de54à24

pour tous et pour personne

山を乗り越える技術

ここ数日あまりにも月が強く光るので、カーテンを開けて長らく眺めていた。そのまま眠らぬまま朝になった。朝になるより早く19年前に阪神淡路大震災が起きた時刻になった──来年成人を迎える人たちは、この真冬の未明におきた大震災を同時代的には知らないということか。遠く東北でテレビ越しに日本の一部が崩れ落ちているのをただただ見ていた小学生の私を思い出していた──東日本大震災は反対に関西でテレビ越しに見ていたのだが、そのことを考えようとすると日本の広さや時間の経過が混乱し感覚的にいつどこでなにが起こったのかをまったく掴めなくなった。その混乱と一緒に、徹夜明けの朝にいつも感じる軽い身体の震えと痺れを覚えながら、コーヒーを淹れて豆乳をあたためた。それから、身体を覚ますために三日前に頂いた「ゆめのか」という愛知のいちごを食べた。昨旦の話。

 

 

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読むともなくいくつかの新聞のサイトを眺め、この週末がセンター試験だということを改めて思い出した。私が初めてセンターを受験したのは確か22才の冬であった。高校卒業後すぐ、一緒に帰国した友人たちが東京の大手予備校に通い半年後の大学入試に備えているのを横目に、私もまた池袋のあたりに借りた部屋に暮らしながら隔週の週末だけ予備校に通った。しかし、数ヶ月もするとまた体調が悪くなり、夢にまでみた「ただの高校生」として勉強や遊びに明け暮れていたさっきまでの海外での三年が、嘘か夢か、それでなければなにかの間違いだったかのように思えた。なぜ日本で暮らすと自分はこんなにもダメになってしまうのかと考えると、もう予備校や大学受験どころではなかった──途方にくれて予備校の課題や制作にも手がつかなかった私を見かねた若い講師たちは、度々私をカフェや居酒屋に呼んで、それならばと「日本異国論」を書くことを私に勧めたが、そんなことを考える余裕すらもすでに疲労と不調によって焼き尽くされていた。
 
 
そして冬がくるとすぐ、誰もいない実家に戻ることにした。荷物をまとめて送り出し、数時間電車に揺られて最寄りの駅に降りると、偶然にも中学時代の友人と何年ぶりかに出会った。彼は私が中学の頃からずっと好きだった人だった。ケータイの番号やアドレスを交換し、私たちはそれから度々会っては一緒に食事をしたりお酒を飲んだりし、まもなく付き合うことになった。料理が上手な彼はよくご飯を作ってくれて、二十歳の誕生日には指輪もくれた。一緒にクリスマスツリーを飾ったり、冬の海をみに行ったり、成人式に行ったりもして、7年越しの初恋が実った幸運は想像以上に幸福であった。2年間という期限付きの帰国子女枠を棒に振ったことを両親が嘆くのもきかずに、私はそんな風にバイトをしたり絵を描いたりしながら、数年間なんの目標や夢も持つことなく過ごしていた。しかし、その無目的的時間がなにより名付けようのない私の疲れと無気力を癒やしたのだった。いまが幸せならそれでいいとはまったく思わなかったが、しかし、いま自分が人生のどの辺りにいるかなんて分かるわけもないし分かる必要もないように思えた。
 
 
21の秋、私が7才の時に我が家にやって来た愛犬が亡くなった。長い間不登校やひきこもりであった私がそれでも決して完全にひとりではなかったのは、この愛犬がいつも横にいたからに違いなかった。まだ他の家族が海外にいたため最期の面倒は祖母と私がみた。荼毘に付したあと、骨を抱えて仙台駅から実家のある街まで新幹線で帰った。それまで私にとって非現実で不可能であった孤独というものが、愛犬のいない世界ではただただ現実となり、さらに誰もいない家では私の存在をすら凌駕した。それからの数ヶ月はあまり記憶がないが、身体の痛みがひどくて度々病院に行きながら、その帰りに毎回たくさんのかすみ草を買っていたのを憶えている。愛犬の写真と収骨された壺の横に買ってきたかすみ草を飾った。病院に行く度に段々と花が増えて、一月が過ぎるころにはとうとう部屋中がかすみ草で埋め尽くされた。初雪より少し早い白雪であった。
 
 
大学受験を決心したのは、その秋の雪が積もった部屋の中でだった。それから進学先が決まり、入学式のスーツを買いそろえるまでは3ヶ月か4ヶ月くらいだった。当時、自分の受験の裏で家庭教師をしていた女の子をどうしても公立高校にいれたいという思いを背負ったバイトが平行していたのと、願書をだした大学の入試が2、3日に一度のペースであったの2月初旬にどこかの試験会場でもらってきたインフルエンザに罹って約一月もの間ひとりひっそり40℃にとどくほどの高熱に冒され死ぬ思いをしていたため、ただただ慌ただしかったその冬のことはろくに思い出せる記憶もない。確か、その冬に雪は積もらなかった。
 
 
思えば、私の大学受験は「山を越える」というよりも、「山の前を通りすがる」という感じだった。そこに山があるから、ではなく、そこに山があるのか!という感じだった。時間もないし、日本の高校の勉強は教科書をみたことすらもなく完全に抜け落ちているのでどうしようかと思ったが、センター試験の赤本とやらだけをとにかくすべて解くことにした。そしてそれだけを「入試対策」のすべてとし、予備校はもとより模試の類も一切受けることなくセンターを含むすべての入試を乗り切った。つまり、私の大学入試はすべてぶっつけ本番であった。そして、隔週の週末に通う美術予備校にしか(しかも数ヶ月程度しか)行ったことがなかった私は、大学受験のなんたるかも偏差値のなんたる値かも知る由もなく、ただ締め切りに間に合う大学のほとんどすべてに願書を送った(志望する専攻を美術史・芸術学系に決めたのは、そのときたまたま古本屋で買った今道友信先生の小冊を読んだからだった)。結果、受験したのは約10校20試験くらいだったと思う。両親はいまでも年に一度、話のネタかお茶請け代わりに「なんであんなに受けたの?」と嘲笑的に私に訪ねる。なぜひとが予備校に通うのかを身に染みて実感した、と答えるほかにない。
 
(…)大事なことは、人間の実存の本質は、空間的なものではなく自覚という意識である。もって生れた肉体などとよく言われているが、周知のように物質代謝によって、われわれの肉体の構成部分で誕生の時から同じものなどありはしない。すべて変易し流れ去る中に、変わらず同一性を保つものは、非物質的な存在としての我れそのものの意識しかない。これが人間の実存の核である。ところで、この意識は空間生をもたず、時間性に属するものである。しかがって、技術がもしも経過の消去ということを介して、時間制を減少させてゆくものであるならば、技術関連に成り立っている現代社会は、人間の実存の本質を抑圧しようとする方位にある。(…)これが現代社会における人間の自己疎外の構造なのである。(…)つまり、それは人間の生存にとって必要不可欠な技術関連としての社会が、人間の実存にとっては否定的であるという構造なのである。この危機的な矛盾が、いわば現代の阻害の最大問題ではなかろうか。(今道友信『美について』筑摩書房, 1973, pp. 153-154)
 
 
最初の方に入試が終わっていた実家から通える一番近い大学からは、合格通知と一緒に授業料全額免除の知らせが来ていた。大学に行きたいとは言ってもとにかく勉強は自分でするものだと思っていたのでいつでも使える図書館があればよかったし、願書を書いたりするのもなんだか思いのほか気力体力を削がれるし、また親にお金を出してもらう必要がないのならもうそこでいいではないかと思った。そして親にその旨を電話で知らせたら、頼むからそこだけはやめてくれと数日間毎日電話がきて懇願されたので、不可解ながらもその大学には入学辞退の連絡をいれた。
 
 
センターの点数が8割9割ほぼ満点というのが出てたので、今度はそれを使って東京のいくつかの私立大学の合格をもらった。そのほかにも東京と京都のいくつかの大学の試験を受けて、いくつかの合格通知をもらった。両親が一番よろこんだのが池袋にある某私立大学だったのだが、考えてみれば私は高校をでてすぐ池袋で一人暮らしをし、あっという間に体調を崩し、この街には住めたものではないと数ヶ月でしっぽを巻いて実家に戻った身であった。当然、そんなところで最低4年という途方もなく長いようにみえるキャンパスライフをサヴァイブできる気はまったくしなかった。いい大学かもしれないが続かなかったら元も子もないと両親を説得し、インフルエンザでほとんど立つこともできない状態のなか、これ以上試験を受けに行くこともできなさそうだと判断し、目に入った別の大学の合格通知と入学金振込用紙を鞄に入れ、よろよろとタクシーに乗り込んで入学金を振り込みに行った。
 
 
信じられないことにそのインフルエンザによって私は約一月ほど字義通りまったく寝込み、ようやく立って歩けるようになって以降ものどや耳の奥の痛みに苦しんだ──本当にインフルエンザなのかという大病を案ずる思いで、病院行脚をし、もはやその頃は大学進学などほとんど頭のなかになかった。進学の現実味は薄れ、病院に入院している自分の姿が何度となく頭に浮かんだ。しかし、それから数週間の間に、部屋を決めに行って、引っ越しをして、オリエンテーションだか入学式だかに備えなくてはならなかった。確かオリエンテーションには結局行かなかったような気がするが、それにしても、あれよあれよという間に大学生になっていた。入学式はキャンパスから離れた場所であったため、私が自分の通うこととなった大学を初めて訪れたのは入学式の後だった。ともあれ、軍隊みたいな日本の学校制度のなかで、どうやらめずらしく大学受験にはそれなりの多様性が認められているようだと感じた(さすが「受験産業」である)──とはいえ、22才の新入生が必ずしも長き浪人生活から抜け出してきたわけでも、社会人生活から戻ってきたわけでもないことを理解するのは、学生か教員か事務員かに関わらずなかなか難しかったようで、度々説明を求められた。そうしてたくさんの桜と柳に歓迎されて、私の長い長い学生ライフが幕を開けたのであった。
 
 
人生には、いろいろな山があるけれど、山を乗り越える技術を身に着けることで、同じ高さの山であればどんどん簡単に越えられるようになる。でも、もっと高い山がつぎつぎに現れて、今度ばかりは駄目なんじゃないか、と心配になるときもある。だけど、どうなんだろう。それを登らずに引き返すことなんてできるのだろうか? 遠回りをして迂回することはできるかもしれないけれど、結局トータルすれば同じ労力が必要なのかもしれないし、もしかしたら、遠回りすることで余計にエネルギィを使ったうえ、高いところを見られないことになるかもしれない。そう考えると、登らざるをえないではないか。たぶん、生きているかぎりは、乗り越えていかなくてはいけないものなのだ、という気がする。/というよりも、そもそもその山は、自分が作ってきているんじゃないかな、と思うのだ。/山を乗り越えるたびに満足しているけれど、冷静に観察すれば、一所懸命山を作っている自分が見えてくる。子供のときに公園の砂場で遊んだ、あれと同じだ。トンネルが掘りたいから山をまず作る。でも、その山は自分で作ったという意識はない。ほら、こんな山があるんだよ。どうする? トンネルが掘れるかな。手が届くかな? まるで神様が自分に与えた試練のように、まず山を作っているのだ。(森博嗣『喜嶋先生の静かな世界』講談社, 2013, pp. 319-320)
 
 
私はまだ山を作っている途中なのだろう。私の意識は果たして肉体以上の同一性を持っているのだろうか、怪しいところではある。でも、ゆっくりゆっくりつくりあげてきた山がここにあるから、多分それは私の意識がずっと手放さずに積み上げているものなのだろう。時には山を掛(駆)け、時には山を登り、時には山を描き、時には山の前であたたかい豆乳でつくったカフェラテを飲みながら待つ──そういえば、このよそ見と寄り道と待機が、私が持つ最大の「山を乗り越える技術」であるように思えた。私たちが乗り越えようとする山は、自身にとって意味があるものであればあるほどに、思うよりもずっと高く険しく聳えるものだ。
 
 
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創作であれ、享受であれ、芸術は少なくとも一つの作品において価値を発見する経過を前提としなければならない。そうではないか。われわれは、音楽の場合、演奏の行われる時間を聴き通さなくては音楽を味わうことにならないし、小説もそれを読む時間が必要であり、絵画も瞬間的に見るだけでは何にもならない。鑑賞とは経過を必要とする。つまり、芸術体験は、時間性の保持にほかならない。したがって、芸術は時間性を消去する社会にありながら、この方位に挑戦する一つの行為であると言わなければなるまい。(今道友信『美について』 , ibid., p. 155)
 
 
 (受験生たちがインフルエンザに罹りませんように。)