de54à24

pour tous et pour personne

Vivre sa vie!

 

二月になったばかりだというのに、昼間は南側の窓に加えて東側の部屋で一番大きな窓も開け放つほどに気温も湿度も高かった。夜になってもまだ寒いとは言い切れない、なんとも心地の悪い空気が漂っている──挙げ句の果てに少し前からお囃子が聞こえるのである(節分祭りだろう)。私は冬が好きなのだ。あらゆる雑音を雪にのみ込まれた、冬の街が好きなのだ。冬の寒さは、肉の気配を消してくれる。空気の温もりは、否応なしに死を連想させる。かつて暮らした常夏の街は、一年中温く淀んだ音に埋もれていた。人々の鼓動は遅く、意識は緩み、生と死は不愉快なほどに境界を消失したがっていた。頭上の空や街路の草花が強烈にその生彩を放っているように見えるのは、毒あたりなのだ。景色がいつになく鮮やかに映るのは、それが夏の強い日差しに照らされているからではない。あの麻薬的効用を持つ暑さが毒牙となって人々のからだを指すからだ。よく眼を凝らしてみればいい、冬は夏よりも多彩だ。

 

ジャン=リュック・ゴダールの『女と男のいる舗道』(原題:彼女の人生を生きる:12景からなる映画  Vivre sa vie: film en douze tableaux, 1962)をみた。それが何度目の再生となるのか、もう思い出して数え上げることもできないが、この作品は初期のゴダール映画のなかで私がもっとも愛する一篇である(ちなみにここのプロフィール画像は、Vivre sa vieアンナ・カリーナ)。一度でもヌーヴェルヴァーグ作品を観たことがあるものならば大体想像がつくかもしれないが、この映画について語ろうとするとき、そのあらすじを書き記すことはおそらくほとんどなんの意味もない(したがって、「ネタバレ」というなにやら威圧的な秘密主義もここではなんの効力もない)。ゴダール作品全篇に言えることだが、このような「筋書きによって形づくられていない作品」は、必然的に多くの映画愛好者や文学および映画芸術の研究に従事する者たちによる無限のことばと解釈の生成の水際ともなってきた。そして、半ば以上嘲笑的な意味をこめて、それらの言葉はすべて発せられたが最後、否定されてきたのである。

 

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ENCORE LE JEUNE HOMME - LE PORTRAIT OVALE -
RAOUL REVEND NANA

(若い男 楕円形の肖像 ラウール ナナを売る)

 

[男が読んでいる本:

EDGAR POE ŒUVRES COMPLÈTES/TRADUCTION de Ch. Baudelaire

『エドガー・ポー全集』シャルル・ボードレール訳]

 

(ポー「不思議物語」ボードレール訳)

 

NANA:今日は何をする?

LUIGI:分からない 公園にでも行こうか

NANA:雨が降りそう

 

 眩い明かりの中に 一枚の絵が見えた
 女として成熟した 若い娘の肖像だった
 絵を見るなり私は目を閉じた
 考えるための衝動的な動作だった
 錯覚でない事を確かめ
 そして冷静に 的確に 見つめるためだった
 また私は肖像画を じっと見つめた
 確かに若い娘の肖像だった
 肩から上だけを描いた ビネットと呼ばれるスタイルで
 トマス・サリー風の画風だった
 腕も 胸も 美しい髪も背景の影の中に
 溶けこんでいた
 芸術作品として 最も美しい絵と思われた
 しかし私の心を 揺さぶったのは
  絵に描かれた女の顔の 美しさではなかった
 ましてや私の幻想が 生きた女の顔と 見誤ったわけでもない
 やがて絵の持つ効果の 秘密に満足して 私は身を横たえた
 生きているような表情
 生命のある表情
 それが絵の魔力だった

 

NANA:あなたの本?

LUIGI:ここにあった

NANA:タバコくれない?

LUIGI:私達の物語だ 画家が妻の肖像を描く 続けようか?

 

 実際 その肖像画を見た人は 生き写しと讃えて不思議がり
 画家の深い愛のなせる証拠と噂し合った
 だが やがて 作品の完成が近づくにつれ 小塔は閉じられた
 画家はカンバスから 目を離さなかった
 彼は気づかなかった
 カンバスの色合いが 妻の両頬から引き出されたものである事を
 何週間もが過ぎ あとは口元に一筆と 目の辺りに一色を
 残すばかりとなった時
 女の魂はランプのしんのように燃え上がった
 最後の一筆 最後の一色が 加えられた
 画家は一瞬 恍惚として 立ちつくしていた
 だが 次の瞬間 絵を見つめたまま
 驚きに身をおののかせ 叫んだ
 これは生き身だ!
 ふと愛する妻の方を 振り向いた
 妻は死んでいた

 

NANAルーブルへ行きたい

LUIGI:美術館なんて退屈さ

NANA:なぜ? 芸術 美 それが人生!

    大好きよ

LUIGI:愛してる

    一緒に暮らそう

 

ジャン=リュック・ゴダール『男と女のいる舗道』〈エピソードⅫ〉) 

 

ナナと言語哲学者ブリス・パランの会話よって成り立つ〈エピソードⅪ〉に続くのがこのナナとルイジという恋人たちの不思議な掛け合いである。この〈エピソードⅫ〉はふたりの掛け合いといくつかの挿入によって成立しているのだが、そこにあるのはあたかも「話せば話すほど、意味がなくなる」(〈エピソードⅠ〉ナナの台詞)未完成の会話、あるいは中身が皆無の純粋に形式的なだけの会話なのである。これは、内容に富み、形式すらも内容によって導かれている会話のシーン、すなわちその直前の〈エピソードⅪ〉と対比されることで尚更に際立っている。全部で13の断片的な挿話的エピソードによって構成される『女と男のいる舗道』おいて、〈エピソードⅪ〉はもっとも哲学的で知的な時間であり、それと同時に、ある意味ではもっともスペクタクルの形式(すなわち、多くのハリウッド映画が採用する音声による会話の連続のみで物語が進む形式──ゴダールはハリウッド的な「映像に従属した音声」について常に犀利な意識を向け続けている*1)が強められた箇所である──哲学的深長さを含んだ内容とスペクタクルの形式とは、もっとも相反する組み合わせの一つであるのだが。『女と男のいる舗道』についてのコメンタリーとして最も有名なもののひとつであるスーザン・ソンタグのエッセイも、映画の惰性としての音声=会話について次のように述べている。すなわち、「無声映画では言葉は演技者の演技か、さもなければ会話についての説明のいずれかでありえたが、トーキーでは、言葉は(ドキュメンタリーを例外として)ほとんどもっぱら、いや、まったく圧倒的に、会話だけになった」(スーザン・ソンタグゴダールの『女と男のいる舗道』」, 『反解釈』海老根宏ほか訳, 筑摩書房, p. 320)。

 

それに対して〈エピソードⅫ〉においては、音声と映像は一度も同期されず、音声と映像のモンタージュが展開される。青年が読み上げるのはポーの作品『楕円形の肖像』であり、それはあたかもそこに映し出されるナナとルイジ二人についての話のようだが(ルイジは現に「私達の物語だ」とささやく)、しかし二人とはまったく無関係だ──音声と映像が無関係なように。朗読が一区切りしたところでようやく訪れる恋人たちの会話には、けれども音がない──「愛の言葉は音声としてはまったく聞こえてこない」(ソンタグ, op. cit. p.320)。やがてなにもかもを覆い隠してしまう「愛してる」ということばの交換──寸前には、「美術館なんか退屈さ」というルイジと「芸術 美 それが人生!」と言うナナの不穏なすれ違いがあったのに。ルイジは、ナナの人生を退屈だと言ったのに──「愛してる」。

 

「なぜ話をするの?」──ここまでくるとこれが主人公ナナの切実な問いであると同時に、この映画自体の、あるいはゴダール自身の切実な問いでもあることが理解できるだろう。言葉は愛のようなものである、言語哲学者ブリス・パラン(彼は実際にゴダールが哲学を学んだ師である)は言う。存在そのものが愛のようである言葉が「愛してる」というのは、だからあんなにわざとらしく、誤りや嘘となりやすいのだろう。〈エピソードⅪ〉は、従って、ナナの内面の吐露であるようにみえて、それは映画そのものについての会話でもあるのだ。

 

 NANA:何も言わずに生きるべきだわ 話しても無意味だわ 

PARAIN:人は話さないで生きられるだろうか

 NANA:そうできたらいいのに

PARAIN:いいだろうね そうできたらね 言葉は愛と同じだ
       それ無しには生きられない

 NANA:なぜ?言葉は意味を伝えるものなのに 人間を裏切るから?

PARAIN:人間も言葉を裏切る 書くようには話せないから
       だがプラトンの言葉も私たちは理解できる
       それだけでもすばらしいことだ
       2500年前にギリシャ語で書かれたのに
       誰もその時代の言葉は正確には知らない でも何かが通じ合う
       表現は大事なことだ 必要なのだ

 NANA:なぜ表現するの? 理解し合うため?

PARAIN:考えるためさ 考えるために話をする それしかない
       言葉で考えを伝えるのが人間だ

 NANA:難しいことなのね 人生はもっと簡単なはずよ
       「三銃士」の話はとても美しいけれど 恐ろしい

PARAIN:恐ろしい意味がある つまり・・・
       人生をあきらめた方がうまく話せるのだ 人生の代償

 NANA:命がけなのね

PARAIN:話すことはもう一つの人生だ 別の生き方だ 分かるかね
       話すことは 話さずにいる人生の死を意味する
       うまく説明できたかな
     話すためには 一種の苦行が必要なんだ
       人生を利害なしに生きること

 NANA:でも 毎日の生活には無理よ つまり その・・・

PARAIN:利害なしに? だから人間は揺れる 沈黙と言葉の間を
       それが人生の運動そのものだ
       日常の生活から 別の人生への飛翔
       思考の人生 高度の人生というか
       日常的な無意識の人生を抹殺することだ

 NANA:考える事と話す事は同じ?

PARAIN:そうだと思う プラトンも言っている 昔からの考えだ
       しかし思考と言葉を区別することはできない
       意識を分析しても思考の瞬間を言葉でとらえているだけだ

 NANA:嘘をつきやすいこと?

PARAIN:嘘も思考を深める一つの手段だ
     誤りと嘘の間に大きな差はない
       もちろん日常的な嘘は別だよ
       5時に来ると言って来ないのはトリックだ
       微妙は嘘というのは ほとんど誤りに近い
       何かを言おうとして 言葉が見つからない
       さっき君が言ってたことがそうだね
       言葉が見つからないことへの恐怖

 NANA:言葉に自信が持てる?

PARAIN:持つべきだ 努力して持つべきだ 正しい言葉をみつけること
       つまり何も傷つけない言葉を見つけるべきだ
       傷つけない・・・ 殺さない・・・

 NANA:つまり誠実であることね
        ある人が言ってたわ "真実は誤りの中にもある"って

PARAIN:その通り それがフランスでは理解されなかったことだ
       17世紀には人は誤りを避けることができると
       信じた者もいたが・・・ 不可能なことだ
       なぜカントやヘーゲルなど ドイツ哲学が生まれたか
       誤りを通じて真実に到達させるためだ

 NANA:愛については?

PARAIN:大事なことは 正しい思考と判断の原理
       ライプニッツの充足理由律 永久真理に対する事実真理
       日常的人生 そういった考えが ドイツ哲学で発展した
       現実は矛盾も可能な世界として認識されうる 本当だよ

 NANA:愛は唯一の真実?

PARAIN:愛は常に真実であるべきだ 愛するものをすぐ認識できるか
       20歳で愛の識別ができるか できないものだ
       経験から ”これが好きだ” と言う 曖昧で雑多な概念だ
       純粋な愛を理解するには 成熟が必要だ 探求が必要だ
       人生の真実だよ だから愛は解決になる 真実であれば

 

ジャン=リュック・ゴダール女と男のいる舗道』〈エピソードⅪ〉より)

 

数年前、大学のゼミで「エッセイ」の課題がでた。これはそのまま卒業論文の動機となるものであったため、先を見越しながら、かつ400字というそれ以上でもそれ以下でもない厳密な字数制限をクリアして書かなくてはならない課題だった。この毎年恒例の課題が発表される少し前から、私は突然ものを書くことができなくなっていた。今思えば、明らかにそれ以前から続いていたうつ状態がさらに深刻化していった徴候であったが、とにかくこれはひどく恐ろしい現実であった。いかなる文章であっても、綴ろうとするとどうしてもことばがでてこない。時には会話にすら支障をきたしていた。そしてなにより、ものを考えることができなくなっていた。なにかについて考えようとしても、その一秒後にはその「なにか」が頭のなかで霧のように分解され、跡形もなくなってしまうのだ。それが何十回、何百回と続き、私はますます気分が悪くなった。なにかを考えることができないというのは、存在そのものの破綻を意味するということを、ほとんど狂気の内に感じた。

 

しかし、課題となっていたエッセイについて、私はどうしても書いておかなくてはならないと感じていた。それは課題であったからではなく、この書くための機会を棚上げしてしまったら、私は今後一切なにかを考えたり書いたりすることができなくなるような気がしていたからだった。とは言え、ひとつの文章すら書き終えられないのに、400字という字数は絶望的な苦悩以外のなにものでもない。後にも先にも行けなくなった私が最終的に下した判断は、いわゆる「引用」あるいは「モンタージュ」という方法だった。自分で書くことができないので、部屋のある特に気に入っている本をすべてひっぱりだし、その本からことばを抜き書きし、400字をぴったり埋めた。ゼミの教官は、それをみて「ジョイスのようだ」と言ってくれたりしたが(彼はゼミ生にとって父親のような存在なのである)、もちろん、それはつぎはぎだらけの文章で、まったく意味が通ってない。よく言えばジョイス的な現代詩だが、私はそれを狂気の形象化だと思った。

 

この時私の精神的吃音をもっとも救ってくれたのが、他でもないジョルジョ・アガンベンの短いいくつかのエッセイと、ゴダールの映画であった。このふたりの優れた文化人については、彼らの仕事が徹底的に言葉の文法や思考の論理に基づいているものでありながら、同時にそれらのなかには収まらない異質なものがその作品から横溢している、という唐突な確信を私はいまでも固持している。『女と男のいる舗道』には、あのときのエッセイに入れ込んだ言葉がいくつかあったったはずである。そのことばを探り当て、拾い集めるために、私は作品に埋め込まれたストップアンドスタートの連続をさらに自らの手で拡張し、映画をぶつ切りに粉々にしながらみた。まるで映画の裏側や内側をみようとしているかのように。それほどまでに執拗に見たはずの『女と男のいる舗道』を、あれから数年後のいま改めてみると、しかし、そこには私が見知っているものがほとんどなにもなかった。私はいったいこの映画のなにを見ていたのだろうか──あのときの私はまるで目をとじて画面をみていたかのようだ。見るというのは、確かに、記憶よりも忘却と結託するのだ──つまり、隠蔽記憶。見たことは忘れることによって、意味となり、見ることの主体の人格となるようである。私は、かつて見たこの作品を判別できないほどに、それを自分の人格としているのだ。Vivre sa vie!

 

 

 

*1:映像と音声が動画のなかでシンクロしている(映像に従属する音声)というのは、トーキー以後のことであり、それは映画をはじめとする映像作品にとって必ずしも当然自明なことではない。むしろ、トーキー以降は音声と映像を(どちらかがどちらかに従属するというのではなく)等価なものとして捉えるべきであるという主張が度々なされている。あるいはこれを、映画における映像の自律性の問題、あるいはまた他の芸術様式に対する映画の自律性の問題と呼ぶことができるだろう。

閑話休題。話は変わるが、美術史においてクレメント・グリーンバーグのモダニズム絵画批評以来、「芸術の自律性」ということが、ある種の痼りのように今でもあちこちで言及されている。そしてそれは、ほとんど必ずと言っていいほど、それを発した研究者たちを吃らせるのである──芸術と自律ということを誠実に考えれば、「芸術の自律性」という晦渋さの後にはあらゆる論述を一度は破棄するしかない。この話を改めて思い出したのは、ほかでもない、STAP細胞と割烹着(報道)の是非についてのいくつかの物言いに触れたからである。この場合、少なくとも二段階(1. 研究やその成果に直接関係のない研究者についての個人的な報道は必要か、2. 科学的研究とその結果において研究者のパーソナリティーはどこまで関与するか)に分けて考えなくてはならないだろうが、問題の核にあるのは取りも直さず「科学の自律性」であると考えられる。無論、あらゆる科学的研究はサイエンティフィック・メソッドに沿った客観的で反復可能という科学の大原則のうちにあり、そこにおいて研究内容の自律性は十分に保証されなくてはならない。しかしながら外部の人間が、研究内容を知るというのは、なにも専門用語や研究を(かみ砕いて)解説把握するということだけを意味するのではないだろう──たとえば文学研究のモノグラフにおいて、テクスト理論にそった作品解釈と平行して作家の伝記的要素が言及されることはめずらしくない。そのような非科学的要素の介入が科学において文学や芸術ほどに意味のあることか否かはケースバイケースだろうが、それでも今日特に文理問わず研究の現場が財政面からの影響に左右されやすいという点でだけとってみても、研究者の伝記的背景が研究内容の成立に無関係ではないことは明らかである。つまり、研究内容以上にキャッチーな研究者の個人情報を報道するということは、(特に研究者側にとってみれば)難しい研究内容──世界水準の研究を数分、数秒の報道にのせるのは殆ど不可能だし、時間的な制限のみならずそれに関する本一冊読んだことのない人々に少しでも込み入ったことを伝えるのはかなり難儀だということは想像に難くない──だけを伝えられるよりも、もしかすると限られた時間のなかで自分たちの研究に少しでも感心をもってもらえるきっかけとなるものを伝えられるほうが、将来的な研究費用の拡大や研究機会を得やすくするのに役立つのではないかと考えているとしても不思議ではない(このことに関しては、クマムシ博士のむしブロを参照:STAP細胞と小保方さんは日本を変えうる - むしブロ)。研究者にとってみれば、大衆メディアを通した報道から得られる利点はおそらくそのようなことが限界であるように映っているのだろうと、個人的には考えている(とはいえ、野次馬的に行きすぎた個人情報を流出するのは論外である)。このように考えると、問題の所在を割烹着やピンクの壁しか映さない報道のあり方に定めてそれを問責していてもまったく意味がなさそうである。代わりに、スクリーン(テレビ画面やPCブラウザ)を見ている間はなにも見ていないのだし、スクリーンの裏になにかあると思ってもそこには何もない、と繰り返したゴダールの話が必然思い出される。「彼[ゴダール]が映画を──そしてテレビを──批判するのは、「見る」機能をないがしろにしてしまったからである」(梅木達郎「映画と盲目性 : ゴダールにおける不可視なもの」, 『 国際文化研究科論集 8』東北大学大学院国際文化研究科言語機能論講座, 2000, p. 33)。私たちはテレビに映し出されたものに関しては、見るということで大方満足してしまう。「見た」という現実が、それ以上のことを「見えなくさせる」のである。割烹着のことしか知らなかったり、それしか知る材料を与えてくれない報道に文句があるのは、割烹着以外のことがそこにある──ないわけがない──ということをちゃんと「見ていない」からではないか。主体はあくまでもテレビ画面ではなく見る人のほうにある。それゆえに見る人間たちは、画面に映された映像を見ることよりも、その先で自らの内に沸き上がる知的好奇心を十分に育てることが重要なのではないだろうか。それは他ならぬ「見る」責任(自分自身に対する責任)なのである。

「ここで重要なのは、スペクタクルの提供が、「見ることの役に立たず」、むしろ「見ない」ためにある、というゴダールの告発である。もしもトーキーが、テレビが、スペクタクルが、商業映画が「見ないこと」の側に位置するのであれば、それらは盲目をつくり出すといわねばならない。むろん人々はなにかを見るために映画館にやってくる。だがそれはなにも見ないで済ますために、たとえば「強制収容所」というものから目をそむけるために、つまり「現実」というものに盲目になるたためであるかもしれないのだ。スペクタクルとともに盲目性が回帰してくる。だがそれは、映画に目が眩んだものの、映像を見つづけることによってもたらせる盲目である」(梅木, op.cit., p. 35)。またゴダールはテレビをして「独裁者」と呼んでいる箇所があるのだが(ジャン=リュック・ゴダールゴダール映画史』奥村照夫訳, 筑摩書房, p. 188)、これに関してはインターネットが張り巡らされて以降、それによって多少なりとも変質しているテレビ事情を加味すると、単に「独裁者」という譬喩は必ずしも正確であるとはいえないように思う。