de54à24

pour tous et pour personne

『精神医学は対人関係論である』

今の主治医に出会ったのはおおよそ二年半前。それまでにも、ここ数年の間に現在の病院の内外で三人の精神科医に掛かっている。初めて精神科に掛かったティーンにもならない頃から換算すれば約二十年、七人目の主治医にしてようやく信頼のおける病院、医師と出会ったことになる。この二年半の間の週に一度の通院は、毎回五分から十分のごく短い面談ではあるが、生活を改善する具体的方法を私自身が見いだしていこうとするにあたって、非常に心強いサポートとなっている。

 

主治医は決して、私になにかをしなさいと言わない。たとえそれが治療となることであれ、治療を阻害することの中止であれ、私が要求するまで絶対に指示することがない。以前の病院ではうつ病という診断のもと、私の場合特にひどかった不眠を改善するために、膨大な量の導入剤、睡眠剤、安定剤を処方されいた。錠数では薬の量は量れないが、それでも眠るためだけに20錠近くを服薬していた。そして悪いことには、それでもまだ眠ることが叶わなかった。しかし、それだけの薬を服用していれば当然、今度は副作用のほうが問題になる。病気で体調が悪いのか、それとも薬の副作用のためか、もはや酩酊状態の私自身にも、そしてまた処方箋を書いている医師にさえも分からなくなっていた。

 

入院を機に、それまで掛かっていた総合病院とは別の精神科のみを専門とする大きな病院に掛かることにした。ちょうど大学の卒業と重なる頃ではあったが、卒業どころかキャンパスに休学届を出しに行くのもままならない状態が続いていたため、その頃はもう大学やその後の身の振りについて考えるのはやめていた。事情があって家族の手を借りることができなかったため、入院準備もそこそこにひとり朦朧としながら山の上にある病院を訪れた。

 

最寄りの駅から丘を登ったところにある病院は、二棟に分かれており、南西側が一般病棟、北東側が閉鎖病棟となっていた。一応どちらがいいかと訪ねられたので、一般病棟を希望した。この場合、三ヶ月を限度に入院が許される。もしそれ以上経っても改善が見られない場合は閉鎖病棟へ移動しての治療となる。実際、入院中に出会った患者さんたちの一部は入院して三ヶ月目が終わる頃に退院するか閉鎖病棟に移動していった。無論、三ヶ月という時間を様々な理由で耐えることのできない人も少なくなく、彼らは医師や看護師が止めるのを振り切ってほとんど無理矢理に退院していった。

 

一般病棟の一番上の階の角部屋に通された私は、部屋の片隅にある大きなソファーに段ボール一つか二つ分くらいの本を積んだ。もはやそんなに多くの活字が読めるはずもないのだが、万が一読みたくなったら、読める瞬間が訪れたら、それを絶対に逃したくないという思いだけで、それだけの本を運び入れた。何冊か読んだように思うが、佐々木中さんのいわゆる「切手本」くらいしか記憶にない。そんなふうにして(学生としての、そして卒業への)義務感から本に埋もれる私を見ながらも、主治医はそのことについてなにも言わなかった。

 

「読むこと」は聞き取りでも目で読むことでもない(…)その両方であり、そのどちらでもない「何か」である。声を目で読み、文字を耳できく。その二つがまだ分離していない、未分化であるままの、一糸まとわぬ裸体の「読み」そのものがここで出現している。(佐々木中『切りとれ、あの祈る手を──〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』河出書房新社, 2010, pp.102-103)

 

なにも言わない、とはいえ、患者の訴えをただ聞いてばかりいるわけでは、もちろんない。主治医は、私が訴えるあらゆる愁訴に対して、まるで理工学部の実験レポートのようにきわめて具体的な所見と対応策を提示する。たとえば、本が読みたいのだけど読めなくて不安になると言えば、脳の論理を司る部分が今はこれ以上動けないと言っているのだから、たとえば他の部分を使うようなことをしてみてはどうか、と言う。あるいはまた、食べ物の味がしないと訴えれば、内臓が疲れていていまは消化吸収が十分にできていない可能性があるから少し休ませてみてはどうか、と提案するだろう。すべての患者に対しこのように冷静すぎるほどの理詰めで対応しているとは思えず、おそらく主治医がこのように話すのは、私の性格や思考の習慣をこの数年の間に徐々に理解した上のことであろう。

 

それまで私の主治医を務めてくださっていた精神科医は、もっとずっと命令的であったり、高圧的であったり、反対にしゃべらなかったり、明らかにマニュアルに沿った対応だけをしていたりするケースが実に多かったために、今の主治医の語りかけに私自身がちゃんと耳や心を傾けられるようになるまでにも幾分時間が要った。しかし、決定的だったのが入院して数日後、主治医は私の病名をうつ病から双極性障害ii型に変更し、処方箋をすべて書き換えたことだった。病気の症状としては類似や近接するところも多いこの二つの精神疾患だが、使う薬や精神療法には少なからず違いがある。加えて、私が毎晩膨大な量を服用していた睡眠剤の類を処方箋からすべて削除した。曰く、睡眠剤が反対に覚醒をもたらすケースもある、ということだった。そして、いわゆる精神安定剤と向精神病薬の副作用を利用して眠りをもたらすという策をとり、それからは徐々にではあるが私の生活に睡眠というものが戻ってきた。

 

そこからはもうとにかくゆっくり待つしかない、と自身に言い聞かせながら、学業にも復帰し、本を読み、論文を書くことに専念した。私は昔から趣味らしい趣味もなく、定期的に愚痴をこぼしながらお茶を飲んだりする友人もなく(正確には、そういう友人はいつも必ず何人かいるのだが、私にはそれよりも優先順位が高いものが存在するために自ら疎遠になっていく傾向がある)、そういう自分の生き方に対してもさして不満もなかった。

 

(ネット住民たちはみずからの孤独をひきこもりだのコミュ障だのメンヘラだのということばで飾るのを愛しすぎているが、あまりに社会化されすぎないというのは、近現代人にとっての尊厳であるということを知らなすぎるような気がする。)

 

私のような人間にとって、日々を蝕む病とその苦痛を少しでも軽減することの目的と動機は、他でもなくより多くの本を読み、より正確にものを洞察し、より明晰な論文を書くこと、それに終始した。これは今でもまったく変わらない。なによりも先にまず研究を優先すること、研究の出来不出来はまず措いておくとしても、そのような優先順位をはっきりと持つことで私は人生に迷わないでいられることを心得てきたのだった。

 

まじめな人はうつ病などの精神疾患を患いやすい、仕事ばかりに自らを注ぎすぎた結果心のバランスを崩す、そういう言説はもはやなにも意味するところがないもののように人々の意識にまで流布しているが、まじめに生きることや仕事に誇りを持つことが悪いはずがない。もし、それらが精神的な病気と関係あるとすれば、それはむしろ、まじめに生きることや仕事に専念することで続いているある人の生きられた時間が、自身では制御不可能ななにか他の外的要因によって著しく防遏されている場合なのではないだろうか。まじめに生きることが出来ない、仕事に専心できない、それはとてもつらいことである。そして、そのような状況に足下をとられて数年という月日がすでに経過していた私が次に対峙しなければならなかった問題は、「ない袖は振れない」というこの現実をどう生きるかということであった。

 

具合が悪い自分というものが持つ可能性はとても制限されたものであったが、「しかたがない」では納得ができるわけもない。そんなときも主治医は、「なにかをせよ」とも「なにかをするな」とも言わなかった。毎回の診察で、彼が私に辛抱強く伝えたのは、私の現実がどのようなものであるかということだけであった。諦めなくてはならないものの多さと重さに、絶望的な気分になっていたこともあった。しかし、主治医によって私に提示されたのは、その絶望的な今より先の未来ではなく、あくまでも「今の私ができないことはなにか」であった。そして、よくこのように語りかけた。「具合が悪い今、なにかを考えても、その体調ではすべてが暗闇のなかにあるように思えてしまうでしょう」。その深く鬱蒼とした暗闇は、しかし、私が今現在抱えている心身の不調から発したものであり、それ以外になんの根拠も持たないのだ。

 

これほどまでにシンプルなことですら、私は自分で考えられなくなっているのだと、その時改めて自分をみた気がしていた。いや、そうではなくむしろ、私は未だかつてそういう物の考え方をしたことがなかったような気すらしていた。体調が改善すれば、気分もまた今とは違うものになっているだろう。気分もかわれば、自分の現実や将来の可能性は今よりずっと広がってみえるはずである。風邪をひいて40℃近い熱があれば、誰もディズニーランドで遊びたい、ミッキーと戯れたい、などとは思わないし、またそれがどのように楽しいことなのであるか、想像することも容易ではない。

 

私は、この病に拘泥している無益な痛みのなかですら、自分が変化していることに驚いた。新しいものの考え方を体得するというのは、それだけで活気づくものだった。自分の認知と思考の変化に思い当たってからは、心もまたさらに晴れやかになってきたように思えた。いい変化である必要はない。ただ変化していることが重要なのだと思う。いい/わるいの価値判断はその時々の立場によってなんとでも変わるが、変化という現実は価値付けに関わらずそこに存在するのだから。そしてまた、病の改善というのも変化のひとつであることには違いない。であるとすれば、精神科医との二人三脚の治療はほかでもない人間関係、すなわち人間に変化をもたらすものである限りにおいての「人間たちの関係」そのものである。多少なりともパッシブにみえる七人目の主治医が持つ患者へのこの静かな理念の実践(=実験 practice)に私は共犯となり導かれているのだろう。

 

と、ここまで書いて、なんてH. S. サリヴァン*1調な話・・・と若干閉口しもするが、まあ覚え書き程度によしとしよう。

 

私はある意味で、多すぎるほどの愛情を両親から注がれ、それにとどまらず、祖父母や親戚、学校の先生や友人たちにも恵まれていた。彼らとのつながりを疎ましく思うほどに恵まれていたと思う。そのため、あまり誰かを心から求めたことがないようにも思う。しかしここにきて、治療という意図のもとに(主治医のみならずその他の多くの人々ともまた)人間関係を築くことを改めて必要としている自分に気づき、それをただただ物珍しげに眺めている。それはあたかも人間の想像力が描くアンドロイドが人間の心を持ったときのようである。そして、少なからず自分が他愛もない人間であることを見出し、躊躇いと誇らしさが混ざったような心持ちで日々を過ごしている。

 

  

*1:H. S. サリヴァン『精神医学は対人関係論である』中井久夫ほか訳, みすず書房, 1990.