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pour tous et pour personne

バートルビー、ある友についての覚書

成人式のニュースが度々目に入っていたせいだろうか、なにかがトリガーとなって気付けば尾崎豊についてのサイトを眺めていた。私は、リアルタイムで尾崎豊が歌っている姿を見たことがないし、また親も歌謡曲の類はサザンやユーミン山下達郎などのフォークソングくらいしか聴かないので、尾崎豊という「神」とは今日に至るまですれ違うことすらなかったと言っても過言ではない。勿論、その生き様から死に様に至る彼の人間としての素質とミュージシャンとしての才能が「カリスマ」と形容されるにどれほど値するかということは、テレビなどでたまにだれかが熱心に語っていたりするのを見ていた程度には知っている。しかし私は、尾崎豊という昭和最後のカリスマと太宰治という昭和最初のカリスマをいつの間にか印象的に重ね合わせていて、そこにきてもとより太宰治の中途半端な自己愛文学を十代半ばの最初の出会いからして侮蔑的な思いで一笑に付してきたような感性の持ち主のため、尾崎豊に関してもさして積極的な関心を寄せることがなかった。

 

夭逝や自死がそのひとをどれほど特別な印象に仕立てようとも、概して私がそれに価値を見出さない──もっと言えば、そこには安っぽい嘘しかないと哀れみながら辟易している──のは、それが多少なりとも適当な美談として落ち着いてゆく運命にあるからというのと、そして、ひとりの人間の早世や自殺は、美談はもとより始まりと終わりのあるストーリーには決して収まることがないであろうと感じているからである。死んだ本人が既に語る口も持たないのは言うまでもないが、その死を間近で弔った誰かが平均寿命の三分の一にも満たぬままその生涯を閉じた人間を美しく語ることなど本当にできるものなのだろうか。あるいはそれが病や事件事故ではなく、自ら選んだ死であったならば、何十年という時を挟んだとしても、既に長逝した者について語れる者などどこにあろうか──夭折したひとの後に、その美談を語ることは野蛮である。

  

イタリア思想界を牽引するジョルジョ・アガンベンの仕事には何度となく心を奪われてきたが、メルヴィルの中編小説「バートルビー」論として書かれたアリストテレスより始まる潜勢力[ポテンティア]についての短い論考「バートルビー──偶然性について」(Giorgio Aganben, "Bartleby o della contigenza," in G. Agamben & Gill Deleuze, Bartlby: la formula della creazione, Macerata, Quodlibet, 1993, pp. 43-85)*1もまたそのひとつである*2。この論考は、バートルビーという働きもせずただ事務所に居続ける不思議な青年の存在の謎を追いながら、彼の存在全体が体現する哲学的了見──「〈することができない〉のではなく、〈しないことができる〉のだ」(帯より)──を西洋哲学史に跡付けながら見出していくものである*3

 

存在することができるとともに存在しないことができる存在は、第一哲学においては、偶然的なもの、と呼ばれる。バートルビーが冒す実験は、絶対的偶然性 contingentia absoluta の実験である。(ジョルジョ・アガンベンバートルビー──偶然性について』高桑和巳訳, 月曜社, 2005, p. 58)

 

偶然的なもの(あるいは偶然性)という語義矛盾的存在は、潜勢力と呼ばれるものに関係する。例えば、メガラの徒の潜勢力についてのテーゼによれば、「潜勢力は、それを現実のものとする現勢力という状態においてのみ存在する(…)。潜勢力自体の経験は、潜勢力がつねに(何かを為したり思考したりし)ないことができるという潜勢力でもあるのでなければ、(…)可能ではない」(Op.cit., pp. 26-27)。これをごくごく簡単にまとめるとすれば次のようになるだろう。 ①潜勢力(例えば「書くことができる」)はそれを現実化する現勢力(「書く」)という状態に移行したときに顕在化する。  ②「書く」という顕在的現勢力とは、「書くことができる」と同時に「書かないことができる」という二種類の潜勢力をバックボーンとし、そのうちのひとつ(この場合「書くことがてできる」という潜勢力)が移行したものである。ここでは、反対に「書かないことができる」という非の潜勢力が現勢力として現れる可能性もある(その場合の現勢力は、「書かない」として現れる)。この二種類の潜勢力──潜勢力と非の潜勢力──が同時的に存在することを、第一哲学は偶然的なものと呼ぶのである。

 

潜勢力とは何かについて、アガンベンは先覚者たちのテクストからくつかの譬喩を引いているが、なかでも中核となるのがアリストテレスの『霊魂論』に記された「何も書かれていない書板」(Op.cit., p. 18)である*4

 

じつのところ、何らかのものとして存在したり何らかの事柄を為したりすることができるという潜勢力はすべて、アリストテレスによれば、つねに、存在しないことができる、為さないことができるという潜勢力[デュナミス]でもある。そうでなければ、潜勢力はつねにすでに現勢力へと移行し、現勢力と区別がつかなくなってしまうだろう(…)。この「非の潜勢力*5」は、潜勢力に関するアリストテレスの密かな要である。その説教は、潜勢力自体のすべてを非の潜勢力にするものである(…)。建築家は建築することができるという潜勢力を、それを現勢力に移行させていないときにも保つ。キタラ*6演奏家キタラ演奏家であるのは、キタラを演奏しないこともできるからである。同様に、思考は思考することができるとともに思考しないことができるという潜勢力として存在する。それはちょうど、まだ何も書かれていない、蠟で覆われた書板と同様である(…)。(Op.cit., pp. 14-15)

 

              f:id:by24to54:20140116033845j:plain *7

 

 私はおおよそ7年前から、何度となく言語化を試みてはただ疲労ばかりを残していつも書き綴ることを中断してきたことがある。それは簡単に言えば、7年前に自殺により亡くなった友人のことである。彼女について語ろうとするとき、私は語るべきものを何も持ち合わせておらず、それにも関わらず私はいつもそのことについて(おそらく、一義的には自分のために)きちんとことばにしておかねばならないという思いに駆られている。しかし、やはり彼女がどういう人で、どういう経緯でその生と死の結び目が絡まり、そしてなぜいま彼女はここにいないのか・・・・・・そういう順序だった叙述は、ほとんどなにも意味をなさないし、むしろ不必要にいろいろなものに狼藉を働くようなことですらあると感じてきた。

 

私は、あるとき彼女が死んだことで、自分が死なないでることができているような感覚を抱くようになった。もしかすると、このような感覚を非人間的、とまでは言わなくても、非友人的として咎める向きもあるかもしれない。しかし、彼女の死がなければ、私は私でいまでももっと死に深く侵食された生を続けていたのではないかと思う。肉体が生命活動を停止するのも死であるが、生の呪縛から逃れたいと心の底から思いながらも決して逃げ場のない奈落のような生を続けるのもまた、限りなく死に近い──それは「生きた人間が想像できる死」である。生が呪縛となり、それにとらわれ続けて生きているのは、つまり死に続けているに等しい──生きることも死ぬこともできないという人間のエポケー、あるいはアポリア

 

彼女の死を知ったときに、私の両腕両脚に残されたまだ乾ききらない躊躇い傷がふと意味を変えたような気がした。それは、私がそれ以上死ぬことがないようにと、鋭い刃物から私を護る魔方陣のようななにかとして感じられるようになった──この宙吊りの世界は、それでもタルタロスではない。彼女の死を含んだ私の人生のそれからは、いくら自傷したところで「私は死なないのだ」という明らかな感触を自ずから生むようになった。それはちょうど深い井戸の底の感触である。そしてそれに触れると、そこからまた自分の意志や絶望に関わらず、自然と身体が生のほうへと向けて浮かび上がる。彼女の分まで生きよう、などとはまったく思わない。彼女は彼女で生きて死んだのだ。それ以上、どうしようもないし、おそらくどうする必要もない。私が彼女と関わるのは、彼女の死と私の生はどうしたってそれ以上の関わり合いがないという点までである。

 

少なくともいまこの瞬間までは、自ら死を選ぶことなく生きている私たちは、「死ぬことができない」のではなく、「死なないことができる」のだ。死ぬことができない者が生きているのではない。死なないことができている者が生きているのだ。

 

折りたたんだ紙片から、蒼白な局員が指輪を取り出すこともある──指輪をはめるはずだった当の指は墓のなかで土にかえるとことかもしれない。迅速きわまる慈善によって送られた銀行券のこともある──それによって救われるはずの当の人物は、もはや食べることも飢えることもない。絶望のうちに死んだ人々に宛てられた赦しのこともある。希望もなく死んだ人々に宛てられた希望のこともある。救いのない惨禍に息を詰まらせて死んだ人々に宛てられた良い便りのこともある。生の告知のはずが、これらの手紙は死へと行き急ぐ。(ハーマン・メルヴィルバートルビー」, in ジョルジョ・アガンベンバートルビー──偶然性について』ibid., p. 159)

  

〈生きること〉も〈生きないこと〉もできるという偶然性と、〈生きること〉ができると〈死なないこと〉ができるという潜勢力によって、私は生きている。反対に、〈生きないこと〉ができて〈死ぬこと〉ができた者とは、自死を選んだ者のことである。〈生きること〉ができる者と〈生きないこと〉ができる者、あるいはまた、〈死なないこと〉ができる者と〈死ぬことができる〉者、この二者は互いに現実のものとなった正反対の可能性を持っている──アガンベンはその可能性を、脱創造と呼んだ。その可能性の円環的交換は、死を選んだ者たちと生を選んだ者たちを相互の潜勢力とするのである──生きることができる〈潜勢力〉と生きないことができる〈非の潜勢力〉は循環しながら、ただただいつまでも続いている。

 

彼女の話を具体的に書くのは、やはり美談を語ることの野蛮さという事実の前に、超えられない矛盾と葛藤として屹立している。私が書けるのは、やはり、彼女の死というひとつの死そのものではなく、より一般化された死についてが限界であると感じている。そして私はいつもあるところまでくると、書くことを中断することのほかに方法がないということを覚るのである。この中断、すなわち非の潜勢力について、アガンベンは次のような予言めいた一節を書き記している。

 

書くことを中断してしまうことは、 第二の創造への移行をしるしづける。その創造にあって神は、自分に対して、自分が存在しないことができるという潜勢力を喚起し、潜勢力と非の潜勢力のあいだの区別のなくなった点から出発して創造をおこなう。そこで遂行される創造は、再創造でも永遠の反復でもない。むしろそれは一つの脱創造であり、そこでは、起こったことと起こらなかったことが、神の精神のうちで、もともと単一性へと回復され、また、存在しないこともできだが存在したものは、存在しなかったものと見分けがつかなくなる。(ジョルジョ・アガンベンバートルビー──偶然性について』ibid., p. 84)

 

もうすぐ丸7年が経とうとしている。 

 

 

 

 

*1:邦訳としては、アガンベンの当論文とハーマン・メルヴィルの「バートルビー」を共に収録したものが月曜社から出版されている。ジョルジョ・アガンベン『バートルビー──偶然性について』高桑和巳訳, 月曜社, 2005. なお、当エントリー中のページ数はすべて邦訳のものを使用する。

*2:個人的には未見だが、もしまだどこにも推薦がないのであれば、私はぜひともアガンベンのこの書物をこそ(安直なキャッチコピーで扇動する新書の類いなどを読んでインスタントな感動や感心を得るよりも)、現代日本の引きこもりやフリーターといった社会的に不遇とされている人々に勧めたい。自分たちになにができるのかを考えて(出来ないことばかりを見つけて)焦って安易な絶望に浸る前に、自分たちの存在は一体なにを意味しているのか──つまり、自分たちがいま既になにが出来ているのか──をじっくり考えてみればいいのではないか。なにかを為す(ことでなにかを達成する)ことだけが、可能性ではない。問題は勿論、社会に適応できるか否かだけではない。たとえばそれは、アガンベンが認めたバートルビーという在り方についての記述は、無気力や無欲と称される現代の若者に否応なく呼応する。「バートルビーはまさに、潜在力に対して意志のもつこの優位をあらためて問いに付している。神は(…)自らの欲することしか本当に為すことができないが、バートルビーは、ただ意志なしでいることができる。彼は、絶対的潜勢力[ポテンティア・アブソルタ]によってのみ可能である。しかし、だからといって、彼の潜勢力が実効性をもたないというのでもないし、意志がないからといって現実のものにならずにとどまっているというのでもない。その反対に、彼の潜勢力はいたるところで意志を超え出ている(自分の意志をも、他の者たちの意志をも超え出ている)。カール・ファレンティンの「それを欲するということ、このことを私は欲していた。だが私はそれができるという感じがしなかった」という冗談を転倒して、バートルビーについては、何かを絶対的に欲するということのないままに為すことができること(そしてまた、為さないことができること)に成功した、と言うことができるかもしれない。彼の「しなほうがいいのですが」という言葉のもつ還元不可能な性格はここに由来ゆる。それは、筆写することを欲していない、ということでも、事務所を離れないことを欲している、ということでもない──単に彼は、それをしないほうがいいのである」(Op.cit., pp. 41-42)。

*3:例えば、小泉義之バートルビーについて「バートルビーとは、「存在しないことができる、為さないことができるという潜勢力」をそのまま生きる者、「歩行することができるという潜勢力」を持ちながら「歩行しない者」、あるいはむしろ、歩行しないことができるという潜勢力を持ちながら歩行しない者、あるいはむしろ、歩行しない者であって、歩行しない者ではないような仕方で生きる者である」(小泉義之「ジョルジョ・アガンベン『残りの時』『バートルビー』『涜神』」)と述べている。

*4:アリストテレスの「書板 grammateion」を中世においてさらに展開したのが、ファラーシファ(イスラームアリストテレス信奉者)の君主アヴィケンナである。「子供は、いつの日か確実に書くことを憶えることができるだろうが、今のところは書きものについては何も知らない。そのような子供の条件に似た潜勢力がある(彼はこれを、物質的な潜勢力と呼ぶ)。それから子供は、ペンとインクになじみはじめ、はじめのいくつかの文字をどうにかなぞることができるようになる。そのような子供の条件に似た潜勢力がある(彼はこれを、容易な潜勢力ないし可能的な潜勢力と呼ぶ)。そして最後に、完成された潜勢力、ないしは完全な潜勢力がある。これは、書く術を完璧に操る筆生[スクリプトル]が書かずにいるときの潜勢力[ポテンティア]である」(Op.cit., pp. 18-19)。しかし、アガンベンによれば潜勢力の譬喩としてはアヴィケンナのそれも、さらにはアリストテレスのそれも十分に適当ではなく、むしろアプロディシアスのアレクサンドロスが注記した通り、書板の表面を覆っている蠟の薄い層「蠟膜 epitēdeiotēs[エピテーディオテース]」として語られるべきであったと述べている(Op.cit., p. 13)。

*5:〔訳者記〕アリストテレスに由来する哲学用語としてのイタリア語 impotenza ないし potenza di non (ギリシア語 adynamia)は本書では「非の潜在力」と訳している。通常は「存在したり為したりすることができない」こと、つまり「無能力」「潜勢力のなさ」と解される語だが、アガンベンのテクストでは「存在しないことができる、為さないことができる潜勢力」と同一視されている。(Op.cit., pp. 87-88, 註6)

*6:κιθάρα 古代ギリシャの弦楽器。

*7:Ancient greek statue showing a mythical muse(神話のミューズを示す古代ギリシャの彫像)