de54à24

pour tous et pour personne

ドラえもんはエナルゲイア

久しぶりの雨がしとしとと降り続いた一日。私は雨がきらいではない。自分の名前に「雨」という字が入っていてもいいな、と思うくらい雨を魅力的に思う。10歳かそのくらいの年の頃から、私は雨の日によく幻聴を伴った世界の異変──自分以外の周りの世界が段々と速度をまして、ちょうどビデオを早送りにしているような感じになる──を感じていた。その異変を感じることは、私にとってもはやあまりにも日常であったため、成長してからも特に誰に言うでもなく、「ああまた早送りだ」程度のことを思うに留まっていた。しかしこの夏、いよいよ幻聴がひどくなり、雨の日ではなくても、例えば自分でベランダの植物に水をやっているときなどにも起こるようになり、それによって割と精神が混乱をきたしたため、初めて主治医にそのことを話した。それから、両親にも──すると、母親も知らなかったようだが実は父親も幻聴持ちだということが発覚し、私はそれを「幻聴の逆遺伝」と呼ぶことにした(私の幻聴のほとんどは水の音が引き金になって、人間以外が出す音が頭のなかで声になって聞こえるというようなものだが、父の幻聴は「お坊さんの読経みたい」なものだというので、ちょっとだけ哀れんだ)。

 

低気圧のせいだろうか、目覚めてから何時間たっても頭も身体も寝起きのコンディションから抜け出ない。ただただ瞼と身体が重たく眠たい。しかし、この眠気と倦怠を払拭しようと再び一度眠りに身を委ねたいと思っても、せいぜいのところ半覚醒状態のまま床にころがることしかできず、その間の頭のなかでは、夢がいかに叙情的形態から遠く写真や絵画、無声映画的イメージに近いものであるかを誰かが熱心に力説している──一体このひとは誰なんだ……何度追い払っても戻ってくる。そして、眠気はまったくきえる気配がなかった。冷めないようにサーモスのポットから小さなカップに注いだ濃いめの熱いコーヒーやそれに同量の熱い豆乳を加えたものをゆっくり交互に何杯か飲んだ。コーヒーの味はよくわからなかったが、豆乳の風味が柔らかくおいしかった。普段なら日中の陽によって温められる部屋は、今日のように昼間太陽のない日には一段と冷え込む。コーヒーがすぐに冷めてしまうのを感じてそのことを思い出していた。

 

頭のなかの小人は、夢イメージにはシークエンスがないのだということを、いろいろなパネルを取り出し指差しながら、説明していた。そういえば夢イメージの話は、大抵の場合心理学と精神分析の独壇場だが、それは往々にして記憶と関連しているものである。記憶というものについて学ぼうとするとすぐに気づかされるのは、それが頭にある倉庫のようなどこかにそっと貯蔵保管されているイメージでは<ない>ということである。記憶については、むしろ「想起」*1という段階がそれを思い出したり語ったりするものに対して直接的に影響を及ぼす。換言すれば、貯蔵庫のなかに記名され保持されている記憶が私たちの意識にのぼるとき、それは「何の what 記憶なのか」ではなく「どのように how 思い出された記憶なのか」という問題系であるということである。その意味で想起はつねにフォーマリスティックな段階といえるし、想起の如何によって記憶の WHAT はどのようにでも変わる可能性がある。そしてその意味で、記憶はつねに潜在可能性でもあるのだ。

 

この記憶の存在論は、個人の記憶だけではなく、集団の記憶(ただし、非ユング的意味において)にももちろん当てはまる。たとえば、香川檀氏の博士論文を書籍化した『想起のかたち──記憶アートの歴史意識』は、ナチズムホロコーストヒロシマナガサキ)という人類の根源的過去=現実を扱った芸術作品について論じながら、歴史を語る権利は歴史家だけにあるわけではなく、むしろ歴史記述が必要とする「言語」の限界故に到底表現できない「歴史のかたち」を探るという視座において、リアルとフィクションが綯い交ぜになったところで生成される過去や記憶、痕跡とはなにか、それらが絡み合うイメージとは如何なるものかということを「想起」の観点から論じている。(Cf. 『想起のかたち』の下敷きとなっている武蔵大学の紀要に寄せられた論文。香川檀「痕跡とレトリック──現代美術による歴史的想起」武蔵大学人文学会雑誌, No.37, №1, pp. 15-62) 

 

彼[カルロ・ギンズブルグ]は、痕跡を集めて読解することによって歴史の細部を科学的に再構成する方法について考察をつづけ、痕跡それ自体は不透明な「徴候」にすぎないとしても、批判的距離をおいてそれを読解する読み方があることを、歴史物語をめぐる過去の言説のなかに探っていった。彼は書いている。「歴史的信仰は、懐疑主義が繰り返し申し立てる異議によって醸成された不審を乗りこえ、紙や羊皮紙に記されている記号、貨幣、時が経過するなかで朽ちてしまった彫刻の断片、等々を一連の適切な操作をつうじて目に見えない過去に結びつける」*2。それはまさしく、痕跡を手がかりに不可視の過去を「推論」しようとする思考法につうじるのだ。/歴史の「真理」に到達するための素材は、かならずしも「事実」である必要はないという。フィクションとして構成されたものであっても、そのなかに時代の状況、たとえば習俗や習慣に関する情報などが、作者が意図的に構成したストーリー展開にとっては副次的な情報のなかに読み取ることができる。こうして、歴史的信仰は「わたしたちが真理を作り話にもとづいて構築することを可能にしてくれる。真実の歴史を偽りの歴史にもとづいて構築することを可能にしているのだ」*3。このようにして、過去に起きたことをまざまざと生彩あるかたちで認識し、そこに情緒的な、すなわち感情移入の余地すらもが生まれる。事実と虚構(作り話)のはざまから、歴史への真の意味──「真実効果」──が醸成されるのである(ギンズブルグはこれを「エナルゲイア」という古代の概念のなかに求めようとしている*4)。(香川檀『想起のかたち──記憶アートの歴史意識』水声社, 2012, p. 87)

 

 

香川氏も大きな霊感を得たと思われるギンズブルグやポール・リクールの仕事は、記憶はもちろんのこと芸術作品をもまた、単なる作家の所有や観者の愛翫から解放し、私たちがみずから今はなき過去を現実として生きることを可能とする(かもしれない)ことが、実に力強く述べられている。タイムマシーンやどこでもドア、さとりヘルメット等がまだ登場しない時代にいる私たちにとって、いわば芸術作品や過去の記憶を痕跡としてとどめる場所は、時空や人体の制限を通り抜け、見たこともないなにかを見ることを可能にするちょっとした異次元への誘いなのであろう──まさに、みんなが大好きなプルーストのマドレーヌである。

 

考えてみれば、幻視や幻聴といった幻覚も、ギンズブルグ的な解釈にかければ、ある種の「徴候」なのであり、なにかの「痕跡」なのである。それらが示唆するのは、なにもサイケデリックで超現実的なものではなく、広く大きな意味での現実──私たちは身と精神の安寧のためいつもはだいたい「狭く小さな現実」で生活している──なのだろう。不可能を可能にするスーパーロボットドラえもんを乞い求める幻覚体験のないひとが、幻視や幻聴を日常的に経験したら、それでもドラえもんをほしがるだろうか。おそらく、それよりも先に自身の経験という現実に現れた幻覚体験について向き合おうとし、それによって現れる非物理的世界を探索し始めるのではないだろうか。だとすれば、ドラえもんNASA的な開発の対象というよりもむしろ、すでにつねにこの世界に存在する幻覚体験のある種の具現化なのかもしれない。

 

 

 

*1:思い出すこと。前にあったことを思い浮かべること。また、心理学用語では、第一段階の記名、第二段階の保持のつぎにくる記憶の第三段階で,記銘され保持された経験内容を再現することを意味する。

*2:Carlo Ginzbrug, Il filo e le trace, Milano: Giangiacomo Feltinelle Editore, 2006. カルロ・ギンズブルグ『糸と痕跡』(上)上村忠男訳, みすず書房, 2005, p. 73.

*3:Op.cit..

*4:Op.cit., p. 20. 「ギンズブルグによれば、「エナルゲイア enargeia」とは「明晰判明なもの、いきいきとした印象をあたえるもの」の意味であり、ホメロスの著作のなかで、手稿によって「エネルゲイア energeia」という「行為、活動、エネルギー」を意味する語に解されているが、これは概念の混合であるという」(香川 2012, p. 318)