de54à24

pour tous et pour personne

詩人の想像力としての ¬

 
「私の感覚に現出する非感覚的なものの意味深さは、それゆえ私の感覚を震撼させる。このことについてたいそう意味深い苦情を呈する」。たまたま読んでいた書物の一隅に引用されていたミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』からの一節である。音楽や絵画、詩や小説、映画に至るまで、なぜ作品は時に「感傷的」「情感的」と批判されるのか──それには批評者の「生理的な嫌悪感」以上に真っ当な理由があるのだろうか。そんなことを何年にも渡って考えるともなく思っていた私にとって、セルバンテスの慧眼を示すこの一節は、なにかとても重要な意味を持っているように聞こえた。
 
 
その一節を何度も頭のなかで反復しながら、なかなか脱することができない鬱状態とそれに起因する体調不良に牛耳られた日々を今日までもなお漂っている。鬱状態や体調不良には、未だ己に降りかかっているその現象を対象として思考することもままならない状況であることが含意されている。しかしながら、健康と病というものの区別を客観的に捉えようとするならば、それは如何なる形で可能なのか。肉体の病や怪我などは、文字通り客観的に観察可能であり──生物学的に確認することができ──そのために異常のある局部に直接的、間接的に手を施して改善を促すことができる。一方で、神経や精神といったほとんど視覚的には対象化し得ない部分に生じた病の場合はどうか。この場合、症状をもとに生物学的=客観的な判断──病か健康か──をしてみても、なにもでてこない。なぜならば、「健康なものと病的なものとはけっして純粋に生物学的に確認されるものではなく、生物学的な価値判断を表している」(ビンスワンガー「わざとらしさ」, 『ひねくれ 思い上がり わざとらしさ──失敗した現存在の三形態』宮本忠雄/関忠盛訳, みすず書房, p. 174)現象であるためである。
 
 
われわれが見ているのは「症状」ではなく、そこから症状が生じる現存在形式の方である。(…)精神病理学においてはわれわれは、植物学や動物学あるいは生理学におけるように属や種の特殊な諸標識や機能連関の既述では満足できない。そうではなくて、そこから確認可能な個々の標識、つまり「症状」が理解される現存在形式へとそのつど立ち戻らなければならない。(L. ビンスワンガー, ibid., p. 225)
 
 
 
ビンスワンガーは、そもそも健康なものと病的なものを区別するということ自体、「一人の「個人」および個人に従属する生物学的−心理学的有機体に対する人間の投企(Entwurf)」(Ibid., p. 174)から生じているのであると述べている。健康や病の判断の根本が、人間存在とはいかなるものであるかというわれわれの認識──判断──だとすれば、病を直接考えることではなく、われわれがこの「精神の宿る肉体」を人間とみなす際に、いかなる価値判断に基づいて「健康な=病んでいない」人間をイメージしているのかを──極めて専門的な方法とともに──慎重に考えてみる価値はあるだろう。
 
精神病理学の救いは現存在分析的または「人間的」考察と、論証的理論的研究との相互浸透にしか見いだされない(…)。精神病理学が、人間的世界内存在という意味での「人間」を考慮しないなら、それの諸理論構築は宙に浮いてしまうだろう。というのも、精神病理学はその際、われわれが繰り返し見てきたように、単なる言葉のレッテルで満足しているに違いないし、真に説明に値するものが何かを見もしなければ知りもしないのである。他方、これとは反対に、精神病理学が純粋に現存在分析的思考および研究に甘んじるならば、それは、それのもっとも固有の了解の投企(Verstehensentwurf)から現われてくるのであるが、この投企とは一人の「個人」および個人に従属する生物学的−心理学的有機体に対する人間の投企(Entwurf)であって、この投企からのみ健康なものと病的なものを区別する可能性が生じるのである。(L. ビンスワンガー, ibid., pp. 173-174)
 
 
 
今日は通院日のため、なかなか起き上がらない身体を引きずるように駅の方まで足を伸ばした。先週の診察日は体調が優れず、キャンセルしてしまったので随分久しぶりの通院のように感じた。自宅の周りはまだ桜が満開を少し過ぎたところといった感じだが、通りを一本南下するごとに花びらは落ち、小さな青葉が芽吹いていた。桜の季節が終われば、夏まではあっという間だ。そして、足早に過ぎる季節を捉えようとするかのように、葵祭から祇園祭まで、この街では様々な祭が催される。そういえば、昨晩もどこからかお囃子が聴こえていた。
 
 
診察が終わり、薬局で薬をもらってから、花粉症用の薬を買いにドラッグストアへ寄った。たまたま薬剤師が昼食のために出ていて、30分以降にしか戻らないとのことだったので、当てもなく周辺を歩くことにした。とは言え、体調もあまりよくないし、なにか見たり買ったりする意欲も尽き果てている。結果的に、日頃の運動不足を解消するためにだけただただ歩き回って、時間が経つのを待った。歩きながら考えていたのは、今年もまたベランダ菜園でバジルとミント、プチトマトとパクチーを沢山育てようということと、プランター10個分の水やりをジョウロだけでやるのはなかなか大変だったから策を練らねばということだった。
 
 
そして私がこんなにもくだらなく健やかなことについて思いを馳せている最中に、「小保方氏、13時から会見」という速報がいくつかのニュースサイトや新聞社から立て続けにメールで届いた。会見の様子は各方面へ、さまざまな経路を通して生中継されていたようだったが、見なくても大体の顛末は想像がついた。タモリさんではないが、こういう会見には「やる気のあるやつ」が必ずやある一定数紛れ込んでいて、マイクを握った途端にご披露し始める無行儀な鬱陶しさと身勝手な正義感を振りかざす。槍玉にあげられた人間が廃忘怪顛するのを喜ぶかのようなその言動をみて、ヤル気というのは、攻撃と正義の分別すら付かなくさせる背理を持つ脳内麻薬であることを改めて確かめるのだった。会見などによって明らかになるものなど、そもそも明らかになる必要もないものだとすら思いたくなる。(新入生、新社会人の皆々様、やる気などという胡散臭い代物などさっさと棄てて、ぜひとも真に成すべきと思うこと見極めてください──「やる気のなさ」は実に多様であります。)
 
 
 
 
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薬剤師が帰ってくるころを見計らって再びドラッグストアを訪れると、小さなおじさんがレジの奥に立っていた。ほとんどの店員が若い女性や小綺麗にメイクをした妙齢の女性なので、視界のなかでどことなく浮いた印象を与えたそのおじさん店員に薬がほしい旨を伝えると、すぐに表情を変え、別な店員から私が第一類医薬品を購入するために待っていたことを伝えられていたのであろう対応をしてくれた。簡単に薬の説明を聞いてから代金をレジの横に置いた。しかし私が代金を聞き間違えたのか、実際に払うべきより3円足りなかったので、再度財布を開いてみたが、一円玉はもう残っていなかった。その様子に気づいたおじさんは、ポケットからさっき食べた昼食代のおつりだろうか、一円玉を三枚取り出して、笑顔で目配せをしながら不足分を補ってくれた。そしてちょうど500円になったお釣りをもらいながら私が恐縮していると、「随分長らくお待たせしてしまって・・・」とおじさんも恐縮したような笑顔で言って、背面にあるひきだしから今し方購入した薬の試供品を束で手渡してくれた。こんなに沢山いいのですか?と言う私に、おじさんは「ちょっと待っててな」とさらに別の試供品を取り出して、「これ、元気になるからね」と錠剤タイプのビタミン剤を手渡してくれた。店の前でぼーっと立っていた私は、随分疲れて見えたのだろうか。「ありがとうございます」と何度か頭をさげて店をでた。
 
 
帰り道、花屋が目に入ったので立ち寄った。小さな店内には、入荷したばかりなのであろう立派なクリスマスローズの束がおかれていた。手持ちの花器を一つずつ思い返しながら、この花が十分に美しく生けられる器が拙宅にあっただろうかと考えたが、こんなに豪勢なクリスマスローズに似合うものはやはりなさそうだった。代わりにいつも使っている小さなシルバーの花器がよく合いそうな黄色いガーベラを二輪と、今年の夏のためのミントを四種類──スペアミント、アップルミント、オレンジミント、パイナップルミント──購入した。去年もこの花屋でミントの苗を買って、大層大きく育ったのだ。今年もきっとベランダの窓辺に置いたプランターから爽やかな風を部屋のなかへ吹かせてくれるだろう。そしてふと、カラーを美しく生けるための花器があればいいなと思いながら、両手に荷物をたくさん下げて家まで歩いた