de54à24

pour tous et pour personne

流れとよどみ

 

2月14日、世はバレンタインデー一色となっているのを横目に、2005年のこの日に大阪の寝屋川中央小学校で起きた教師殺傷事件についてをただ黙々とネットで調べていた。一審で懲役12年の判決を受けていた犯人の少年(事件当時17才)に対し、大阪高裁(古川博裁判長)は2007年11月、懲役15年の判決を言い渡した(弁護側もこの判決を上告することなく裁判は終わった)。この事件が人口に膾炙するきっかけとなったのが、犯人の少年が高機能広汎性発達障害との診断を受けていたという背景にあった(判決文においては高機能広汎性発達障害への言及があったが、その他メディアなどではなかでもアスペルガー症候群であったという報道をしていた)。この事件のその後と影響について知りたくてネット上を漂浪していたが、事件直後および大阪高裁の判決が出たときに加熱した報道があったのを除いては、他の多くの事件同様、まるで忘れられた記憶の残骸のようなものがところどころに落ちているだけで、いまも更新が続いている報道やサイトなどめぼしいものは見つからなかった。

 

いつからこの種の恐れや怯えを四六時中懐に潜ませるようになったのか、それすらも思い出せない。私はいつの頃からか自分の体調の悪さといつもセットにして「本が読めない」という現実について深く悲観してきた。仮にも文学部に在籍していたということがある種のプレッシャーになって、本を読んで勉強をしなくてはならないという思いが体内で絡み合って焦りとなっていたという側面ももちろんあるだろう。思えば、大学で生活を始めてから何年もの間、私は常に焦っていた気がする。しかし、それだけではないなにかもっと肝心な理由が、あの恐れや怯えの中核に根をおろしていたように思えてならない。たとえば、長く患うこの疾病と訣別するためには、自分を医師やカウンセラーに預けているだけでは絶対的に足らず、自らの意志で学ぶことによってのみ濁ったソウルジェムを正しく破壊する方法をみつけることができると信じていた──あるいはそう信じるしかなかった──というような感じに近いかもしれない。しかし、いずれにせよそれは比喩や仮定法を介したある種の想像にすぎない。なぜならば、私はいつの間にかあの種の恐れを抱くことすらなくなっていたどころか、どうしてかあの恐れも、それからその肝心な理由もまったく思い出すことができないからである。わかるのは、限りなく薄く残った恐れの残像──かつて自分のものであった感情の遠退いた姿、痕跡。

 

簡単に言えば、私は「本が読めない」ことを別な理由で恐れるようになっていたのだ。それは、読むことを中断するやいなやこの知覚や思考、存在や世界が瞬く間に収縮し、凝固してしまうようことへの恐怖である──私はこの辺りの言語の多くをおそらくはアルトーから学んでいる。知覚や思考の渦動を、存在や世界の川流を、停止させてしまうことがないように、自分が映るところのない──すなわち、「他」の──ことばや論理、理論や想像に定期的に触れる必要があると感じている。以前あった恐れや怯えが「この」恐怖に取って代わったのがいつなのかを知ることはもちろんできないのだが、一度恐怖についての理由が入れ替わったら最後、まるでそれがずっと私の恐怖を司っているものであるかのように思い込む程度には、人間の認知と思考と信念などというものはでたらめなものである。自己と歴史は常に捏造され続けるものだということは私が学部の頃に学んだ最も重要な事柄だったし、自己を主張することを慣習としているひとがしばしば低脳そうにみえるのもそのことと関係があると思われた。

 

アウグスティヌスからベルクソンフッサールなどに至る、時間や想起について思いを馳せてきた大思想家たちは、過去を思い起こすことについてを過去という「写し」の想起であると考えた。 想起は知覚ではない。だから、過去を思う私たちは、悲しみや喜びといったなんらかしらの峻烈な感情や熱さや痛みといった感覚を、現に知覚経験として感じるようには感じないのであると考えた。「写し」とはすなわち、知覚が根こそぎ取り除かれた現実のようなものである。しかし、大森荘蔵はこの「写し」という概念が持つ論理的不整合性を顧みることによって、次のような批判を残している。

 

過ぎた痛みの想起は少しも痛くはない。過ぎた音を想い出すことはその音がかすかに耳に聞えることではない。灼熱の夏を思い出しても暖房には些かの足しにはならない。アウグスティヌスが述べたように、記憶の中の喜びや悲しみは今は少しも嬉しくも悲しくもないのである。/実はこのことが人を「写し」の考えに誘う大きな要因であったのである。痛さから痛みを抜き去ったもの、暑さからその暑さを除去したもの、それは痛みの形骸であり暑さのミイラである。だからそれらは痛みや暑さそれ自体ではなく、それらの影であり「写し」なのである。(…)しかし、痛みから痛さを、暑熱から暑さを取り去ったならば一体何が残るというのだろう。何も残りはしない。痛くない痛み、暑くない暑さなどはりはしないのである。だからそのようなものとしての「写し」などもありはしない。(大森荘蔵「過去は消えず、過ぎゆくのみ」, 『流れとよどみ』産業図書, 1981, p. 266)

 

やる気がないと思う気力すらもなく、春暁めいた一日が街を訪れているのをベランダから眺めていた。陽は然ばかり暖かいが、南東から吹く風は冷たく強く、まだ名残とは呼べないほどの冬を含んでいた。改めて、視界が晴れた日には、四方を山に囲まれたこの小さな街に積もっている歴史と呼ばれるなにものかに思いを馳せていた。しかし、その間も左右の手がどんどんと冷えていき、間もなく意思するようには動かせないほどまでになった──まるであの山際より吹き付ける風によって自分の一部がどこかへ奪い去られたようではないか。しかし、一度冷え切った身体はそれ以上冷えを感じることもなくなり、手のあたりに現れた動作の不自由もすぐに忘れてしまった。心にあったのは、自分というものがどうやら毎刻毎刻、少しずつ死んでゆくものであるという実感であった。そして、私はどうしていつも気づけば「死」についてあれやこれやと考えているのだろうかと、これもまた何度となく思った問い未然の陳腐ななにものかに呆れながら空を仰いだ。

 

一日が始まってから終わるまでのあいだ、幾億個の細胞が生まれているのと引き替えに、限られたその場を譲るように同じ数だけの細胞が死んでいる。しかし、私は電子顕微鏡で自分の細胞をみたこともないし、その分野に関する専門的な教育を受けてきたわけでもないので、細胞の生き死にに関してはデータや情報としての事実をみてるだけでしかない。そうではなくて、自分の一部が死の方へと浮浪してゆくのを私が感じるときは大抵の場合、自分の感情の辻褄が違ってきているのを発見したときである。かつて感じられたことが、いまはまったく想像もつかないということ。眼前の事物や出来事に、それまでとは違う感情を抱き、それまでの感情がもはや思い出すことも不可能なほど消失されてしまうということ。大切にしていたものや心底憎悪してきたものが、ある朝目覚めるとどうでもよくなっているということ。本が読めなくなるのを恐れる理由が、夕方の疲れを感じながら一呼吸ついたときにはもう既に変わっていたということ。私にはこれらのことがいつも世界の重要な謎のように思われて仕方がないのだった。

 

昨日あったものが今日はないということをこれほどまでに訝しみ続けては、この世界にあるという現実に耐えられるわけがない。しかし、この問題をどうしても足蹴にできない理由はもうひとつある。つまり、昨日から今日という連鎖があるように、その反対のベクトルに乗った連鎖もまた日常的に存在するということについて、私はいつも胸裡の悪い思いを抱いているのだった。想像しやすいところであれば、たとえば家族のこと、より具体的に言えば親子間の絶対的遺伝の連鎖に叛し、例えば家族心理学などを引っ張り出してなにか問題を描き出そうとするときには、親子間の感情はもはやベクトルすら持たない伝播によって生み出され続け、さらにここでもし子供の側が倫理的・理論的正当性を十分に抱持して、自らに降りかかった問題を親(のしつけや文化、遺伝など)の責任として理解するとなると──日常的に問題を訴えることができる程度の平和に支えられた家庭においてこのようなことはしばしば発生しているように思われる── 一体問題の所在はどこへいってしまうのだろうか。問題の原因を見つけ出すことが問題となりすぎていて、問題自体も、それから見出された原因もまた、それ自体にはなんの意味もないようである。つまり、自らの問題を、絶対的な遺伝という連鎖の上流へと送り返すということは、すなわち上流の者はさらに上流へと送り返し、さらにその上の者へと送り返すということを、ほとんど永遠に繰り返すことになる──自分の心の病が親によるものであったというならば、自分の子を病ませるほどの状況においやられていた親の責任は、親の親にある……という具合だろうか。自己にかかる責任を上流へと投げ返すということは、結局なんら生産性のない空言による納得のように思えてならない。

 

これはただ机上の空論のようにもとられかねない理屈だけの問題ではない。ここにある問題の原因と責任を「絶対に拒むことのできない」者へと転嫁するということは、そこにある問題をさらに深化し兼ねないという懸念について思い至らないものはいないだろう。(例えば、近隣諸国から日本はどのように戦争責任を問われているか──戦争をしたのはいまここで生きる私たちではないけれど、彼らはあの戦争の責任を「日本」という国家を具現する私たちに突きつけている──、また反対に、私たちは米軍基地の不当性についてどのような理屈で米国を訴えるのか──「基地の兵隊さんにはなにも恨みはないけれど米軍は憎い」と話す沖縄の人々の声はどのように受け止められるのか。)メソッドやセオリーを有効に用いるには、自己ではない別な誰かを十分に主体化する必要があるし、またその時自己も十分に客体化される必要がある。この微妙な距離感のなかで、思考すること、想像すること、ことばをつなげること──結論は解決ではない。問題の投げ返しによる決着(のような思い込み)は、畢竟、責任逃れ以外のなにであるのだろうか。

 

虐待を働く親や親を憎む子の、あるいは戦争の悲壮や戦争責任を巡る憎しみといったさまざまな形をとった「過去の悲しみ」について、私はなにを考えることができるだろうか。あるいはまた、次のように問うこともできる。カントは、われわれは過去について考えることはできずただ空想することのみができるだけだと言ったが、ならば、私たちはこの「空想する」ことをどこまで有効化することができるだろうか。

 

(…)では痛みや暑さを想い出すとは一体何を想い出しているのか。もちろんその痛みや暑さそのものをである。ではそれが些かも痛くも暑くもないのはどうしてなのか。それはそれが「想い出されている」のであって「知覚されている」のではないからである。「想い出す」とは知覚の再生でもなく知覚の再現でもない。薄れて影のようになった知覚の再生でもなく、微弱に減圧され弱毒化された知覚の再現でもない。それは見たり聞いたり感じたりすることではないのはもちろん、模擬的に見たり聞いた入り感じたりすることでもないのである。それは知覚とは全く別種の様式で傷みや暑さが立ち現れることなのである。かつて知覚された痛みや暑さが今度は「想起」という様式で立ち現れることなのである。(…)それは遠方の火が熱くなくともそれが熱火であり、他人の痛みが私には何の痛みではなくとも痛みであることに変りないと同様に、今現在知覚的に痛くなく暑くなくともそれらは痛みそのものであり暑熱そのものなのである。(大森荘蔵, op. cit., p. 267)

 

大森の手法によれば、感情や感覚、そしてなにより知覚によって得られる像はそのレパートリーを今より何倍にも拡大することができる。それによって過去を過去として構築し考えることに近づき得るのかもしれない。(これは、PTSDの理論とも相互に参照できる好相性のもののように思える。)少なくとも、想起によって得られた感覚が、知覚ではないがもう一つの現実であるとする考えは、ポストヒューマニズム的な理論や思想のような新たな人間像を空想する方法としては非常に興味深い。興味深いだけではなく、時間の流れが介在した二者間の問題について、どちらかがどちらかに責任を問うといった緩怠を避ける道として十分に機能する可能性があるようにも思う。そしてここまでくるともう一つ、昨日まであったものが今日突然なくなるという時間と重力に沿った流れのなかにある変化──まるで突然変異──について、ダーウィンとスペンサーの二つの進化論を読むディディ=ユベルマンの手さばきを再度思い返したくなった(紙幅の許すところでいずれ改めて書きとどめてみたい)。

 

書くことを通じて歴史や他者は、空想から現実になる。

 

 

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みかんの皮を乾燥させた。なかには柚子もまぎれているのだけど、橙に紛れた黄の破片は見つかるだろうか。もう少し乾燥させた陳皮はお風呂に入れる予定。それから、いつものように早くに咲く桜も、満開だった。季節のよどみと流れゆく場所。
 

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