de54à24

pour tous et pour personne

ベランダに落ちた闇への言詞

 

研究を進めたいと祈るように思いながらも、思えば思うほどに思考や身体がただただ硬直していくような感覚にとらわれる。相変わらず調子があまりよくないのだろう。研究関連の書籍に関しては読めないどころか、本を手に取ることもできていない。なにか精神的な辛さのようなものが物理的な重さとなって一冊の本に堆積していることに気がつき、とても惨めで悲しい気分になる。けれども週に一度、運がよければ目次を眺める程度のことならばどうにかできる。それは確かに救いのようであり、こんなにも感情や感覚が停止状態にあるにもかかわらず、眺めた本に関しては、もう少し気力が戻ったらきっと読もうと自分自身に誓うことができるのだ。

 

ここ数日の不調を呼んでいる原因は大体見当がついている。両親が帰国し、私を訪れる日が迫っているからだ。私は、ここ十年余りに関しては概して両親とも良好な関係性を築いている。両親はいつでも具合の悪い私を心から心配してくれているし、生まれたときから今現在に至るまで精神的および経済的な支えを十二分に与えてくれている。私が大学院進学を望み、進学先が決まったときも大変に喜んでくれたし、研究に携わることを応援してくれてもいる。ただし、私自身その生活に無理が多いと感じるならばいつでも戻ってくるようにと、帰るべき場所までも護り続けてくれている。だから仲が悪いということはまったくないし、そういう意味で彼らの訪問を恐れているのではない。ただ、両親のみならず、他の家族や親戚全般に関しても、私自身もなんとも思っていないという風に振る舞っていても、彼らに会ったあとには必ず体調をひどく崩し、時には数ヶ月にわたって寝込んでしまうこともある。主治医やカウンセラーにも幾度となく相談を持ちかけているが、家族に会わないわけにもいかず、これに関しては対処療法のみしか用意ができていないのが現状である。

 

家族は他人ではないから、無意識に互いの生活や人格に限度を超えて介入してしまいがちな部分があるものだと、主治医は言っていた。心配を多く抱えていればいるほどに、自然と干渉の度合いもゆきすぎたものになりがちなのだろう。期待や想いが大きいほど、その大きさに気がつかなくなり、いつのまにか自分と相手の境界を侵犯しては、相手を自分の一部のようにコントロールすることを当然と思うようになってしまうのだろう。それを止めるために、思えば定期的に、大声をあげて泣いてみせたり、必要以上に鋭利なことばを投げつけたりしてきたようにも思う。差異を尊重してほしいということをどう伝えればよいのか、右往左往しながら、アタッチメントとデタッチメント間を、いつもふらふらと振り子のように揺れている。

 

数年前までは、不調が続くときであってももう少し他人との距離を自然と擁することができていたように思う。最近はそのことをある種の取り返しのつかない失敗の原因を探るように、度々考えている。運がなかったのか、みる目がなかったのか、私は元気なときの私しか好きではない相手と付き合っていたり、あるいは本当に具合が悪いときの私を(無意識にだろうが)利用するような人間を追い払えずにいた。定期的に訪れる鬱状態をだれか他人に見せたくないと身構えているのは、ここ数年の間にあったいくつかの人間関係における失敗を、私自身がまだ消化することも放棄することもできていないからだと思う。幾度となく鬱と躁の間を身勝手にさ迷いながら、それでもなお今も続いている関係は、乱暴に互いの境界を犯すことなく、必要以上に距離を埋めない人々との間にある。大抵の場合彼らにはパートナーがあるから、調子の悪くなったときには私が不在となるであろう関係を共有することを求めても、気長に待っていてくれている。恋人を持つことの恐怖は、相手にこの「私が不在の関係」=「不在の私との関係」を私と取り結ぶことを求めることができないからなのではないかと、自分なりに分析をしている。

 

私が双極性障害という病名を冠してからはまだ3年ほどしか経っていないが、思えば私はもう10年くらい前から自分の躁状態鬱状態を知っており、その上で使い分けてもいた。鬱状態は分かりやすいから、当時から病院でもそのための治療を断続的に行っていた。しかし、大抵の場合、この種の病状が悪化する原因は躁病相のほうにある。私は普段が鬱状態を基盤としているので、躁転したときは「チャンス」以外のなにものでもなかった。電話やメールをもらっていた友人たちにようやく折り返しの連絡ができるのも、誘われていた飲み会にようやく出向くことができるのも、あるいは自分の経験のため、そして鬱屈として日々に変化を与えるために必要と思われたバイトやイベントのボランティアの書類を書くことができるのも、すべて躁転後の限られた時間だった。むしろ3年まえに双極性障害という診断を受けてからの生活が、本当に以前より安全で豊かなものとなっているのか、時折訝しんでいる──という程度には、体調も状況も改善されてはいないと感じている。判断基準となるものもないから、正直なところよくわからないのだけれど。いずれにしても、躁の取り扱いにくれぐれも注意するようにと言われてから、私の生活は常に注意深く、人ともできる限り会うことがないように、そしてたとえ躁転しても決して無沙汰な友人たちに電話をかけまわったり、持っている体力以上の仕事をすることがないように、自分の腕で自分を力いっぱい抱え込んで抑えつけているような日々が続いている。打ち上げ花火のように生きるか、線香花火のように生きるか──せめて、そのような選択肢があったらいいのにと思う。

 

ANPO』(リンダ・ホーグランド監督, 2010)というドキュメンタリー映画を観た。もちろん、1960年に岸内閣によって米国とのあいだに取り結ばれた日米安全保障条約とそれを巡る全学連を中心とした60年安保闘争についてのドキュメンタリーである。この映画をほかの60年安保関連のドキュメンタリーとは異なるものにしている点があるとすれば、一つは日本に生まれた経歴を持つ米国人ホークランド監督による作品であるということと、それから様々に映し出されるドキュメント(作品)とともに歴史的政治的背景を述懐する人々がすべて画家や写真家、歌手や映画監督といったいわゆるアーティストであるということである。この半世紀を通じて時代の変化とともに作風を変えざるを得なかった作家や直接には60年安保を知らない若い作家など、皆それぞれ異口同音にあの政治の季節の不当な幕切れを愁い、反戦や反米軍基地を訴える。当然ながら、問題に潔い解決策などひとつもない。ただただ、少しの変化とともにこれからもこの生きた歴史の問題はずっと続いていくのだろうという予感だけがエンドクレジットの終わりとともに残される。

 

特に印象的であったのは、ある作家が、作品をつくるにはあの時のような難しい時代や怒りがどんどんとわき出てくるような社会のなかにあったほうがつくり易いのではないかと思うと語っていたシーンだ。瞬時にすべてを捉えきれないほどの疑問が頭を擡げた。ひとつはもちろん、アドルノの「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(アドルノ「文化批判と社会」,『プリズメン』渡辺祐邦/三原弟平訳, 筑摩書房, 1996, p. 36)という意味において、芸術作品を作るということの倫理性に向けられたものだ。そしてもうひとつ、社会に対する怒りや困難が作品を作らせるとする論法は、至極容易にたとえば鬱病鬱状態といったものを甘えとして批判するような態度に結びつくように思われるということ。さらにもう一点、1960年を始め、そのひとにとって特別な意味をもつ過去の地点を述懐する人々は、「あのとき」を今とは断然された時として感じ入っているのだろうということ──つまり、今はあの時ほど難しい時代ではないから、作品をつくるのも難しいという言外の思いがそこにはにじみ出ているということである。だが、今は「あのとき」から完全に断然しているなどと、今は「あのとき」と比較して難しくないときであると、なぜ言うことができるのだろうか。「あのとき」とは安保だけではなく、もちろん戦中戦後をはじめとする歴史における数々の困難のときとも置き換えることもできよう。今現在、この国が戦争の真っ只中にあって、精神科の薬どころか食べるものや飲むものにも困っているのではないというこの運命的現状は、確かに間違いなく幸せなことであると思う。しかし、戦争を知らないということだけによって、人間はより幸せであることを保証されるのだろうか。

 

安保闘争の終焉以降、人々の問題は社会から内面へと移ったとする社会学歴史学による心理分析に従うならば、制作意欲を可能にするためには、ほかでもない人間の「病んだ心」の追究が必要とされただろう。しかし、追究する側もされる側も同一の存在であるとき、社会への怒りを見つけ出すような手さばきは無論通用しない。幸福であることも、苦衷に沈むことも、どちらについても私たちは独り善がりの自信と頑迷な懐疑を矛と盾にして振りかざすほかに方法を知らない。ネガティブな感情を生産性へと結びつけるという方法は、有効に機能すればするほどに、漠とした不安を私の心に生んでいく。

 

偶然にも高校時代を同じ場所で過ごし、偶然にも同じ大学へ進学し、同じ学部で学び、殆ど同じ場所で暮らして、私がよく使っていた線路で死んでいった高野悦子という女性について折に触れては考える。私より30年先に生きた女性だが、なんだかもっとずっと昔に生きた人のように感じられる。それなのに、見知ったキャンパスや街について書き記している彼女の日記*1を、私はまるで交換日記の相手の文章を読むように読む。彼女の文章には、決して対社会と対自己内面を明確に割り切ることができないなにかが刻み込まれている。果たして、彼女の亡くなった1969年あたりを境に、社会は失われすべてが経済活動に覆われた人間のさもしい内面に「なった」のだろうか。そうではなくて、そのような内面は今という時代の特許物ではなく、ずっと以前から当然のようにあったものなのではないのか。そして、半世紀以前のあのような「社会」に関しても、いまも変わらずあるのではないか──より潜在化されているかもしれないとしても。

 

「(…)己の立場をどちらかにして何かの行動を起こさねばならぬ。でなければ、ただすべてを受身に、生きることもなく、死ぬこともなく、生きていくようになるのではないか」(高野悦子二十歳の原点』新潮社, 1971, p. 27)

 

「現在を生きているものにとって、過去は現在に関わっているという点で、はじめて意味を持つものである。燃やしたところで私が無くなるのではない。記述という過去がなくなるだけだ。燃やしてしまってなくなるような言葉はあっても何の意味もなさない」(Ibid., p. 170)。

 

「生きることは苦しい。ほんの一瞬でも立ちどまり、自らの思考を怠惰の中へおしやれば、たちまちあらゆる混沌がどっと押しよせてくる。思考を停止させぬこと。つねに自己の矛盾を論理化しながら進まねばならない。私のあらゆる感覚、感性、情念が一瞬の停止休憩をのぞめば、それは退歩になる」(Ibid., p. 151)。

 

私が病気を含め、自分に関する問題を内面ということばによって考えることに抵抗があるのは、それが別の文脈でぼろぼろになるまで分析され物語られ使い古されるのをただ手をこまねいてみているようなことをしたくないからかもしれない。私の内面は、十分に社会化された内面であるかもしれないし、内面の風を装った症状かもしれないのだ。ベランダの角に落ちて溜まった暗闇が、なにか秘密めいた風に安らいでいる。なにか過去のことでも知っているのだろうか。明日は今日よりよく晴れるという。窓の外に風を心地よく感じることができるだろうか。

 

 

 

 

 

*1:高野悦子二十歳の原点』(新潮社, 1971: 新装版2009)『二十歳の原点序章』(新潮社, 1974: 新装版2009)『二十歳の原点ノート』(新潮社, 1976: 新装版2009)。近年それぞれガンゼン社より新装版が、『二十歳の原点』は新潮社より文庫版が出版されている。