de54à24

pour tous et pour personne

「作者とは幸いにして人間ではない」

毎晩本の読み聞かせをしてくれていた母の努力の甲斐なく、私は小さい頃から読書というものが好きではなかったし、もっと言えば苦手ですらあった(今でも時折本から学ぶことの多さや、若者に本は素晴らしいと説くものをみては、この人は本がなきゃ多くのものを学べないのか、と捻くれたことを思ったりする)。伝記や物語の類は勿論、漫画や雑誌ですら読むのが苦痛で、小学生の頃は「りぼん」などの月刊の少女漫画雑誌が発売された翌日、学校では決まって友人達がその話題で持ちきりとなるのを随分面倒に思っていた。中学校に上がれば、少女漫画の話題がジャニーズの話題に取って代わったが、如何せんタレントの顔と名前が合致しないし、誰が好きかと訪ねられてもどれが誰なのかすら把握していない(加えて、私は根っからのL'Arc〜en〜Cielの大ファンだったため、新たにカワイイ顔の男の子を開拓していこうという気にもならなかった)。話題に乗ろうと何度か「Myojo」とかそういう雑誌を買ってみたものの、(集英社は随分ミーハーな出版社だなぁ、と思うくらいで)事態はなにも変わらなかった。

 

しかし、私が本を読むということに憧れを持ったことがなかったわけではない。そのきっかけのひとつが10歳の頃に出会い、それから小学校を卒業するまで一番仲のよかった友人であった。幼い頃によくあるただいつも一緒にいるということに支えられた友情ではなく、私は彼女を尊敬し、彼女の在り方に憧れてすらいた。彼女は非常に読書家で、勉強もでき、なにより友達関係においてとても公正な女の子だった。私は昼休みになると彼女に連れられて図書室に行ったり、また(なぜか)図書係だった私に付きそって一緒に図書室に来て、私の仕事が終わるまで窓際の棚に座りながらいつも分厚い本を熱心に読みふけっていた。すらすらと文字列を追う彼女の視線を度々見つめては、この子の頭のなかは一体どうなってるのだろうと思っていた。その頃彼女が好んで読んでいたのはアガサ・クリスティの探偵ものや小学校高学年向けに編まれた世界全集であったように思う。

 

そんなことを思い出しながら、今日は本棚の整理をしていた。数ヶ月前に引っ越したとき、「取り敢えず」書架に突っ込んでおいたままであった本がずっと気になっていたのだが、なかなか手が出ないまま年末になってしまった。整理したとは言え、今暮らしている部屋にあるだけでも恐らく2000冊か3000冊以上はありそうな本を片づけるというのはなかなか気力体力の要るものであり、今のところ文庫本を並び替えたところで力尽きている。ビールのみたいなぁ、スキー場行きたいなぁ、なんて。

 

約8年の間に、少しずつ学び、少しずつ買いそろえた蔵書は、やはり大切なものである。この小さい部屋に何百人もの先達の残した記録、何万ページもの知的格闘、何千万文字が語りかける声なき声とともに籠もっているだけで、疲れ果てた心身がごく僅かでも恢復するような気がする。しかし、この本の山は、果たして私の夢であったか。あるいはまた、目標であったか。

 

読書がきらいなのに、いつのまにか文学部に籍を置き卒業し、大学院では日本語のみならず今度は英語やフランス語、ドイツ語やイタリア語の文献と格闘している(もしくは、そんな振りしてただ眺めている)。私は読書のみならず語学学習も昔から大の苦手としているため、自分の目標や夢を求めて精勤していたなら絶対にたどり着かない場所に漂流しているのである(学校の勉強でいうならば、数学や化学といったものが好きで元素周期表などもあっというまに覚えたのだが、語学や社会科はいつまで経ってもまったくもってオノマトペ状態であったため、英語学習に関しては文法も単語もなんだか理解できず、苦肉の策と言わんばかりにただ教科書を隅々まで暗記していたほどである)。

 

hatenaでブログを書いているひと(の一部)は、どうやら夢とか目標とか自分らしさとか、そういうのが大好きらしいが、例えば「自分の目標」「自分の夢」「自分らしさ」*1といったようなものを、未来に向かって規定したところで一体なにになると考えているのだろう。規定する側の自分も、される側の自分も、共に自分ですら見たこともない60兆個の細胞が日々ウヨウヨと生きたり死んだり分裂したりしているという現象の上にしかないものであるのにも関わらず、何をもって「自分の目標」や「自分の夢」、そして「自分らしさ」と言っているのだろう。たとえばそれは病や怪我よって自分の細胞=心身が犯さてもまだ「自分の」目標や夢と呼べるものなのだろうか。

 

本を読むのがあれほどまでに不得手であった私が、どういうわけかこんなにも多くの蔵書とともに暮らしているのだ、勢い込んでわざわざ大きな夢だの目標だのを掲げなくても、いずれたどり着くところにたどり着く。もともとそれを不器用に望んだりもしていないのだから、それが自分にとって望ましいか否かなどということは問題にもならない。目の前、手元、足下にある課題に実直に向き合うまでである。それに、目指そうが目指すまいが今日辿り着いたどこかでさえも、仮の埠頭なのだ。私たちは、望むと望まないとに関わらず、細胞を入れ替えて生きる限り、またどこかへ向けて必ず舵をとらざるを得ない。

 

たとえ、開かれた自己であるとか、閉じているからこそ開かれる自己であると言ったとしても、同じことである。人間は約六十兆個の細胞からなる。細胞はまさに自己である。とすれば自己を「心臓・筋肉・神経・細胞に帰さなければならない」(『襞』*2)。これは途方も無い事態であって、ここに至っても自己概念が有効だと思う方がどうかしている。自己はとうに崩壊しているのである。現段階では、哲学的にも科学的にも自己概念を解体して放棄したほうがよい。いまや「自己」は思考停止語である。(小泉義之ドゥルーズの哲学──生命・自然・未来のために』講談社, 2000, p. 108)

 

 デカルトの専門家でありながらフランス現代思想や生命論なども研究しておられる小泉義之先生の「自己」に対する徹底した批判を思い出せば、なぜ「自分の目標」や「自分の夢」を持たなくてはと奮起している人々が、どこか自分でも何を言っているのか分からないといった風の不安げな様子にとらわれているのかがわかるような気もする。(ちなみに小泉先生は教室でも書物でも、フランスの大哲学者から日本の研究者仲間まであらゆる言論に対し、まるでケンカを売ろうとしているかのように批判をするのだが、その知的な若々しさに私のまわりにも熱狂的なファンが多い。学部時代、彼の授業を履修すること称して私たちは「洗礼を受ける」と呼んでいた。そして洗礼を受けずに卒業するなかれ、というのが鉄則であった。いつも大学のそばの24時間営業のカフェでコーヒーを飲みながら夜遅くまでフランス語の本を翻訳している彼の姿は、今でも我々学生の尊敬と憧れのイコンである。)

 

そういえば、松浦寿輝先生が御退官を前に行った講義で、ポール・ヴァレリーの「作者とは幸いにして人間ではない」という言葉について次のように述べていた。

 

ヴァレリーが言うには、批評とはすべて、人は作品の原因であるという時代遅れの原理に支配されている、それは法の目に犯罪者が犯罪の原因と映っているのと同様なのだ、と。しかし実際はむしろ逆であって、人は作品の結果であり、犯罪者は犯罪の結果なのだと、彼はそう言っています。/(…)わたしはある意味で、自分の言いたかったことは自分の本の中にことごとく書いてしまいましたので、わたしという人間自体は実は、まったくの空虚というか、中身が空っぽの容器のようなものでしかない。むしろ三十数冊の書物の照り映えとして、あるいはその「効果」としてここに立っているにすぎないという印象を持っています。(松浦寿輝『波打ち際に生きる』羽鳥書店, 2013, p. 3) 

 

夢や目標を持っていないことは問題ではない。むしろそんなもの持っていないひとの方が、ここにある仕事にずっと深く専心し、着実に実績を上げている。しかし、夢や目標を持たなければならないというある種の強迫観念は、もっと根が深い問題であるようにも感じられる。その理由はおそらく、夢や目標を語りたがるひとが、「夢」や「目標」が「自分らしさ」を叶える唯一の手段であり、その「自分らしさ」という個性はまた、その人の存在意義を確かに保証してくれるほとんど唯一のものであると信じ込んでいる(信じることに盲従している)ことかもしれない。

 

「夢や希望を持たなければならない」=「夢や希望をもてばよりよい人生が得られるはずだ」という思考回路が恐ろしいのは、夢や希望というものを巡る「自己」が何一つ疑われることなく、盲信されていることに起因するように思われる。自己という概念の脆弱さや不可能性を認めるならば、そんな強迫観念など結局のところ私たちが夢や個性と出会うことを邪魔するものですらあるということに気づかざるを得ない。しかしまあ、こういう話はいつどこで始まっても終わりのない議論であるのだが、自己についての話をすると決まってまず「自己」や「自分」という字面や響きに酔うのである・・・。

 

そして開眼。学術書研究書の類のいいところは、科学というルールに則って書き手が須く自己を殺すという段階を経ている(少なくともそうあろうと試みている)ところだな。研究に研究者らしさは無用なのだ。

 

 

 

*1:この「自分らしさ」、すなわち個性というのは、単に個人の問題のみならず、より広い社会的な位相における問題でもあるようだ。大学や会社、研究や商品など、それぞれ皆「らしさ」を求めて躍起になっている。

*2:ジル・ドゥルーズ『襞──ライプニッツとバロック』宇野邦一訳, 河出書房新社, 1998.