の時間はどのように床を拭くのか、云々。毎日のことならば考えるまでもなく右から左へ片付けるようなことが、「毎日のこと」ではない者にとっては、当然そうではない。いわば「よそ者」は、大多数が無意識に取り仕切る動作によって創り出されているルールを必死で見極めなければならない。この社会からこれ以上疎外されることがないように極めてさり気なくその場を構成するルールやコードを見つけ出し、真似をしてみせることを強要されている。この強要はすなわち、「私はあなたがたにとって脅威や危険ではないですよ」ということの表明の強要である。

 

多くの人々とは「違う」身ぶりや行動で、バスや電車に乗っているひとを思い出してみればいい。その時、あなたはなにを思うだろうか?その一瞬の思いが、誰かを疎外する力になっていることを、想像したことがあるだろうか?──おそらく「理解」ということを考えるときに、最も重要な項目が、この排除しようとする力と組み込まれようとする力の間に働く政治的駆け引きなのだ。そして、難しいことは難しくしか語れないというのは、組み込まれる方が持つ微量な力を最大限に擁護しようとする意思である。

 

卒業間近となった中学三年生のころ、まったくの不登校児であった私は誰に言うこともなく、少しずつ教室で過ごす時間を増やすために、「普通の中学生」へと復帰しようと吐き気や震えを汗ばむ冷たい手でそっと握りつぶしながら3年6組が存在する場所へ足を運んだ。初めは国語の時間だけ、少ししたら英語の時間も、慣れてきたら今度は社会の時間も加えて、といったふうに、やがて朝の会から帰りの会まで時間をここで見慣れない学友たちと過ごすのだと──そしてそれが、次の高校での生活を開くのだと──いつも心に思っていた。私が教室に行くと暖かく迎えてくれる仲のよい数人の女の子たちは、宿題や配布物についてから、最近教室であったおもしろい話まで、なにかと私のために手を焼いてくれていた。しかしおそらくは中学生という年頃は、女性たちの生涯のなかでもっともシビアな社会が形成されている時代であり、彼女たちもまたそのみずみずしい笑顔によって過酷な攻防戦を毎日繰り広げていた。そして当然、私のような不慣れな他者への手助けは、その戦いの合間にのみ許されるものだった。それに気づいた最初の頃こそショックだったけれども、数日もしないうちに、私には理解できない彼女たちの厳しい現実を思っては、自分には関係ないこととはいえ幾許かの愁いを抱いた。

 

誰にも言わずに、卒業式が望める場所から少しずつ「中学生」になろうとしていた私は、年も明けてしばらくした頃にようやく念願の、登下校を時間割通りにすることができた。この喜びは、私の姿を毎日確かめている両親にだけ報告すべきものだった。きっと私よりもずっと喜んでくれるだろうと、夕方の教室を掃除しながら思っていた。すると、当時授業のボイコットや先生たちとの喧嘩を巻き起こす中心にいたある男の子が、箒を持ってつっ立っていた私を呼んで、「一日、学校にいられたね、がんばったね!おめでとう!」と言ったのだった。

 

誰も知らないと思っていた。実際、いつも一緒にいた彼女たちも知らなかった。この不良少年は、住む世界の違う誰かをどうしてちゃんと見ていられたのだろうか。私は「理解をしてもらおうとする能動性」によって、友人たちに繋がろうとしていた。しかし私が「理解」というこのと事態を思い知ったのは、おそらくはほとんど成功しなかった私の受け身の能動性を叩き割って、「理解」してもらおうとすら思ってもいなかったあの少年が持っていた「理解をしようという能動性」を通じてだった。私は、今の今まで、あのときの彼が無邪気にみせた「理解」というものの姿をこの上なく大切にしている。

 

天気のよい週末に四種類のミントの苗を植えた。他にも、残っていたパクチークレソン、パセリ、レモンバームスペアミントとペパーミントの種を蒔いた。夜はまだ幾分冷え込むが、天気予報によれば今冬に使った衣類はもう片付けてしまって構わないと言っていたのを思い出し、4月分の種まきを決行した。週が明けてもなお春のうららかな陽気は続いていた。午前中に普通の洗濯を一度、その後すぐにおしゃれ着を洗うためにもう一度洗濯機をまわした。すべて物干しに干してしまうと、ベランダに引くために用意したホースの部品が足らないことが気になったので、簡単に日焼け止めとメイクを施して、近所のホームセンターに向かった。ここに来るのは多分、3年振りではないだろうか。いかにも田舎のホームセンターといったような薄暗い照明のもとに、平日の午前中に予定のない人々──観察するでもなく見ていると、広い店内を当て所もなく漂うような人々の身元のわからなさが、是非とも彼らを登場人物とした小説を書かなければならないような気にさせた──がフロアを浮遊する姿は間もなくそこを非現実的な空間と変えていく。勿論、私もそれに荷担する一役を担っているのだが、それが輪を掛けてどこかの現代演劇的効果をもたらしていた。

 

必要があったホースを少し余分に10mほど買って、それから赤と黄と橙のミニトマトの苗を全部で8株、ローズマリーを2種、ミントを7種、それから朝顔の種を一袋購入した。多年草のものは、水の管理さえうまくできれば冬を越える。私の場合、水の管理ができるということは、自分の体調を最低限良好に保たねばならないことを意味する。そのためにも、家のなかに自分以外の生物があるというのは望ましいように思われた。上を見上げたまま足下の道を見失うことがないようにするためには、「他者」の存在ほど有効なものはない──上記で想定していなかった「自己の理解」というものについては、きっとここに鍵がある。

 

しかるに人間は、ふだんは自然をたんに感官をつうじてのみ知るのだが、自己自身についてはたんなる統覚をつうじても認識するのである。しかも〔統覚の〕諸作用と内的な諸規定において認識するのであり、それらは感官の印象に数えられるわけにはいかない。そして、人間は一面では自己自身に対して現象であるのだが、しかし他面では、すなわちある種の能力に関しては、たんに叡智的である対象であって、それというのもその作用は感性の受容性にはまったく数え入れられないからである。(イマニュエル・カント『純粋理性批判』)

 

 

ホールズミント、キャンディミント、ラベンダーミント、レモンミント、イングリッシュミント、スペアミント、まだ小さい葉っぱだが霧のようにやさしい薄荷の匂いが鼻先をかすめた。

いまから10年くらい前、ちょうどこのような気候のころ、大人になった私は同じく大人になったあの不良少年と庭にハーブや花、野菜を植えた。体調が思わしくない私が、ひとりなにをするでもなく家で過ごしていても、彼はやっぱりなにも言わずに他愛もない話をしながら笑っていた。ミントに水を撒きながらふと、彼の声がききたいと思った。そして会いたいと思った。