頌春
誰かがいなくなると、必ず誰かが得をして誰かが損をする。この得失は、経済的得失や身分的得失にかぎらない。喜びの感情、精神的開放感、時間的空間的余裕などは、利得であるし、悲しみの感情、精神的喪失、寂寞とした時間空間などは損失である。これらは、誰かが社会的に存在しなくなることがもたらす社会的得失である。このレベルにおいては、失踪と死亡は大差がない。誰かがいなくなることは、誰かが社会的諸関係から脱落して消え失せることに等しいからである。/ところで、誰かが死ぬことは、誰かが社会的に存在しなくなることでもある。誰かが死ぬことは、誰かと誰かの社会的諸関係がなくなってしまうことでもある。そのために、誰かが死ぬと、誰かが得をして誰かが損をするようになっている。しかし、誰かが死んだからといって、誰かが〈生きる〉上で得をしたり損をしたりするわけではない。あくまで誰かが〈生活する〉上で得をしたり損をしたりするだけである。誰かの死と誰かの生は断絶しているが、誰かの死と誰かの生活は断絶しているどころではない。だから、誰かが死ぬと、その「死」を望まなかった人以外に、その「死」を潜在的に願望していた人が社会には必ず存在していることになる。そのように社会はできあがっている。ここには何の罪も何の無意識もない。いたって平明な事実があるだけだ。
(…)
死者と死体の分離、墓所と埋葬地の分離、死者と生者の交流、このようなことを神話や宗教は語ってきたし、このようなことが死生をめぐる言説の主題になってきた。そしてそれが文化だと語られてきた。しかし私には妄想だとしか思えないし、そこから危険な妄想が発生するとしか思えない。だから私は、〈死者=死体〉を直視することだけが、守られるべき文化だと考えたい。私は、〈死者=死体〉を埋葬地まで野辺送りする労働者だけに敬意を感ずるし、野辺送りに連なる生者の絆だけを信じている。
(小泉義之『弔いの哲学』河出書房新社, 1997, pp. 32-37)