de54à24

pour tous et pour personne

Wikipediaは燃えるのか: 過去の証明

 

2014年なんて、ソチオリンピックなんて、ずっと先の話だと思っていた。ずっと先だと思っていたものが現実になっていくことに驚愕しているというよりも、ずっと先だと思っていたものがすさまじい勢いでどんどんと過去になっていることに、私は心の底から驚嘆している。過去となったことを証明するように、Wikipediaのページは増え続ける。世界はほとんどが未来と過去で出来ていて、現実が占める割合は存外に少ない──今のところ思いつく「現実」の居所といえば、歴史を読む人においてくらいではないか。

 

美学が果たす任務とは、ある意味において、断絶がもたらされるまでは伝統が果たしてきたのと同じ任務である。つまり、過去の網の目のなかなでほつれてしまった糸を繕い直すことで、美学は古いものと新しいものの軋轢を解決する。この軋轢の宥和なくして人間は生きることができない。なぜなら人間というこの存在は、時間のうちに自己を見失いながらも、時間のうちにふたたび自己を見いださねばならず、したがってあらゆる瞬間において、自己は過去と自己の未来にさらされているものだからだ。伝承可能性の破壊をつうじて、美学は、否定的なしかたで過去を回復する。こうして伝承不可能性は、感性的な美のイメージにおいてそれ事態ひとつの勝ちになり、それゆえに人間の行為や意識を基礎づけるひとつ空間が過去と未来のあいだに拓かれることとなる。(ジョルジョ・アガンベン『中味のない人間』岡田温司/多賀健太郎/岡部宗吉訳, 人文書院, 2002, p.163)

 

農学研究科生物資源経済学専攻の司書室から、文献所在不明のため貸出申請に応じられないとの旨のメールが届いた。なんだかんだで断続的に一年くらい探し回っているヘイドン・ホワイト『物語と歴史』をやっと見つけたと思ったら、歴史関係の研究科ではなくなぜか農学研究科にあるというので、貸し出しの申請をしていたのだ。『物語と歴史』の版権は平凡社にあるようだが、リキエスタの会からオンデマンドで出版された書物らしく、刷られた数がそもそもかなり少ない。そのため法外な値のついた古書としてもほとんど見かけることのないタイトルの一つである(切実に平ラに入りに希望)。ヘイドン・ホワイトは、分野的に共通するところの多い研究を行っているカルロ・ギンズブルグやドミニク・ラカプラに比べても日本での訳出にあまり恵まれていないようで、何年も前から翻訳が出版されるとの噂がある Metahistory: The Historical Imagination in Nineteenth-Century Europe (Johns Hopkins Univ Press, 1975)も2014年になってもまだ具体的な出版日などは聞こえてこない。40年前の書物を訳出刊行したところで誰が読むのかとも思うが、殊『メタヒストリー』に関しては現在進行形の歴史(哲学)研究による引用も多く、歴史学の必須文献のひとつであるといっていい。ともあれ『物語と歴史』のほうは、図書資料の管理に関してびっくりするくらい大らかなこの大学の各図書館のどこかからまた連絡がくるのを期待して待つとしよう。*1

 

ここのところの不調で集中力と体力が劇的に低下しているため、なかなか映画一本見通すことが難しいのだが、十分に元気なときは持てる力のすべて以上を研究と勉強にあててしまうため、このままいくと映画をまったくみることなく人生を終えそうなので、ブラウザをみる体力があるときには気ままに休憩をはさみながら映画をみている。

 

ウンベルト・エーコ薔薇の名前』(河島英昭訳, 東京創元社, 1990/原題:Il Nome della Rosa, Bompiani, 1986)を映画化した『薔薇の名前』(1987/原題:Le Nom de la Rose)を鑑賞。ウンベルト・エーコを初めて読んだのは、大学一年の春だった。美術関係の専攻を志望する者たちにとっては『開かれた作品』のエーコ、文学徒の道に踏み入れんとする者たちならば『物語における読者』のエーコであるが、私が最初にエーコを知った(そして、日本語に訳されているはずなのに外国語を読むレベルの難しさに目が眩んだ)のはこの『薔薇の名前』という小説を通じてだった。築80年を超える文学部棟の一番上の階の午後の陽がよく入る大教室で、「生物の多様性」と冠されたいまは亡き遠藤彰先生による大変ユニークな講義が行われていて、そこでエーコの『薔薇の名前』がしばしば言及されていた。遠藤先生がなんだかいつもとても楽しそうにこの小説について話しているのを見聞きした初学者としては、わからないながらも読んでみないわけにはいかなかった。映画のほうもずっと観ようと思っていたのだったが、しかし、あのエーコの小説を映画化することなど絶対的に不可能であるように思われ、その懐疑心からなかなか手が出ずにいた。小説よりはもちろんとっつきやすかったが、随分シンプルな物語であった印象を受けた。小説になかなか手が出ないときに、とっかかりとして映画を観るのはいいかもしれない。修道院が燃えるシーンを観ながら、自分の家や研究室が火事にあったら何を持って逃げるかとジャン=クロード・カリエールに問われたエーコがHDDと答えたという伝説的逸話を思い出していた*2。本が燃えるといえば、Fahrenheit 451*3以来お決まりの知と人間と過去未来についての物語だが、そこにきて外付けハードディスクというアイテムはどうやってその物語に組み込まれるのだろうか。いや、それどころかWikipediaは燃えない。クラウド化がさらにすすめば、火事はおろかウィルスくらいではデータも消失しようがないのだから、ハードディスクを物理的に持って逃げるという想定すら必要ない。SFをますます希求する世界はまだまだ続きそうだ。だが、私が高校生のときに読んだ Lois Lowry の The Giver  はきっと10年前よりむしろずっと多くの読み方が可能な物語になっているように思う。(ちなみに、私はまだ若い親戚かお友達に本をプレゼントするならば、The Giver と Jerry Spinelli の Maniac Magee を翻訳とセットで贈ることにしている。)


      
      ◇映画『薔薇の名前』日本版予告篇 

 

 

それから、フランスでテレビ映画として制作された『サルトルボーヴォワール──哲学と愛』(2006)を鑑賞。映画としては特に興味を惹かれるところはなかったが、サルトルボーヴォワールというカップルについてのドキュメンタリー的な、あるいはむしろゴシップ的なおもしろさはあったかもしれない。それに時代的背景を思うと、さぞかし暗澹たるタッチでサルトルボーヴォワールが描かれるのだろうと思いきや、全編に渡って小気味よいジャズの四つ打ちやワルツの三拍子が鏤められており、なるほど万人の注意を引くテレビ放映モノという感じだった。個人的には思想という面からサルトルボーヴォワールにシンパを抱くところは殆どないのだが(一回り若かったら、あるいは生まれるのがあと三十年早かったらいざ知らず)、この映画を観ているとサルトル実存主義が政治的アンガージュマンを求めるにいたるまでの様子やいまや歴史の一部として捉えがちな約一世紀前の知性や概念を、血の通った生々しさを伴ってアクチュアルに垣間見ることができ、哲学の初学者たちがみれば霊感を得るところも多いかもしれない。ただ、サルトルボーヴォワールを並列しているタイトルに反して、実際はどちらかというとボーヴォワールからみるサルトルという画角で描かれていることが多く、概してボーヴォワールの物語というべきだろう。そういうわけで、私が一番おもしろかったのは、ボーヴォワールのファッションとメイク。とてもチャーミング。

 

      
      画『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』予告編

 

 

恋愛はともかく、私は同業者との結婚は絶対にいやなので、上述の偉大なる哲学者カップルにはまったく憧れるところがない。それに、ヒッピーのライフスタイルというのも好きではない。近頃はシェアハウスが流行っていて、まあそれ自体はいいとしても、大抵の場合シェアハウスに入りたがる面々はヒッピーとかサルトル的な自由とかを崇拝していたり憧憬の的にしていたりするから、私はそれだけでシェアハウスという文化に懐疑的な眼差しを向けてしまいがちであることを告白しておかねばなるまい──とはいえ、一度あるパーティーで某有名シェアハウスに迷い込んだことがあった(おいしい豚汁を振る舞われました)。それから、もし火事になったら、私は飼い犬の遺骨が入った壺を持って逃げるけれど、もしかしてセラミックのツボに入った骨は火事どころではもう燃えないのだろうか。生活というメモリのなかにあるほとんどのものが、未来か過去であり、その上置き換え可能のように思えてくる。「今を生きろ」なんてアフォリズムにそそのかされては、人間がしばしば人生というものに迷うのもきっとそのためであろう。今は未来と過去の集積場、嘘も嫉妬もないところに自由なんてあるはずがない。嘘や嫉妬のない場所は、無関心以外のなんだというのだろうか。(無関心に支配された場所では、誰を責めることも嫉妬することも、そして恋をすることもないのだ。)無関心は、きっとこの世で一番未来と過去のない場所である。

 

 

 

 

*1:ちなみに、立命館大学の先端学術研究科が2009年にヘイドン・ホワイトを招聘した際の講演〈 アフター・メタヒストリー ──ヘイドン・ホワイト教授のポストモダニズム講義〉の記録を訳出公開している: ヘイドン・ホワイト「ポストモダニズムと歴史叙述」吉田寛先生が立命に来て間もないころのはずだが、病床に伏していたのか、はたまた課外活動に励んでいたのか、私はヘイドン・ホワイトが来日していたことも知らなかったどころか、この頃の記憶が全般的にまったくない。

*2:「書物の話をさんざんしておいてなんですが、私[=エーコ]の場合、今まで書いたものすべてが入っている、二五〇ギガの外付けハードディスクを持って逃げますね。それ以外にも、何か持って逃げられるとしたら、今まで集めた古書のなかで、必ずしもいちばん高価とはかぎらないけれども、いちばん気に入っているものを選んで持ち出そうとするでしょう。ただ、問題があって、どうやって選ぶかということです。あんまりゆっくり考える時間がないほうがいいな。そうですね、ベルンハルト・フォン・ブライデンバッハの『聖地巡礼』でしょうか。シュパイヤーのドラーハという出版社が一四九〇年に刊行したもので、折りたたみ式の大きな版画のついた素晴らしい本です」(ウンベルト・エーコ/ジャン=クロード・カリエール『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』工藤妙子訳, 阪急コミュニケーションズ, 2010, p. 59)。

*3:Ray Bradbury, Fahrenheit 451, Ballantine Books, NY: New York City, 1953; trans. 『華氏451度宇野利泰訳, 早川書房, 2008.