de54à24

pour tous et pour personne

うさぎとヴェールに残酷で愛のこもったお別れを

 

書き物に無駄なものが多く混ざり過ぎていたのを感じてしばらく書くのをやめることにしてから、外の空気は随分と暖かくなった。相変わらずの日々が続いている私にも、この三寒四温のペースくらいには変化が起きていますようにと、言もなく静かに祈り続けている。日々、大きな変化は見えないけれど、いつの間にか寒さは忘れさられ、春風に揺れながら花々が街路を飾る。そういうふうに積もりゆく微細な変化は、根がしっかりとガイヤに結ばれた頼もしく揺るぎない現実となる。出世魚のごとくウサギ(Conejo)の名を脱ぎ捨てて、桜の花を咲かせるようにここのプロフィールを変えてみれば気分もいくらか開花の調べにそよいだ気がした。

 
 
生活では相変わらず週に一度か二度は眠りの一滴にすら恵まれない夜がある。そしてそれに続く一日はきまってよく眠った日よりも調子がいい。精神的に活発になるだけではなく、例えば前日には重たすぎて到底持ち上げられないと思った荷物も難なく運べたりする。障害についての諸処の解説が言うように、問題は精神や神経にだけあるのではなく、やはり脳も何らかの禍根を抱えているように思える。無理の出来ない弛緩した毎日を800mgの炭酸リチウムを柱に、眠りの入り口をつくるセロクエル400mg、デジレル100mg、ロゼレム80mgによって支えている。加えて、ホルモンバランスや眠りを促す顆粒の漢方を数包、花粉症の薬と肌荒れのためのヨクイニンを飲み干せば就寝前のお腹の中は完全に浸水状態となる。しかしこればかりは諦めずに根気強く継続するほかに仕方がない。ブログを書いていた時間を読書に当てていたうちの何割かで読んだ加藤忠史先生の双極性障害についての本の一節がまた頭を往来する。
 
 
かわいそうに、かわいそうに〔mon pauvre, mon pauvre〕、ヴェールと決着をつけることはつねにヴェールの動きそのものであったことになってしまうのだ。つまり、〈ヴェールを剝ぐ=非隠蔽化する〉、〈自己のヴェールを剝ぐ=自己を露わにする〉という〈ヴェールの剝奪=非隠蔽化〉において、ヴェールを再肯定してしまうということなのだ。ヴェールは〈ヴェールの剝奪=非隠蔽化〉において、自己自身と決着をつける。そして、自己の〈ヴェールの剝奪=非隠蔽化〉において決着をつけることをつねに目指しているのだ。ヴェールと決着をつけること、それは自己と決着をつけることだ。君はそのようなことを審判に期待しているのだろうか?
(エレーヌ・シクスー「サヴォワール」,『ヴェール』郷原佳以訳, みすず書房, 2014, p. 40)
 
 
第一に自分の精神衛生上、そして第二に自由な文章のために、このブログは出来る限り匿名に近いかたちで──つまり、某大学院の学生としての私と結び付かないかたちで──書き綴りたいと望んだことから始まった。もちろん、その思いはいまも変わらない。しかしそれと同時に、なにかを書くということ──とある方はそれを私の「独白」と言った──は、必然的に「私が誰であるか」の証明となることを避けられないものでもあった。書けば書くほどに隠したくなり、書けば書くほどに明らかとなる。自らを暴くことへの抵抗は、被解釈への恐怖と厭悪にほかならない。この問題に関してはただの一片も解決されてはいないが、現代美術に毒牙の如き視線を向ける鑑賞者=研究者=解釈者という負の可能性を自身の実態として具体的に暴き出したという点においては、少なからず得たことろのもあったのである。そして、ただその事実のためだけにでも、今しばらくはこれを甘受せよと思い直ったのだった。
 
 
しかし私は少しも消尽してなどいない。私は、私自身は実に若いのだ。まるでまだ自己の名を口にしてさえいない復活の前夜であるかのように。あなたはまだ私を私の名で知ってはいない。私はただヴェールに飽きているのであって、ヴェールの方が私のために、私の代わりに〔à ma place: 私の位置で〕消尽しているのだ。ヴェールは私の名を盗んだのだ。
ジャック・デリダ「蚕」, ibid., pp. 67-68)
 
 
ところで私はこの5年ほどの間に、いわゆる私小説的なものや誰がそんなものを読む時間があるのかと唾棄せずにはいられない駄文、すなわち気分や感情の描写(と書き手が思い込んでいるものだが、実際のところ、そのようなものの多くは論理性の著しい欠如から書き手以外の人間には完全な呪文としか言いようがない日本語の断末魔である)がテクストの大半を占めるような文章を、時が経つ毎にひどく憎悪するようになった。2008年頃までの自らのテクストはいまの私がこの世でもっとも嫌う文体で書かれており、もっと言えば2012年より以前の自筆の文章は叶うものならば悉皆焚書に与したいと願い、さらには何かを書いてしまったという現実はたかだかそのテクストの実体を抹消する程度のことでは取り返しが付かないのであるという揺るぎない事実に苦悶するほかない。これほどまでにナルシスティックな側面を露呈するのも憚らず、とにかく私はかの如き文体と文章を撥無してもしたりないのだった。私に訪れた文才の絶頂期は、どうあがいても7つの頃に書き記した揺るぎないあの一文──「ポポ(飼い犬の名前)は私の妹です」──に置いてほかにない。
 
 
それによって、数年の迷走ののちに私にとって最も美しく、唯一「完成」に近付き得るテクストの形式は、引用を交えたそれであることが明らかとなった。引用という技術の難しさと訓練の必要性だけでも、それは書くに値するのではないだろうか。そして、もちろん引用を交えたテクストの最たるものが学術論文である──奇しくも昨今の喧噪の渦中にあるSTAPは、なにより日本国民に「学術論文」というものについて啓蒙する細胞となっている。水面に浮かぶ塵のようなことばしか知らぬ頃の私は、当然この学術論文の崇高さなど知る由もなかったが、幸運にもこの数年でその美しさを了知するに至った。無論まだすべてが始まったばかりであるが、少なくともその美と力の片鱗に触れることができたのは「幸運」としか言いようがない。それは謂わば、太宰文学の倦怠の先に圧倒的な強固さに包まれた必然の美を鴎外文学に見出すというようなことであった。(しかし私は文学を愛でるに必要な機会を十分に切り拓くことができなかったのであり、これは残念というほかにない。)
 
 
というのも彼女は信じられないような知らせを聞いたからだ。科学が打ち勝てないものに打ち勝ったという知らせを。それは十分で終わった。終わりなき女王の終わり。三年前にはまだ不可能だった可能性。(…)不可能なことはすべて可能になるだろう、ただ千年と待ちさえすれば。彼女は幸運にも、生きているうちにこのことを知った。彼女自身の星の逆転だ。この日まで彼女はたえず、宿命に従順に、自分の種の洞窟で生きてきた。彼女は生まれながらにして囚われの身であり、月の住人だった。他の人たちはみな自分の翼をもっていたのに。彼女には、自分の定めを変えられるなどということは一度として思い浮かんだことがなかった、いったん泥土の上へ流された血が、再び静脈をさかのぼることはない。誰もけっしてアイスキュロスに逆らわなかったことになるだろう。ところがほら、血はさかのぼったのだ。彼女は生まれ変わった。
(エレーヌ・シクスー「サヴォワール」,  ibid., p. 15) 
 
 
ともあれ目的論に見放された双極のさいはてでは、良くも悪くも現代哲学のフロンティアに生きゆく術を見出すほかない。そうしてこの一月の間、暇つぶしとも見紛うような私の日毎夜毎は、クリミア戦争ナイチンゲール、そしてなによりチェルノブイリ原発事故以来のウクライナの歴史と政治を掘り返していたかと思えば、芥川龍之介の幾つかの小品に目を通し(「蜜柑」や「トコッロ」はやはり傑作である)、レーニンの『哲学ノート』やマンの『魔の山』を読み囓り、そして時に傍らでハイデガー存在と時間』の五つの訳書を往復しながら原著を蟻の歩くよりも遅々と読み進めてみたりしながら、川をのぼる鮭のしつこさでビンスワンガーに人間学的精神医学の教えを請うていたりすることでどうにか昨日に留まることなくここに座している。(ちなみにSTAP細胞に関しては、読むべき日本語のニュースはないというのが文系女子の感想。)
 
 
マンションの入り口を出ると、向かいの小学校の校門から塀を囲むように虹色の花々が日に日に春を謳っていた。ここには植物をこよなく愛する人がいるようだ。この三月は、何人かの友人からの着信を見過ごし、何人かの友人の声を電話越しに聞いた。その中には、驚くべきことに殆ど5年振りに声をきいた友人があった。その彼は、私がかつて付き合っていた人の親友であった。私と恋人が働いていたレストラン──岩井俊二監督『リリィ・シュシュのすべて』(2001)であれ以上ないほどに完璧に清純無垢な少女を演じた蒼井優がおいしそうにパエリアを頬張り、また今となっては驚くほど幼く純朴に澄んだ市原隼人がオレンジジュースも喉を通らないといった風にそれを眺めているあのレストラン──に気が向くとふらりと現れた彼は、お酒を飲みながら私たちによく最近みた映画や写真、読んだ本の話なんかをした。私がその恋人と別れてからも、彼とは時折お洒落なカフェで落ち合い、時には何時間も話し込んだりする仲であった。まったくこれほどまでに自然にできた友人というのも、思えば大変稀少なものだ。しかし大学進学と同時に「リリィ」の土地を離れた私は、それから彼にも会うことはなくなった。それでも、新天地に来てから私が毎夜に書き散らしていたブログを一番熱心に読んでくれていたのも、思えば彼であった。
 
 
久しぶりの声は少しだけ疲れたような印象を受けたが、以前から精神的にあまり頑丈ではない彼にしてみれば、そのくらいが丁度よいのかもしれなかった。ゆっくりと寄り道をしながら近況の交換をしていると、間もなく彼もまた私と同じ病気の診断を受けたということが発覚したのだった。互いになんとも言にならぬ空気を空笑いで埋めていた。一通り互いの近況が分かると、彼は何度も私の無事と「一皮剥けたかんじ」を喜んだ。私は、彼に映った喜びと有意義な治療を支えてくれた信頼すべき主治医に、あらためて感謝した。そして、その同じ病気によって人生の休止を余儀なくされている旧友が、押さえきれぬ不安と焦燥のなかに生き急ぐことなく、下を向けば手を伸ばす絶望の決断に足下をとられることがないようにという思いを「また連絡ちょうだいね、元気でね、おやすみなさい」に詰め込んだ。