de54à24

pour tous et pour personne

桜桃

 

二週間ぶりの通院。ここのところ二回に一度はベッドから起き上がるのにも小一時間は掛かかってしまうほどに体調が優れず、やむなく病院の予約をぎりぎりになってキャンセルしている。先週もまた起床の時間になってもベッドのなかで身動きひとつとれず、病院にキャンセルの電話をいれるのもやっとであった。しかし、身体の調子も透明なほど健やかな朝には、病院までの散歩も心地よく路肩に季節が入れ替わるのをみつけては、自然と新しい季節にまつわる思い出に心を委ねる。幸せなことに、今週の通院日はそんな一日と重なった。

 

病院に到着すると、月末の診療時間終了間際ということもあって待合にもほかの患者がひとりもいなかった。そして必然的にほとんど到着と同時に診察室に呼び込まれた。こういう日はいつものように穏やかな主治医と通例の面談時間よりも幾分長く話をする。いつもはここ一週間の変化を報告したり、問題があればその対処法についての助言をもらったりするので診療時間を使い果たすのだが、隣り合う待合室に次の順番を待つ者がないときには、より巨視的な、あるいはより根本的な私の不安や問題についてゆっくりとことばを紡ぐ。たとえば、鬱状態のときが補完する躁病相の疲労をいかに減らすことができるかということや、けれども躁状態のときに活動を抑制するようなことはしたくないということ、それから家族メンバーとどのように付き合うかや来年度の具体的な予定についてなど、どれも主治医としか話し合うことのできないものであるから、診察室を出たあとはぐっと心身が軽くなる。

 

アキ・カウリスマキ監督『ル・アーヴルの靴みがき』(2011)を鑑賞。第一に、想像していたものとも、また鑑賞後に覗いたウィキペディアが謳う「コメディ・ドラマ映画」の文言とも、まったくかけ離れた作品だった。カウリスマキの作品を観たのはこれが初めてなので憶測にしか過ぎないが、例えば『ラ・ピラート』(1984)や『ポネット』(1996)のジャック・ドワイヨンや『汚れた血』(1986)や『ポンヌフの恋人』(1991)のレオス・カラックスなどが時にポスト・ヌーヴェルヴァーグと称されるとすれば、アキ・カウリスマキヌーヴェルヴァーグ2.0といった印象だった。

 

手法的なことを言えば、トリュフォーの代名詞でありヌーヴェルヴァーグを象徴する技法のひとつでもあるストップモーションや(役者の)カメラ眼線が多用されていたり、あるいは小津安二郎的なクローズアップや切り返しショットなどからの影響も多分に認められる。したがって、おそらくはゴダールトリュフォーを含め先行するヌーヴェルヴァーグや小津作品に馴染みのない鑑賞者にとってみれば、「不自然な」カメラワークや「わざとらしい」役者の演技によって必ずや作品に対する没入の拒絶を感じることだろう。先にヌーヴェルヴァーグ「2.0」と言ったのも、作品のなかでこのような手法が昇華されるどころか一層誇張されて用いられているようにみえたためである。

 

映画の終盤、ラストシーンと言っていいほどのところで、主人公の老夫婦が庭に植えられた桜の樹を見上げるショットがある。桜とは言え、例えばフランス随一の桜の名所ル・ノートルのソー公園(parc de Sceaux)に咲く八重桜やソメイヨシノのように立派なものではなく、むしろ葉桜になりかけた白い花をみる限り、やがてさくらんぼの実をつけるための花のようにすらみえる。ただ、寄り添って桜を見上げる老夫婦の姿は、特に生きていながらもあたかもすでに死んだような気配すら感じられる夫人の存在によってより一層に小津安二郎監督の『晩春』(1949)や『東京物語』(1953)、あるいは『秋刀魚の味』(1962)などを彷彿とさせる。そしていくつかのレヴューが、この作品に「日本的なもの」の影響をみているのにもまた納得がいく。

 

他にも、1930年代から積極的に移民の受け容れを行ってきたフランスならではの問題意識の表出として、アフリカからの移民の少年や難民キャンプがこの映画の中心的な──少なくとも表上の──関心となっている。しかし、ここでも先に述べた「わざとらしさ」のためか、政治色や切迫感がほとんどまったくと言っていいほどに感受されない。例えば警察から逃げ回る黒人の少年イヴェットは、なぜかいつまでたっても帽子やマスクの類いの変装をまったくせず、警察の目につくところにのんびりと登場してきたりして、まんじりともせずといった鑑賞者の思いを「不自然さ」によって裏切り続ける。ついでに「不自然さ」についてもうひとつ敷衍するなら、主人公マルセル・マルクス(アンドレ・ウィルム)の妻が不治の大病を患ってはフィルムのなかのほとんどの時間を病院で過ごすのだが、突如完治し帰宅する運びとなって以降はますます「わざとらしい」光景の連続となる──本当のところ妻は既に死んでしまって、この映像はマルセルの悲嘆が生んだ幻想なのではないか……観る者はそう疑わずにはいられない。 

 

そんなことを考えながら、この映画はもう一度みなおさなくてはならないと思いなおし、数ヶ月前から苦戦している書物ふたたびに向かった。ハイデッガー用語が存分にその効力を発揮していると思われる各ページの晦渋さは相変わらずだった。しかし久しぶりに読み直すと、どういうわけか前回読んだときよりは幾分意味がとれるようになっていた。しかし、半年前に勉強会で他のM1の面々と読んだマルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』よりも明らかに読みにくく、また私自身の集中力と読解力も半年前より数段落ちているのも明らかで、やっぱり文字を追うので精一杯であることに関しては相変わらずであった。おそらくこの読みにくさは、ハイデッガー流の独特な語彙だけではなく、精神医学と芸術学の要素が絶妙に織り交ぜたところで書かれた論考であるせいもあるだろう。ドイツ語らしいこの独特な文章に慣れることもだが、さまざまな理解力と感受性をできるかぎり開口して挑まなくてはならないと改めて実感した。目だけで読んでいても入ってこないため、諦めて、書き込みのためにコンビニで300ページ余りをすべてコピーしてきた。自分の蔵書であっても、私は本に直接書き込むのが好きではないため、これまでも本腰を入れて読もうとする本はみなすべて複写してきた。そんなわけで、電子書籍には今のところまったく縁がない。

 
 
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去年の梅に続き、今年は他所から桃の切枝を頂いた。梅より赤い小さなつぼみが愛らしく、日に日に綻んでいくのがまた一層に芳しい。横に流れた枝をみては、平らな皿に生けてみたいと思ったが、あいにく華道の道具は実家にすべて置いてきている。やむなくガラス瓶に生けた花がもう少し咲いたら、久しぶりにお茶を点てようと思う。茶道のお稽古をやめてからはやくも3年が経とうとしているが、お作法は身体に残っているだろうか。そして、これだけ華やかな茶花があれば、茶杓の銘は純粋に「春のおとずれ」なんていうのはいかがだろうか。
 
 
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