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       Keiichiro Shibuya - ATAK015 for Maria - Our Music ... 

 

その頃私は睡眠薬を飲み干してからベッドに横たわり、毎晩のように渋谷慶一郎さんのピアノを聴いていた。「ATTAK015 for maria」。最初は確かに両耳で聴いていたはずの旋律が間もなく皮膚を通してまで聞こえてくる。美しく滲み合う音色がそのまま体内に入り込み、苦しみや恐れを伴った自我を滲出するかのような感覚が頭や身体のあちこちで起こった。ピアノの音が鳴っている間は、牢獄のような身体もどこかへ消えていったようだった。

 

初めて渋谷慶一郎という音楽家の作品を聴いた。亡くなった奥さまのために書かれた曲は、どれも悲しげな感情を思わせながらも真っ直ぐに淡々と時を刻む。そして、身体中に満ちる音が体内を鼓動する鮮血と混ざり合うと、この部屋に充溢する音楽がCDというメディアに閉じ込められていることすら忘れ、またそれと同時に何度も何度も聴くうちに一回性の呪縛からさえも解き放たれていくようであった。

 

       
       painful 2012.09.11 Keiichiro Shibuya Playing for ...

 

 

文字通り、生きる方法を完全に見失っていた私は、まだ寒いある時季、渋谷慶一郎さんがICCの無響音室で展示をしているということを知り、眩暈や怠さ、吐き気や不眠の連続でただただ朦朧とする頭を振り切り、あまりに久しぶりでやり方を忘れたお化粧をどうにか施し、一番素敵なコートに身を包み、数時間かけてその展示を見にいった。〈for maria anechoic room version〉。

 

 無響室は,部屋全体が音の反響を吸収してしまう素材で囲まれています.わたしたちは通常,周囲の空間の広さなどを音の反射によって把握しています.しかし,この音の反響や反射がなく,外部の音からも遮断された特殊な空間では,自分の位置を空間の中に定めることができない状態になるため,音響的には空間の中に宙吊りになっているのと同じことになります.無響室に入ると圧迫感や不安感などが体験されるのはそのためです.また,その空間の性質を利用して,音を媒介とした聴取者と環境との関係を人工的に作り出す実験が行なわれています. アメリカの音楽家ジョン・ケージ(1912-92)は,かつて無響室に入り完全な沈黙を体験しようとしましたが,音から遮断されたはずの耳に聴こえてきたのは,「血液の流れる音」と「神経系統の音」という二種類の身体内からのノイズでした.それにより,ケージは「沈黙は存在しない」という認識に至り,そこから20世紀の音楽史を塗り替える作品が生み出されたのです.(ICC ONLINE | ARCHIVE | 2010 | オープン・スペース 2010 | 展示作品

 

現代においてわれわれの五感のなかで特に視覚は毎日毎日、強制的に稼働させられている。目に見えるものから見えないものまでさまざまなものが飛び交う環境にどうにか順応しようとする視覚は、それ自体もまた乱暴狼藉たる性質を引き受けざるを得ないかのようである──ほとんど全てのものは視覚の介在を要求し、それゆえわれわれの視覚と外的環境の主従関係は圧倒的に後者によって支配されている。視覚は環境によって陵辱されることによりその主体の精神を庇保しているのである。あるいはまた、目や口を閉じるようには閉じることのできない器官によって組織される嗅覚や、外的環境に対して常に剥き出しの皮膚は、もともと極めて受動的な性質を持つがゆえにその他四つの感覚よりも可能な主体的統制の範囲が狭い(後者の場合はどちらかといえば常に布を纏うなどして保護されることが考えられている)。そして味覚の難しいのは、それが消化器系を始めとする内臓と密接かつ連鎖的に繋がっており、味覚=舌のみを用いることは現実的ではないことである。すると、聴覚というものが雑然とした環境に順応するばかりでもなく、また多くの場合(すなわち幻聴などの場合を除き)他の感覚よりもわれわれの意志に比較的寄り添い得るものと考えることができるかもしれない。

 

なぜこんな長ったらしい能書きをたれているかというと、起き上がるのも億劫なベッドの中の身体がまっくらな部屋の天井を見つめながら、この身体のどこかにまだ私が意志をもって動かしたり、あるいはもっと言えば、鬱々と悲しみにくれるこの気持ちを暖めることができる部分があるのだろうか──お願いだからあってほしい──と、私はいつも考えているからである。以前友人が、ケーキかお饅頭を食べながら、誰に言うでもなく「心が元気ないんだから、身体が頑張ってやれよー」と呟いていたのを聴いて(その呟きの声が独り言にしては随分力強くて可笑しかったのだが)、私は衝撃を受けた。心と身体が同じ組織の下にあるのではなく、まったく別々に一個の人間のなかに存在するかのようではないか。当たり前のことなのかもしれないけれど、私はこの事実に今でも驚愕する思いである。だとすれば、五感もまたバラバラに存在しているはずである(勿論連鎖してもいるけれど、根本的には別々な存在論──「私の存在論」なんかよりずっと根源的なもの──を持っているのではないか)。

 

すなわち、聴覚だけは私の心身がうまく機能しない状況であっても、なにかを聞き取ることができる。そして、その「なにか」というものが──それこそ耳を疑うことに──、美しさを私の心にもたらしてくれるものであったのだのだ。「美」というものは極めて「生」と緊密な関係を結んでいるものであり、より正しく言えば「美」によって「生」は活気付けられ、必要な忘却を与えられ、導かれているとすら言えるのではないだろうか。近代美学の多くが、主体が美を認識することについて思考してきたが、そうではなく、そもそも美がわれわれの知覚や認識に訪れているということが問題なのである。鬱状態の人間はこの世界に美を見出すことができない──美の知覚はちょうど鬱状態の精神と対極にあるようなものなのだ。われわれが美を感知したとき、もう重要なことは(時系列的には)終わっているのである。

 

       
       BLUE 2012.09.11 Keiichiro Shibuya Playing for ...

 

ICCの展示を見に行ったころ、私の鬱状態はいまよりも原因や理由がかなり錯綜としながら随分いろいろあったように思う。つまり、いくつもの悩みごとや自分ではどうしようもないことに、頭や気持ちだけで対処しようとしすぎていたのだ。例えば、あちこちに中途半端に置き去りにしてきた人間関係はその中心的なものだったかもしれない。展示を見に行く前、Twitterで何度か渋谷さんとやりとりをしており、いつか見に行きますと伝えていた。ICCに行くと、たまたま彼が来ていて、無響音室に向かう途中にばったり会った。初めて会ったので、恐らく私から話しかけたのだと思うが、よく覚えていない。ただ、私はいつもきまって深夜にツイートしていたため、私に気づいた渋谷さんは「ああ、あの夜更かしさんの」と言って小さく笑った。展示を見た(聴いた)あと、もう一度渋谷さんと会って、なにかぽつりぽつりと話をした。多くは覚えていないが渋谷さんが尋ねてくれるのに答えるように話をした。私が今とても具合が悪くて、いろんな人間関係を台無しにしてしまったようで、どうしたらいいかわからない……。多分そんなことを言ったのだと思う。

 

「人間関係なんて、そんなもんじゃないの。続いていく関係は、そんなに頑張ってどうこうしなくても続いてしまうし、そうじゃないこともたくさんある。この関係がだめになったら、また別の関係ができてたりするし、そういう変化をただ見てるしかないんだと僕は思うけどね。マリアだってそうだし・・・彼女が亡くなったときは、僕も具合がずっと悪くて、どうしようもなくて、でもしばらくして曲を書こうと思った、というか書くしかなかったという感じだったかもしれないけど。」

 

それが「ATAK015 for maria」なのだ。渋谷さんがそんなふうに話した声や、彼の栗色の瞳が今でも思い返される。そして、私は彼の言った、変化していく関係を追わずに拘らずにただ見ているしかない、ということばによってなにか大きなものを理解したように感じた。それは、頭や理論では分かっていたあまりに当たり前な事柄かもしれない。でも、あの時、彼がそう話してくれたということがなによりも重要なことのようだった。既に知っていたことなのに、初めて理解したのだ。人間関係は、私のものではないのか。身体の力がすーっと抜けた。

 

表現がこの根源的機能を果たしているかぎり、表現は、決して純粋にそれ自身であるのではない。純然たる表現性が立ち現れるのは、伝達作用が中止されるときだけなのだ。/実際、伝達作用において、何が行われるのだろうか。知覚可能な(聞き取れるあるいは目に見える等々の)現象は、その現象に意味を与える主体の諸作用によって生気づけられるのであり、その主体の志向作用を別の主体が動じに理解しなければならないのである。ところで「生気づけ[アニマシオン]」は、純粋でも全的でもありえないのであって、身体の非−透明性を通り抜けねばならず、ある意味ではそこでみずからを失わざるをえない。「しかし、こうした伝達作用が可能になるのは、そのとき聞き手が話し手の志向作用をも理解する場合だけである。そして聞き手がそれを理解するのは、聞き手が話し手を単なる音を発する者としてではなくて、自分に語りかける人物として、したがって音声を用いて同時になんらかの意味付与作用を行う人物として把握するかぎりにおいてなのである。何よりもまず精神的交流を可能にし、互いを結びつける言述を言述たらしめているものは、相互に伝達し合う人物たちの物理的体験と心的体験のあいだ──言述の物理的側面によって媒介された──この相関関係に存するのである」〔第七節*1〕。(ジャック・デリダ『声と現象』林好雄訳, 筑摩書房, 2005, pp. 84-85)

 

こんなふうに、理解というものがどういう現象かを考えていると、人々がなにかを理解するということの少なくない要素が他者(からの語りかけ)であるのだから、理解というものがほかでもない人との繋がりの証なのだと思う。人との関係は、隣にいて語り合って笑い合っているときばかりではなく、中断されもう終わってしまったようにみえるその時にもまたそれまでとは違う意味を持って続いているのだろう。そしてそれならば、現前する人間関係ばかりに気をとられることもないのかもしれない。

 

(それでもやっぱり苦手だけどね :P )苦手も気にならなくなればこっちのもの。

  

       
       sky riders / 渋谷 慶一郎 - YouTube

 

 

  

*1:エトムント・フッサール『論理学研究』1-4, 立松弘孝訳, みすず書房, 1974-2000.

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