de54à24

pour tous et pour personne

早すぎる夜の訪れ

雪が降るかと思いきや、昨日の午後は冷たい霙と雨が街中で交互に降り注いだ。今年の年末は各地で雨が多いようだ。これもまた、人の暮らす街角や暦も知らぬ自然の大地が今年一年の一切を洗い流しているということか、気づくとそんな年の瀬の凍雨に聞き入っていた。そして、日がとっぷりと暮れるころ、寒雨もやがてやんでいった。

 

一昨日の晩は一睡もできぬまま、夜が明けた。眠れないのは辛いが、いつの季節も朝日が昇り街が白んでゆくその姿をゆっくりと眺めることができるのはそれだけで心嬉しいものである。殊、いまは冬である。「冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜などのいと白きも、またさらでも いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃・火桶の火も、白き灰がちになりぬるは わろし」。年季の入った不登校児が卒業を目前にした中学三年の終わりになってようやく出席が適った国語の授業では、通称ヤクザと呼ばれる教師が教室のギャルたちに『枕草子』をギャル語に翻訳させていた。なぜかV6を絶対に「ブイロク」という大変おもしろい先生で(その年の運動会で教員たちがV6を踊ったのである)、私もすっかり古典や漢文の美しさに魅せられていた。『枕草子』の冒頭は、そのときに覚えてからいまでも諳んじられる。

 

ひとしきり家事や用事を済ませてから、前日より何度も冷え込んだ空気に飛び込むように外へ出た。ワインレッドのタートルネックに黒のカシミアのカーディガン、同じく黒のベルベットのスカート、黒のストッキングとレッグウォーマー(さすがに寒かった)、高めのチャンキーヒールのパンプスを穿き、長めのコートとマフラーで身を包んだ。私は黒色の服が好きだ。幼い頃、父はなぜか何度も「ママは魔女なんだよ」と真剣に私に語りかけていた。

 

春からずっと行きたいと思っていたとある神社へ出かけた。この街にある神社で私が特に好きな神社のうちのひとつである。この街に越してきてから私は度々その神社へ出かけた。時には友人たちと満開の花々を見上げながら酒をのみ、時にはひとりで散歩に出かけ、時には家族や親戚のためにお守りを受けに行った。昨日は、お礼参りのためにそこを訪れた。どうしても年内のうちに行っておきたかった。ちょうど雨の強い頃で、境内にはほとんど人がなかったが、それでもすでに新年のための準備が着々と進められていた。門には白馬の絵が描かれた大きな絵馬が掛けられている。白馬とは、いかにも王子様との出会いの予感、多くの娘たちが除夕に白い息を吐きながら寄ることだろう。

 

それにしても、ここ一週間で何度眠らぬままに夜を越しただろうか。ある朝目覚めてから次に眠るまでは40時間。丑三つ時まではあっという間だが、最近はそこから数時間の過ごし方にも随分慣れてきた。体は消耗しているはずなのに、頭は随分くるくると動き回り、心もそれに油を注ぐようにどことなくはしゃいでいるのが自分でもよくわかる。躁状態──そういえば、私は双極性障害というものについていままであまり熱心に勉強してこなかったように思う。いや、事実まったくといっていいほどしていないのだ。私が「うつ病」や「双極性障害」について込み入った記述をしないのも大半はそのためである。それは半分意図的であり、半分無意識であるだろう。私は自分の病気について、基本的に診察室で主治医が私のために話すことだけを聞き、私もまた自分の不調をできる限り主治医に伝わるように話すための努力だけをしている。私は「双極性障害」についてするべき努力はそれ以上でも以下でもないと考えている。

 

もちろん、精神医学史や病理学的なことなどについて学ぶ気概はあるつもりだし、新聞などが書く昨今の精神疾患事情程度のことはそれなりに知っている。私が自分の病気についてほとんど学んでいないというのは、「双極性障害」とはどういうものか、その障害の経験者はどのように生きているのか、そいういった病気の理論や他人のお話にはあまり立ち入らないことにしているということである。なぜかと聞かれれば単純な話で、この種の障害や病気には(今のところ)確かなことのほうが少ないからということと、同じ病名が与えられていてもその現実はひとによって千差万別であるということ、このふたつの理由からである。

 

理論を頭で学んでしまうと、現に自分に起こっている症状という現実を、その理論や特別な用語(ことば)によって捉えてしまうため、自分の状態を自分で体験できなくなる。また、主治医に話すときも私の症状の経験ではなく、誰かのことばで話すようになる。どこかに書いてある障害の理論があらゆる症状を解消する万能かつ完璧なものであるのならばいざ知らず、まだどこの医学書も多くの精神疾患をいかに扱うべきかと右往左往している最中、なぜ私はそれを読む必要があるのか。そういうわけなので、この種の疾患に限って言えば、誰か他の病床体験記もまったくあてにならない。そういうものを読む時間は、自分の心や身体というものをどう捉えるか自分なりに試行錯誤するか、あるいは19世紀のとある美術史家が精神病院に入院していたとき言及したイメージにおける「混合状態」というのは、なにを示そうとしていたのか──双極性障害には躁と鬱という二つの異なる病相が同時的に現れる「混合状態」という病相があり、それは躁と鬱のどちらの特徴も備えながら、そのどちらとも異なるものである──ということを文献を紐解きながら考えるのにあてたい。

 

ということだけである(私が持つ理念はつねにこの程度には単純であるし、重要なことはできる限り単純であれというのが私の中核的理念である)。

 

しかしひとつ例外があるかもしれない。 私には、ここ10年ほど手紙によって交友を深めてきた友人がいる。出会った当初はもちろん知らなかったのだが、彼女もまた偶然にも双極性障害という診断を受けていた。双極II型と診断されている私でも、鬱病相より躁病相が顕著なときにはほとんど寝食を拒み、月に100万円以上の買い物をしたりする。彼女の場合はI型なので、買い物は勿論、家族や友人に非常に攻撃的になるなど、躁状態のときの自分の生活態度がさらに手に負えないようである。彼女の病歴は私と知り合うずっと以前からのものである。彼女は私と同様、高校を出てから数年間、朦朧と格闘しながら東京の片隅でひっそりと過ごしていた。そして私たちは大体同じ頃に、それぞれ別の場所で大学に進学した。彼女は芸術大学で、いわゆるコンテンポラリーアートを学び、制作に励んでいた。その間も私たちは一月に一、二通の書簡をやりとりし、自分の制作や研究についてなどを文章(や彼女の謎のイラスト)を通して語り合っていた(私たちは今世紀には実に稀有な存在となった紙の手紙を愛する文通者たちである)。

 

その昔、特に彼女がしばしば私に向けて書いていたのは、ケイ・レッドフィールド・ジャミソンという米国の躁鬱病経験者でもある臨床心理士(ジョンズ・ホプキンズ大学医学部精神科教授、UCLA感情障害クリニック前所長)についてである。日本でも既に、『躁うつ病を生きる──わたしはこの残酷で魅惑的な病気を愛せるか? 』『早すぎる夜の訪れ──自殺の研究』『生きるための自殺学』の翻訳があり、彼女はそれらをいつも脇に置いているようであった。とはいえ、イメージ先行型の彼女は、ケイ・ジャミソンの理論がどうとか、躁鬱病がなんであるかとか、そういうことは一切書かなかった。しばしばケイ・ジャミソンに言及する彼女の文面は、「ああ、ケイ・ジャミソンさんは今どうしてるのかなあ」とか「ケイ・ジャミソンさんは元気だろうか」とかそういうことで、その文面は殆どケイ・ジャミソンさんの友人のもの然である。私も私でそれに関しては「元気だといいねえ」というくらいが関の山である。

 

大学を卒業した彼女は田舎の実家に戻り、療養を続けながら制作をしている。東京のギャラリーに所属し、マネージャーに個展などに向けて制作をきちんとするようにと言われているようだが、いまもまだ精神的に不安定で締め切り間近でもなにも手に付かなくなることがあるようだ。そういうときにはいつも、あまり多くを語らない手紙が送られてくる。体調が悪いときは手紙の文字が斜めに曲がっていたり、誤字をぐちゃぐちゃと消した跡がそのままになっている。少し上向きなときは、いつもは登場しない人物が出てきたり、家の後ろに流れる川や周りを囲む森に入って撮った写真を同封してきたりする──学生時代からしばしば、そこで見ているものであろう木々や花々が彼女の作品のモチーフとなっている。つまり、そこに書かれた彼女の近況が、私が唯一読む、だれか他の双極性障害者の手記なのである。

 

私たちはいつも、タイムラグのあることばの交換で慰め合い、孤独の絶対性を確かめ合ってきた。この手紙に書いたどれくらいのことが相手に伝わっているのかわからない。しかし、それでいいのだ。そもそも誰かと交わされることばの有用性の限界は通常私たちが考えいるよりもずっと手前にあるものである。いつか両方がきらびやかな東京の夜の真ん中を怯えずに歩くことができるようになったとき、一緒にすてきなバーに入り、やさしく発光するような色鮮やかなカクテルを飲みましょう。これが私たちがずっと忘れることのない唯一の約束である。病気が治ることより、ルビーのようなカクテルで乾杯することのほうがずっと大切なのだ。

 

こんなことを書くのは、ほかでもなく今日が彼女の誕生日だからである。年末年始の挨拶を兼ねて私もまた彼女に手紙を書こう。
Happy Happy Birthday for my beautiful friend❀:*..

 

君は覚えているか?君はまったく理解できず、自分の恐怖が増大しつつあるのにも気づかなかった。快楽の感覚が君の失墜の自明性を照らし出していた。現実的なものに対する欲望の優越は君にこう確認させるためのものだった。君の官能的な感情に見合った事物はひとつもなく、君にとってその感動は、身体的な現実に未知の語法を語らせるためのひとつのやり方でしかないのだ、と。肉のイメージをともなって地上の眠気が差し出すこの両腕、君はそれを芸術のもっとも熱狂的な形態のなかで認識しなければならない。君の眼を快楽で溺れさせる深遠なる緑、それは森の仮象をまとった一本の樹木が増殖していくヴィジョンである。

芳香ゆたかな庭

彼女は私の肉体の表面に浮かぶ私の誕生の空である。


そして、見知らぬ鳥たちがとまっている一本の木に抱かれて眠る空の平原・・・・・・

(…)


芸術家の現実は、その他の人間たちにとっての可能性である。

 

(ジョー・ブスケ『傷と出来事』谷口清彦/右崎有希訳, 河出書房新社, 2013, pp.28-29)